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紅蓮の炎、立ち上る黒煙、風に乗って伝わる熱気と悲鳴。
村が燃えていく。どうして? 何故?
ッ、落ち着け、落ち着け……。
瞳を閉じる。すーはー、と一度大きく深呼吸。
そして、ゆっくりと目を開けた。
……どうやら、燃えている家々は、村の北側に位置するものが中心のようだ。
悲鳴もそちらから聞こえてくる。
村の南端に位置する、私の小屋まで火勢は及んでいない。
……取り敢えずは安心だろうか?
そう考え、平常心を取り戻す。
すると現金なもので、この状況を自分の利益のために利用できないかと、そんな思考が働きだす。
火事…か。ひょっとすると、これはチャンスかな?
そう、火事場泥棒だ。上手くやれば、資金面の問題を解決する妙手になる。
盗れるだけ盗って、後はサヨナラ。
火事を鎮静化した後に、村人たちが気付いても、最早遅すぎる。
私はとっくに、村人たちの手の届かないところまで、逃げおおせているという寸法だ。
いいね、実にいい。
一気に開いた将来の展望。そして、私を散々こき使ってくれた連中への、意趣返しが出来るのだという思い。
小気味良い想像に、仮面の上まで素の表情が滲み出る。思わずといった風に、口角がつり上がってしまった。
ふふふ、いけない、いけない。
慎重に、慎重に。細心の注意を持って事に当たるとしますか。
私は、気を引き締め直すと、足取り軽く北の方角へと足を進めた。
****
逃げ惑う人々の悲鳴、許しを請う哀願の声、そして断末魔の叫び。それらに対し、下卑た歓声を上げる、見知らぬ顔の男たち。
男たちの手には、鈍く光る鉄剣、あるいは、炎を纏う薪が握られている。
その二つを以て、男たちは村を赤く染めていく。
家々には火が点けられ、地面には哀れな村人の血が流れ出す。
失敗した、失敗した、失敗した!
糞、最悪のカードを引いてしまった! 大失敗だ!
村の北側から中央にかけて、地獄絵図が繰り広げられていた。
それを成すのは、武装した男たち。
騎乗し、立派な鎧を纏った少数の男たちの姿と、彼らの指示に従う、騎乗する男たちに比べれば軽装の、多数の男たちの姿。
騎乗の男たちはもとより、軽装の男たちですら、それなりの身なりだ。
どう考えても、賊の類などではなく、何処かに属する正規の兵士たち。
この村から外に出たことは無いので、兵士らの軍装を見ても、何処の兵かは分からないが……。
このドレミ村が、北の国境に近いことを鑑みれば、北のマグナ王国から侵攻してきた兵士たちだろうか?
完全武装の軍人たちによる侵攻。
こんな寒村にとってそれは、絶望以外の何物でもない。
村人の必死の行動も、何の意味も持たない。
逃げ惑う人々は背後から切り捨てられていく。中には農具を手に、勇敢に立ち向かう村人もいるが……。その末路は語るまでもない。
そんな光景を、物陰で息を潜めながら見つめる。頭の中は、後悔と焦燥で埋め尽くされていく。
何が火事場泥棒よ! どうしてこんな……!
……あの時だ、あの時、南へと逃げ出していれば、こんなことには!
後悔先に立たず、そんな言葉が頭を過る。
だからと言って、あの時の選択をやり直せたらという思いが途切れない。
……駄目だ、駄目だ。落ち着け、私。
震える手足では、走ることも覚束ない。
ここから生きて逃げ出したければ、恐怖と動揺を抑え込め……。
仮面を被り直す。それは、強靭な鉄仮面がいい。
いかなる状況でも、冷静さを失わない、そんな冷たく強靭な鉄仮面。
自分すら騙してみせろ! かつて、そうしていたように……!
