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史話『鬼平記』

作者: 橋本ちかげ

中村吉右衛門(なかむらきちえもん)演じる鬼平が終わる。

再来年までに放送のあと二作品である、と言う。シリーズ全一五〇本、映像化可能なものは出尽くした。原作者・池波正太郎の意向に沿い、オリジナル物は作らないと言う理由による。主人公、鬼の平蔵演じる中村吉右衛門は七十一歳である。原作さながらを彩った個性的な俳優陣も、一人欠き、二人を欠いたが、まだまだと言う感じはあった。しかし、亡き原作者の遺言に沿う形ならば、これは仕方ない。

全盛期は大手文芸誌三社に長期連載を持った池波正太郎の産み出したキャラクターの中でも、鬼平は白眉である。言うまでもないことだが他の長期連載の主人公・秋山小兵衛、藤枝梅安は架空の人物だが、鬼平こと長谷川平蔵は実在の人物だ。

延享三年(一七四六年)生まれ。五十年の生涯は一貫した正伝がない。江戸幕府公認の武士録『寛政重修諸家譜かんせいちゅうしゅうしょかふ』や後任者の日記、『(あま)焼藻(たくも)』などに断片的な記録が残るばかり。

そんな鬼平を池波正太郎が発掘したのは、小説の恩師・長谷川伸(はせがわしん)の書庫からであった、と言う。

鬼平が遺した裁判記録を目にして、彼の生涯に興味を持ったとされる。悪人にも人間性を認め、杓子定規の御裁きばかりではない、独自の倫理観と犯罪解決能力を持った鬼平の人間の育ち方、在り方そのものに、池波は着目したと思われる。

『食卓の情景』はじめエッセイには恩師が長谷川平蔵を題材にすると聞きつけて、江戸時代の裁判記録を貸してくれた、とあるが、『御仕置例類集おしおきれいるいしゅう』には、計二百二件もの鬼平の実在の解決記録が存在すると言う。

池波はこれに幼少から自分が経験した江戸時代の匂いが残る戦前の東京のありようを土台に、自身が好んだジャン・ギャバンなどが出演したフランス映画のクライムアクション要素を取り込むなどのオリジナリティを肉づけた。

かくして独自のテイストと世界観の『鬼平犯科帳』が誕生したのである。むしろ正当な記録が少ないことが、より自由なイマジネーションとキャラ設定を産み出した。史資料のエッセンスを取り出し、いかに料理するかが作家の腕と言う好例である。

即ち長谷川平蔵を知りたければ、まず『鬼平犯科帳』を読めばいい。そこに、鬼平を好きになれる、すべての要素が描かれている。

だが悲しいことに著者は故人である。もう、池波の手になる作品は生まれ得ない。池波以前の鬼平、について知っておくことは、彼が産んだ鬼平と言うキャラを、人間としてより深く理解するための、好機とも考えられる。以下は実在の鬼平を探るいわばコアなファンのための覚書である。


まず、平蔵は長谷川家では、正答伝承者の(いみな)を与えられていなかったことを、指摘しておかなければならない。諱は、宣以(のぶため)である。父の宜雄(のぶお)ともども、平蔵は養子として長谷川家に入ったのである。

長谷川家を直参旗本にまで押し上げた正長(まさなが)は、あの三方ヶ原(みかたがはら)の戦いの戦死者である。開祖・徳川家康を武田信玄から護った武功により、長谷川家は代々、御番組(ごばんぐみ)を仰せつかるエリートの家系だった。即ち、その諱には代々、『正』の一字を戴くのが伝統になっている。

しかるに平蔵にはそうした扱いを受けなかった。『鬼平犯科帳』にもあるが、平蔵は私生児だったからだ。諸説あるが母は、上総国武射・山辺郡の名主の娘と言うのが、有力なようだ。つまり、まだ部屋住みの父が下女に手を付けて産ませた子なのだ。

そのため、平蔵は実家に疎まれて育ったと考えていいと思う。当時、部屋住みと言えば主人の家来同様、居候はただでさえ厄介者扱いされるのが普通だった。苦節忍従するのが普通だが、平蔵はしなかった。無頼放蕩(ぶらいほうとう)の『本所の(てつ)』は実在だったのである。

