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第8話

 裕奈が帰り、勲一人店内に残る。取り敢えず営業は続けたまま、また例の如くお気に入りの喫茶スペースに腰掛け例の本を眺めている。『例の本』、名前なんてない。なんて呼ぶかも決めていない。裕奈に説明する際も代名詞でしか表現していない。何ものなのだろう。自然と使ってきたが、ここにきてそれに対しての今まであまり感じなかった興味と若干の疑念が湧く。

「おばあちゃん、何処でこの本手に入れたんだろう?」

 手紙が挟んであり、自然と勲の手に渡ったその本。ただ譲り受けただけ、由来や所縁は書いていなかった。書き忘れたのだろうか、それとも伝えることができない何かがあるのか。勲は手紙を取り出し読み返してみる。しかし、そこにはあれ以上のことは書かれていない。

『おばあちゃんにしか使えない』手紙に書いてあるこの一言。その前後がわからない。曾祖母はどうだったのか、それこそ母はどうだったのか。母方の家計のため、母が使っているという可能性は否定できない。しかし、そんな話を母から一度も聞いたことはない。それに、祖母の手紙に母のことは一つもかかれていない。推測するに、このことについては一代飛ばされて事実を伝えているのだろう。恐らく間違いない、勲は自分の中でそう結論付ける。


 この本屋、及び家は曾祖母の代からここに存在している。この街の発展を見守ってきた、街の主のような存在。自分から数えて三代前から、色々とみてきた。古く残る写真が家の中に飾ってあり、それを見ては歴史を感じる勲。それが余計にこの本屋への愛着を深くさせている。だからこそ、母が嫁いでここに戻れないとわかった時、自分がここに来ようと思った。

 祖父母と一緒に暮らせた時間はそう長くない。だが、とてつもなく密度の濃い数年だったことは間違いない。それが今更に濃くなろうとしている。

 先程裕奈との出会いの際男に戻っているため、本に触れても何の反応も示さない。まず一つ確実なこと、「勲が女装しない限りその現象は起こらない」ということ。

「もしかしたら、僕じゃなくてもなんとかなるのかな。今日澤北さんが触った時の反応、いつもと違ったし…」

 祖母でもわからなかったこと。もしかしたらわかっていたかもしれないが隠していること。それがなんとなく自分に与えられた宿題のような気がしてきた。明日裕奈が来たら、もう一度試してみよう。色々と考えているうちに次の客が来た。


―――


 翌日、裕奈が改めて店を訪れる。その際勲の格好は男のまま。

「こんにちは。すいません、毎日のように」

「いえ、とんでもない。早くしないと消えちゃいますから」

 何も記憶が消しゴムで消されるようにまっさらになってしまう訳ではない。徐々に薄れていく、普通の人間の記憶と同じもの。だが、外部からもたらされているため、自分が見て聞いたものと違い劣化が早いように感じている勲。