はー、小さく長く、息を吐く。
表情を消す。頭の中も冷ややかに、手足の震えを抑え込む。
よし、これならきっと……。そんな風に自らを鼓舞する。
そして、地獄絵図から目を離すと、音を立てないように踵を返した。
走る、走る、走る。早鐘を打つ心臓に構わずに……。
「はっ、はっ、はっ……。どこまで逃げるつもりだ、女!」
「はっ、はっ…ッ、はあ、はあ、はあ…………」
兵士たちにばれないよう、細心の注意を払いながら南を目指していたのだが……。
一人の兵士に見つかり、こうして追いかけられている。
次第に縮まる互いの距離。息が上がる、心臓が痛い。
……大人の男との体力勝負は無謀だったか。仕方ない。私は足を止めた。
「ようやく諦めたか!」
追いついた兵士に腕を掴まれ、地面に引き倒される。
「た、助けて……」
弱弱しい声を上げる。顔には恐怖の表情が張り付いていることだろう。
手足と言わず、体全身ががくがくと震える。
それを見た兵士は、嗜虐の笑みを浮かべる。
……そうだ、警戒心を緩めろ。お前の前にいるのは、無力で恐怖に震える、小鹿のような村娘だ。
新たな仮面を被り直しながら、私は冷静に、私を見下ろす兵士を観察する。
そう、私は決して諦めたわけではない。
体力勝負は無謀と知り、より生き残る可能性の高い手段に切り替えたのだ。
追いかけっこは駄目。真正面からの戦闘なぞ論外。なら、油断を誘い、そこを衝いて何とかするしかない。
兵士の右手に長剣が握られている。腰のベルトには、短剣がぶら下がる。
防具の方は比較的軽装。先程見かけた騎士のように、全身を鎧に覆われているわけではない。
軍服だろうか? 厚手の服を身に纏い、その上から、要所要所を守る防具を身に着けている。兜、胸当て、それから、手甲に臑当て。
観察した結果は、ざっとこんな感じ。……さて、どうする?
そんな風に内心、打開策を巡らせていると、兵士が口を開く。
「へっへ、なんだ、若い娘じゃねーか。……風変りな容姿だが、悪くねぇ。こりゃ、役得だ」
嗜虐の笑みに、好色なそれも混ざり合い、より一層下卑た笑みになる。
……獣め。内心で兵士を蔑むが、表情にはおくびにも出さない。
「おい、娘。大人しくしていれば、命だけは助けてやる。いいな、分かったか?」
兵士の言葉に、壊れた人形のように何度も頷く。
もっとも、本心から、そんな口約束を信じたわけではないが……。
兵士はそんな私の様子に、笑みを深めると、握っていた長剣を地に突き立てる。
そして、私を組み敷くと、上着に手をかけてきた。
私は一切の抵抗をせず、兵士のなすがままにまかせる。そう、兵士の警戒心を削ぐために……。
乱暴に上着を引っ張られ、胸元が露わになる。
兵士の目線が、そこに釘つけになった。ゴクリと、生唾を飲み込む音が聞こえる。
……まだだ、まだ早い。自らを自制する。
ゆっくりと、胸元に近づいてくる口元。
獣の吐息が当たって、気持ち悪い。気持ち悪いが、獣に最早、警戒心など微塵も残っていない。
今だ! そう判断する。……というか、もう限界!
素早く右腕を伸ばす。そして、兵士の腰にぶら下がる短剣の柄を掴む。
驚きに、体を硬直させる兵士。その隙を、勿論見逃したりはしない。
短剣を鞘から引き抜くと、兵士の太ももに深々と突き立てた。
「ぎぃあぁぁああああー!」
上がる絶叫。激痛に、兵士は太もも押さえながら、身を仰け反らせる。
よし、私を拘束していた力が緩んだ!
チャンスとばかりに、勢いをつけながら上半身を起こしつつ、兵士の体を突き飛ばす。
そして、体の自由を取り戻すと、地に突き立った長剣へと駆け寄る。
長剣の柄を握り締める。引き抜きながら反転。兵士と視線が合う。その瞳の中には、驚愕と、確かな怯えの色が見てとれる。
はっ、ざまあみろ。内心で吐き捨てた。
仮面をかなぐり捨てて、本性を、生への渇望を露わに、長剣を振り下ろす。
振り下ろす、振り下ろす、振り下ろす…………。
返り血に、服が、体が染まる。でも、それ以上に、心が赤く染まっていく。
そう、嘘偽りのない原色、その中でも最も鮮烈な色合いに。
……だけど、後悔することは無い。だって、この色はきっと、彼女の色だから。
最後にもう一度だけ、長剣を振り下ろす。
最早兵士は、ピクリとも動かない。
「はは……。ははは。ははははは……!」
あまりに思い通りに事が運んだことと、何より、初めての殺人による興奮から、アドレナリンが過剰に分泌される。
自分でも訳の分からない笑いが溢れ出る。
きっと、今の私の表情は醜い。だけど……。
私は、こちらの世界に来て初めて曝け出した本性に、今までにない解放感を覚えたのだった。