しかも幸か不幸か、家には金があった。

父・宜雄も東西町奉行を経て、京都へまで栄転した人物だったが、さすがは名家で基本給の他に代々役付きの手当が絶えたことがなく、知行地の上総武射・山辺郡の開墾地からも五百石相当の実入りがあったようだ。宜雄は財産管理に長けた人で、余った屋敷地を町人に貸して、賃貸収入をも得ていたと言う。その父が在職中に急死し、二十八歳の平蔵はその遺産を丸々相続した。

その平蔵がその財を惜しげもなく浪費し尽くしたのは、間もなくのことだ。『京兆府尹記事』には確かに『本所の(てつ)』の仇名が見える。遊里に散在し、盛り場の悪人と付き合い、やりたい放題の毎日を過ごした。

浮世の裏社会の裏の裏まで知り尽くした平蔵が火付盗賊改に任じられるのは、天明七年(一七八七年)九月、四十一歳のときである。ちなみに火付改はよく言われるようなFBI的な大々的な捜査機関ではなく、エリートの直参たちの栄転コースの中途のような扱いであった。大抵の担当は二、三年で交代し、京・大坂などの大きな都市の町奉行に栄転していく。平蔵の父、宜雄もやはりその途上だった。

しかし、平蔵は八年この役を務めた。その間実に分かっているだけで二百二件の事件を扱い、大岡越前の再来とまで言われた。

わたしたちがよくテレビで観るFBI的な越境、広域捜査でも成果を上げている。『幕府時代届申渡抄録』には数十人の手下を従えて、関東・東北数百か所を荒らしまわった盗賊の頭・神道徳次郎(しんとうとくじろう)を大宮宿で一味ともども捕縛した。平蔵は逮捕時、徳次郎の着物があまりにみすぼらしいので、着物を与えてやったとされる。

まさに池波正太郎描く鬼平は、実在したのである。

他にもわたしたちが社会科の歴史で習う、犯罪者更生施設、石川島の『人足寄場』は、長谷川平蔵が考案したとされるが、もっと私的なことならば平蔵は、犯罪者に対しても非常に温情を見せるたちの人だった。

『江戸会誌』には誤認逮捕をした容疑者に補償金を支払ったり、刑死したものに私費で手厚い供養をしてやったりと、平蔵の人柄をうかがわせる記事が点在する。後任者の森山孝盛が記すように、平蔵は元・犯罪者を岡っ引きとして召使い、犯人逮捕に貢献させていた。これには『鬼平犯科帳』に登場する相模の彦十やら大滝の五郎蔵やらと言った顔ぶれを想い重ねることも可能だろう。

くしくも父と同じ在職のまま、平蔵は寛政七年(一七九五年)五月に死ぬまで、江戸の治安を守り続けた。


「人は良いことをしながら、悪いこともする」


池波正太郎が、鬼平に与えた名台詞である。しかしことによるとその言葉は、史実の中の平蔵が池波にそっ、と耳打ちしたものではなかっただろうか。史実の平蔵こそが通り一遍ではない、人間の情の複雑な綾を通して、賞罰自ら決する気概を育んだのではないかと思う。

「悪は倒すもの」

時代劇を含め、そんなドラマツルギーはこれからも不滅ではあろう。だがただの厳罰や糾弾からは、本当の解決は生まれ得ない。悪も人間性そのものの一部である以上、排除することは出来ない。

作者の没後も池波文学が不滅なのは、これからもその大切さを今の世にも伝えてくれるからだ、と願ってやまない。

お茶の間からまた、名演が消える。それを惜しめばこそ、エッセイの形式をとらせて頂いた。有終の美を飾るテレビの鬼平へしがない一ファンがひっそりと餞を送りたく、筆を執らせて頂いた。口幅ったい長広舌はご容赦。


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― 新着の感想 ―
[一言] 橋本さんの、並々ならぬ思いが滲む様な文章。 あのOP、EDを初めて見た時の衝撃は忘れられません。 それまで見知っていた時代劇の概念を崩された事を思い出しました。 いつか復活して欲しいですが、…
[一言]  ふらりと、面白い文章を見れました  僕は時代劇とかたまに見て楽しむ程度のミーハーで、鬼平も、さいとうたかを先生の漫画版のが馴染みが深いのです  一番の驚きは、実際、あんな御人がいたというこ…
[良い点] 池波先生作品への愛が感じられました。 [一言]  もう鬼平には会えない……そんな想いを、このエッセイでしみじみと感じました。  素敵なエッセイをありがとうございました。
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