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ヴァニッド教諭によるダナン語の講義は、テレアの想いとは裏腹に至極真面目に行われる。
ダナン語は文法だけではなく発音も難しい。少し間違えば全く意味が異なってしまうので、非常に厄介だ。
「『私は明日美術館に行きます』、言ってごらん?」
「『ワタスハ今からひしゅすかんにトビます』」
「難しいようだな、一単語ずつ行こう。『私は』」
「『わだシワ』」
「もう一回、『私は』」
「『わたしわ』」
「いいぞ、その調子だ」
一対一なので、学習院の講義よりもずっと厳しく執拗に指導される。
しかし、その分完璧に仕上げることができるので、恋愛感情抜きにしても、やはり有意義な時間だとテレアは感じていた。
学習院の教授方は、教えることよりも自らの研究のために学習院に勤めていることが多い。
よって、説明や解説がかなり適当で、大半の生徒が理解していないまま講義を進めることがほとんどなのである。
テレアが受けているダナン語の講義担当のミズホシ教授は正にその典型で、説明は難解、かつ試験は異常に難しくて、毎年多くの人がその講義を落としている。
テレアは、ダナン語の担当がミズホシ教授であると分かった時、単位を諦めようかと思ったぐらいだ。
徹底的なヴァニッドの指導は、必ずいつも半刻ほど勉強したところで休憩に入る。
初めてヴァニッドの講義を受けた時、連続で2時間ぶっ続けで勉強してテレアが根をあげたので、この形をとっているのだ。
そろそろ休憩する時間。そして、それは遂にテレアの決戦の時が訪れることを意味していた。
「もう30分だ。休憩に入ろうか」
ヴァニッドの宣言で、いよいよその時間が訪れる。
テレアの身体が強張り、右手が安定する場所を求めてそわそわと疼きだそうとするのを必死で押し込めた。
テレアは必死だった。緊張しないこと。絶対髪は触らないこと。なるべく自然に、デート、いや、デートなどと言ってしまうと緊張してしまうから、これはただ単なる外出だ。自分の母国のいい所を、異邦人であるヴァニッドに知ってもらうための。
「テレア嬢?大丈夫か?」
ヴァニッドの声でテレアは我に返った。少し意識を飛ばしていたようだが、右手は大人しくペンを握っている。まだ挽回できる。
気を取り直して、ついでに座り直して、咳払いまでしてヴァニッドに向き直った。
「ヴァニッド様」
「? 何だろうか」
テレアの真剣な表情に自然と居ずまいを正すヴァニッド。
凛々しいその表情に思わず見惚れそうになるが、自分を叱咤して続きを紡ぐ。
「この2ヶ月、ヴァニッド様に大変良くして下さいました。もう、こちらが申し訳なくなるぐらい」
「いや、私が楽しんでやっていることだし、菓子の提供をしてくれたりミスリラ王国の話を沢山聞けているので、あまり気にしなくとも良いんだが」
苦笑してそう言いながら、ヴァニッドの目が何かを探すように動き、休憩時間の為に用意された紅茶のカップに止まる。
メリザが長年培った技術をもってして入れられたそれは、ミルクも入っておらず透き通った赤橙色をしていた。今淹れたところで、湯気と共に豊かな香りが鼻を抜ける。
ヴァニッドはカップをソーサーごと少し手前に移動させた。動かしたことで紅茶の水面が揺れる。
そこに映る彼の表情は、様々な強い感情が耐えられずに溢れていた。
テレアの方は癖が出ないように必死で、ヴァニッドの動きにも表情の変化にも気が付かない。
「気にします!あと、それと、ついでに言うと、ダナン語の試験も、いや、もうすぐですが、教えて頂いたお陰で、自分1人でも勉強できるようになりました。だから、次の試験もきっと、上手くいくと思います。それで・・・、ですね、あの!」
今まで教えて頂いたお礼として、次の休日の勉強を少しお休みして、一緒に街に出かけませんか?
テレアがそう口にしようとすると、ヴァニッドの腕が不意に少し不自然な軌道を描いて紅茶のカップを倒した。
幸い濡れて困るような紙類は被害に遭わなかったが、手前に倒したことでヴァニッドの服に熱い紅茶がかかる。
「熱っ!」
「へっ、あ、まぁ、大変!メリザ、布巾を持って来て!」
突然のことに自分が何を言おうとしていたのかも忘れて、慌ててメリザに指示を出す。
紅茶を粗方拭くことはできたが、ヴァニッドの服にはこぼした紅茶による大きな染みができていた。白いシャツが台無しだ。
夏が近づいてきたことで薄手の服しか着ていなかったようだが、火傷はしていないだろうか。
「いや、面目ない。こんな失態を晒してしまうなんて」
「お気になさらず。それより火傷はしていませんか?」
「恐らく大丈夫だが、見てみないと分からんな。どちらにせよ服も着替えなければならない。悪いが今日の勉強会はここまでにしても良いだろうか」
「そうですね、火傷をしていらしたら大変ですもの」
本当はもっと一緒にいたかった。しかし怪我をしてほしくないという気持ちが勝り、半分自分に言い聞かせるように呟いた。
「すまないな、この埋め合わせはまたいつか」
「えぇ、楽しみにしています」
颯爽と去っていくヴァニッドの後ろ姿を見送った後、テレアはふと今日の目的を思い出した。
それと同時に、それが果たせなかったこと、そしてその原因に思い至る。
嫌な予感がして、テレアはそうっとメリザを伺う。
「ねぇ、メリザ、一つ質問してもいい・・・?」
「どうぞ、テレアお嬢様」
テレアは昔、メリザがテレアに敬語を使うのを泣いてやめさせた。
それからというもの、メリザは二人しかいない時は敬意の欠片もない話し方をする。
そのメリザが敢えて「お嬢様」と呼んだ。呆れている証拠だ。
「今日、私は髪を触っていたかしら・・・?」
「えぇ、ばっちりと。モルターニ次期伯様をデートに誘おうとしたあたりで」
あぁ、やってしまった。あんなに気を付けていたのに。
つまるところ、そう、テレアはまたしても失敗してしまったのだ。