表面張力
忘れられない出来事がある。
「こころのひょうめんちょうりょく」
とだけつぶやいた女の子が、折りたたんだ紙をぼくの机に置いて去った。ぼくが15歳のとき、それはぼくが母を亡くした時期のことだった。
クラスに友達のいなかったぼくは、当時いつも泣いてばかりいた。それでも不都合はなかったのだ。誰もこちらを気にしなかったのだから。
慣れっこになった滲んだ世界で、帰りのホームルームの始まりを告げるチャイムを聞き、孤独を感じる頃、その声は響いた。自分と異質なざわめきの中で、その声はぼくだけに発せられていたように思った。
涙を拭い、紙を開くと「放課後、理科準備室で」と書かれていた。
いつもは足早に駆け下りる階段を、一段ずつ踏みしめて上る自分がいた。一度乾いた瞳はまた水位を上昇させていた。
気が付くと、理科準備室の前まで来ていた。扉の向こうでカーテンが閉まっていた。ドアは施錠されておらず、からからと音を立てて開いた。カーテンをくぐり抜けると、そこには彼女がいた。不気味な人体模型、おどろおどろしい数多の生物のホルマリン漬け、骨格標本。その中に佇んでいた。
窓際に立ち青空を見上げる少女の手元には100mlビーカーがあった。水が並々と注がれ、今にも溢れそうだった。
僕が室内に進入すると、彼女は振り返った。
彼女の目と、ぼくの目。きっと見つめ合っているはずなのにぼくにはそれがわからない。また世界が滲んでいるのだ。Yシャツの袖で、間に合わせで拭うと、またなんとか世界が見えた。
笑っているのがわかった。ただ笑っているのではない、泣き笑いだった。細められた目は震え、輝いていた。それをぼくはきれい、と思った。
彼女は何も言わずビーカーを見つめた。ぼくはその隣へ行った。彼女はビーカーを指先でこつん、と叩いた。水面が揺れ、水が黒い机の上へ零れた。
「これがあなたのこころ」彼女は言う、「いつでもないてしまうのは、こころのようりょうがたりないの。べつになくのはわるいことじゃない。でもないてばかりでつらいなら、こころをおおきくしなければいけないね」
彼女はビーカーの水を水道に捨てた。一気に。ぼくは号泣した。
彼女は200mlビーカーに水を入れた。新たな悲しみがぼくを満たした。それでも視界がぼやけることはなくなった。
「またつらくなったら、ここにおいで。こころをおおきくしてあげる」
彼女はそう言った。ぼくは彼女を抱きしめた。
それ以来僕は、理科準備室に行っていない。