ユニコーンと義勇兵
ユニコーンは泉の向こう側から、その青年を見ていました。
青年はそれに気が付いていましたが、ユニコーンが、気の荒い生き物だと知っていたので、顔を上げずに、掌を杯にして水を飲んでいました。
「俺はこれから死にに行く。だが、どこで死んでも同じじゃない。一人でも多く、我が民族を蹂躙した輩を倒してからでなければ、死んでも死にきれない。夢とも現とも知れないユニコーンなどに、目をつけられて、こんなところで命を取られでもしたら堪らない。」
森はいつからか、歌い交す鳥たちの声も絶えて、しんとなっていました。
潤った深緑の葉を茂らせた対岸の木々の中で、ユニコーンの白い馬体は、一層浮き上がって見えました。その尾を揺らす、かすかな動きさえ、青年は、視界の片隅にはっきりと見て取れたのです。
「俺の耳がおかしくなったのか。それとも、ユニコーンの仕業なのか。いずれにしても、こんな得体のしれない森からは、早々に退散した方が良さそうだ。」
青年は、泉の傍に放り出していた、背嚢とライフル銃に手を伸ばしました。
そして、こう自嘲しました。
「俺が乳飲み子だった頃、猩紅熱にかかって、手の施しようがないと医者にも見放されたところを、ユニコーンの角で清められた泉の水を飲ませたら、次第に熱が下がって持ち直したのだそうだ。母親がそんな夢みたいな作り話を繰り返しするものだから、いつか俺もこんな馬鹿らしい幻覚などを見るようになってしまった。」
しかし、青年は背嚢もライフル銃も掴むことができずに、仰向けに転がって苔むした岩の上に横たわりました。
青年は、自分が前線から逃げ延びたものの、もう一歩も歩めないほどの深手を負っていたことを、思い出しました。
「くそっ、くそっ。俺の夢想した大義の、なんと子供じみていた事だろう。俺が野営地や小村や塹壕で、泥と汗にまみれながら見たのは、弱者に対する病的な憎しみと、血と欲に飢えた獣たちと、それらに盲従するか、取り入って居場所を確保しようとする、奴隷根性が染みついた冷笑家たちの群れでしかなかったのだ。」
青年は冷や汗なのか苔の湿り気なのか深手の影響なのか分からない、背中に広がる寒気を感じながら、傷の具合を確かめるために、胸と脇腹を恐る恐る触ってみました。
すると、そこに感じたのは、二十代の張りのある皮ふや、肉の弾力ではなく、痩せて浮き上がったあばらに、薄い皮が張り付いてだらしなく垂れた、貧弱そうな老人の肉体でした。
「若い時には、自分にはまだ十分な時間が与えられていると感じるものだが、歳を取るにしたがって、人生とはあっという間なものだと気が付くようになる。さんざん心配や苦労を掛けた母は、もうとっくにこの世にいない。思えば俺のような出来そこないの息子でも愛し、励ましの言葉を与え続けてくれたのは母だったではないか。今では兄弟も俺を憎み蔑んでいるし、女も出て行ったし、俺の相手をする者など誰もいなくなった。本当に一人ぼっちになってしまった。」
老人はあまりの自分の愚かさや惨めさに顔をしかめると、深い嘆息を漏らしてから、重い体をよじらせて、やっとのことで苔の岩に座り込みました。
すると、岩についた手が、まるでしなやかで繊細な少年の手のような美しさだったので、老人は驚いて泉をのぞき込みました。
水面には、十代の、色白で内向的な少年の顔が映っていました。
ぼんやりとして、少年が顔を上げると、泉の対岸には、あの純白のユニコーンがいて、最初に見たときと同じように、こちらをじっと見つめていました。
少年は、全てがユニコーンの見せた夢だった事を悟ると、崩れるように体を折り曲げて、苔むした岩に擦りつけるほど深々と頭を垂れて、うずくまりました。
恐ろしさと安堵で、少年は全身を小刻みに震わせていました。そして、また違う人間にされはしないかという不安が、少年を突っ伏した姿勢から動けなくしました。
しばらく、少年は泉の傍で緊張しながら、うずくまっていました。
やがて、頭上の茂みの中で、梟が物憂げな声でぼそりぼそりと鳴くのが聴こえて来ました。
辺りはすっかり暗くなっていて、少年が恐々顔を上げて対岸を見ると、真っ黒な森の茂みが帯のように広がるばかりで、どうやらユニコーンは、いなくなったようでした。
少年は、月明かりの中で、自分のそばに投げ出された背嚢とライフル銃を見ました。義勇兵に志願するつもりで、家族に内緒で家を出て、験担ぎに、母から教わったユニコーンが清めたという泉の水を飲みに来た事を、この時ようやく、少年は思い出しました。
少年は、まるで自分の体ではないように、よろめきながら立ち上がると、重い背嚢を背負い、ライフル銃を肩から提げました。
そして、夜の虫たちが奏でる様々な音色にすっかり満たされた森の道を、母と兄弟が心配して待っているだろう村はずれの家まで、少し目頭を熱く感じながら、とぼとぼと帰って行きました。
完