「じゃあ、さっそく」そういって、裕奈がカバンからスケッチブックを取り出す。

「じゃあここでいいですか。あ、ちょっと待ってください」

 店の入り口まで言って、看板を「Close」に変える。臨時休業、この時間だけは二人で過ごさないと意味がない。

「いいんですか?」

「構いません。集中しないと、僕もちゃんと伝えられそうにないので」

「わかりました。じゃあ遠慮なく」

 いつもの席に座る。向かい合って、片方はスケッチブックを膝に乗せ、もう片方は机に手を乗せ。入れておいたアイスコーヒーは双方取り敢えず気にせず。


「じゃあ、漠然とで構いません。どんな街ですか?」裕奈から質問される。

「えと…、そんなに大きいビルは見当たりません。東京ではないと思います」

「特徴的なものってありませんか? 建物でも景色でも、なんでもいいです」

「遠くに、山が見えます。富士山とかそういうのではなく、なだらかに山が連なってる感じです。海に面した街じゃないのは確かです」

 鉛筆を走らせ始める裕奈。そして「続けてください」と一言。

「古い町並みです。決して近代的じゃありません。昔から残っているような古民家で構成されているような、そんな感じです」

「家の感じはどういったものですか? 何階建てで、色とか窓とか、玄関とか。出来るだけ細かく」

「そうですね…」

 ここから暫く勲と裕奈の記憶を起こす問答が続く。ゆうに2~3時間に及ぶことになる。


「ふう」裕奈が一息つく。既に書き始めてから数時間、4~5枚の絵が完成している。

「お疲れ様です」

「難しいですね、やっぱり。人の記憶の中の景色を声で聴いて画に起こすのは」

「やっぱりそうですよね」

「どうですか。見て近いなって画、ありますか?」

「ちょっと失礼。あ、コーヒー薄まっちゃいましたね。淹れ直してきます」

 書くことだけで過ぎた時間。コーヒーに一口も口を付けなかった二人。氷が解けて薄まっている。勲が席を立ち改めてコーヒーを淹れる。

「ありがとうございます。ここのコーヒー美味しいから気に入っちゃいました」

「そうでしたか。祖父から教えてもらったんです」

 お湯を沸かしながら豆を挽いている勲が答える。椅子に掛けて待っている裕奈を見ている。「なんて画になるんだろう」何か本や雑誌の表紙に出来そうな一枚が撮れそうな光景。例の不思議な現象より、当然だが現実的ではあるが吸い込まれてしまいそうな裕奈と本屋。カメラマンなら間違いなくシャッターを切っているだろう。

「町村さん、コーヒー!」裕奈から声が飛んでくる。

「え、ああ」

 ボーっと見惚れていたら、サーバーからコーヒーが溢れそうになっていた。

「すいません、つい」

「何見てたんですか、もう」意地悪そうに笑いかける裕奈。

「いや、これってものではないんですけど…」恥ずかしくて言うに言えない。

「お待たせしました。どうぞ」

 新しいコーヒーを差し出す。今度はすぐに口にする二人。

「町村さん。この中で、一番頭の中のイメージに近いもの、ありますか?」

 スケッチブックを勲に差し出す裕奈。受け取りそれを開く勲。

「そうですね…」一枚、次の一枚とじっくり見る。

 全てが見事に描けている。自分の頭の中を見られたのではないか、そのくらい素晴らしい出来だった。

「凄いです。僕に見えたもの、ほとんどそのままです」

「そうですか、よかった」微笑む裕奈。

「特にこれなんか、一番良く描けていると思います」一頁を開き裕奈と共有する。それは一つの建物の画だった。

「これ、ですか?」

「はい。何の建物か、それは僕にもわかりませんけど。これが一番手掛かりになるんじゃないかと思います」

 近代的ではないが、立派な建物。歴史的な建造物のようにみえる。これなら調べれば何かしら出てくる可能性が高い。

「わかりました。帰って調べてみます」

「ええ、僕もちょっと調べてみます。わかったら伝えますね。あ」

「ん、なんですか?」

「すいません、ちょっと一つお願いが」一度二階に上がり、すぐに戻ってくる勲。その手には例の本がある。

「あ、その本」

「はい。この前のです」

「不思議でしたね。あんなことが現実に起きるなんて。見れるならもう一度みたいくらいです」当然だが覚えている裕奈。

「見れるかもしれないので。これ、持ってみてもらえますか?」

「私が、ですか?」

「はい」そういって机に本を置く。

「わかりました」

 恐る恐る、裕奈が本を手に取る。それを黙って見ている勲。この本の真実にたどり着くための第一歩。それをまだ会って間もないお客に頼んでしまっている。そんな罪悪感も少しだけ。

「…、何も起こらないですね、やっぱり」

「ですね」少しホッとしたような、複雑な心境の勲。これで女性誰しもということはなくなった。

「あの奇跡は、町村さんにしか起こせないんですね。それはそれで素敵なことです」

 裕奈が手渡しで勲に本を渡す。それを受け取る勲。するとどういうことだろう、また奇跡が起きる…。

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