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その村の名はドレミ村といった。
アルルニア王国の北方に位置し、マグナ王国との国境にほど近い、人口二百人ぐらいの小さな村である。
村の中央には広場があり、そこを中心として同心円状に木製の家が建ち並ぶ。
家々は粗末な造りで、二階建ての建物など一つも見当たらない。その上、小さなものばかりときたものだ。
唯一、少し小高い位置に建っている家だけは、それなりの大きさとなっている。恐らくは、この村の代表者である村長の家なのであろう。
村から少し東に外れた場所には、ゆったりと流れる小川と、麦畑が広がる。
逆に、村の西側には、森というべきか、林というべきか悩ましい規模の樹々が生い茂る。
ここでは、木の実や茸などの自然の恵み、また、鳥などの野生動物を採取することができた。
それらは、ドレミ村にとって、貴重な生活の糧となっている。
……ドレミ村とは、大体この程度の説明で、語ることが無くなるような、そんな規模の村落。
何処にでもあるような、典型的な寒村であった。
いや、一つだけ語り残したことがあった。それは、他の寒村では見られない、特異な住人の存在である。
その人物の姿は、収穫の時期で賑わう村外れの麦畑の中にあった。
小汚い襤褸を纏いながら作業する少女。彼女こそが件の人物であった。その作業中の少女に対し、周囲の大人たちが時折、叱責の声を上げる。
村人たちに使役される年若い少女。……小作農であろうか?
小作農、それ自体が珍しいわけではない。珍しいのは、彼女のその容姿であった。
ここらでは滅多に見かけない黒色の髪。さらに黒色の瞳も併せ持つといえば、王都でもそのような人物が見つかるか疑わしい。
そして、珍しい容姿はそれだけに止まらない。肌の色も周囲の人々とは違うようだし、何より顔の造りが独特だ。
異国情緒溢れる容姿とでも言うべきか……。もっとも、このような寒村で、遠い異国まで赴いたことのある人物など、一人もいやしないが。
黙々と、麦穂を刈り取って行く少女。
風に靡く、黄金の波のような麦穂は、まだまだ数多く残っている。どうやら、彼女の作業が終わるには、まだ多くの時間を要するようだ。
少女は額に汗を浮かべながらも、休まずに作業を続けていく。
結局、その作業は、夕暮れ近くまで続いたのであった。
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ドサリと、粗末な寝台の上に倒れ込む。
その寝台は、清潔とは言い難く、その上、硬くて寝心地がすこぶる悪い。
もっとも、今の私はそんなことを気にしている余裕などない。
何故なら、長時間の労働で体を酷使したばかりだからだ。
それが寝台であるなら、この世で最も粗末な寝台であっても、私は躊躇なく使用することだろう。
「くっそー、あの連中! いつかきっと、後悔させてやるんだから!」
寝台に突っ伏しながら、物騒な言葉が口から衝いて出る。
その内容は、とても人に知られて良いものではなかったが、心配はいらない。
この寝台以上に粗末な小屋――そう、断じてこれを家とは呼びたくない――の中には、私一人しかいない。
それに何より、今の言葉は日本語によるものだ。例え聞かれたとしても、奴等に理解することなど出来はしない。
この世界、……そう、私が元いた世界とは別物であると思われるこの場所では、当然、日本語を話せる人などいないわけで。
そうであるなら、奴等との意思疎通は出来ないのか?
そう、聞かれれば、そのようなことはない。いや、そのようなことはなくなったと、言った方が正しいか……。
――あの闇に飲み込まれてから、およそ一年と半年が経った。
異世界に放り込まれた当初は、言葉が通じず苦労したが……。
必要に迫られれば、私程度の頭脳であっても、別言語の習得が可能であるらしい。
日本にいた頃は、ちっとも、英語を話せるようにならなかったのにね。……何とも不可思議なことだ。
言葉だけではない。文字の読み書きも、この村で唯一文盲ではない村長一家から学んで、習得することが出来た。
もっとも、その代償として、より多くの労働を強いられたわけだが……。
そうまでして、文字の習得をしたのには、勿論訳がある。それは、私が現在の境遇から抜け出すために他ならない。
今の私は、私を保護、あるいは、所有しているドレミ村の人々の小間使いのようなものだ。
僅かばかりの生活の糧と引き換えに、日々、過酷な労働を強いられている。
当然、そんな現状に不満が無いわけがない。まるで奴隷のような境遇に甘んじ続けている気など、私には毛頭ない。
そうでなくては、何故私は、この世界に来たというのだろうか?
藤堂さんは言った。この世界は、本当の意味で自由に生きられる理想郷なのだと。
……しかし、それは力があればの話。
基本的人権という言葉すらない世界では、弱者は強者に隷属するだけの立場だ。
隷属から脱却し、強者の側に回るには、文字の一つも分からなければ、お話にもならない。
そう、知識とは力だ。最低限の教養すらない人間では、人に使われる立場でしかいられない。
それはきっと、この世界だけに限った話ではなく、何処の世界でも同じことだろう。
これまで短くない時間をかけてきた。その甲斐もあって、最低限必要な知識は手に入れたと思う。後は……。
私は床板の下に隠した壺、正確にはその中身に思いを馳せた。
その中身とは、小汚い銅貨の山。
従順な仔羊の仮面を被りながら、奴等にばれないよう、少しずつ盗り貯めてきたもの。
先立つものは金である。
最低限の知識は得た。後は当座を凌ぐ現金さえあれば、いつでもこの村を脱出することができる。
もっとも、事を急げば仕損じると言う。出来れば、万端準備を整えておきたいところ。だけど……。
そう悠長なことを言っていられない事情があった。
この世界は、元いた世界での中世ぐらいの文明度である。
そんな社会における、女性の最大の役目と言えば、子を産むことに他ならない。
下手を打たなくても、いずれ望まぬ結婚を強いられるのは目に見えていた。
そんな中、私にとっての幸運は、この村の連中が、私のことを実年齢よりもずっと幼い少女であると、勘違いしていたことだ。
どうやら、アジア人が若く見えるというのは、ここでも同じらしい。
そのおかげで、これまで結婚話とは無縁でいられた。
しかし、どうやら最近になって、村の大人たちが私の結婚を画策しているらしい。
何でも、その愚鈍さから嫁の当てのない青年に、私をあてがおうとのことだ。
――ッ、冗談じゃない!
勝手に結婚相手を決められるのもそうだが、その相手も我慢ならない。
最早、一刻の猶予もない。連中が水面下で推し進めている結婚話、それが現実になる前に、この村を脱出しなければ……。
しかし、どうするべきか?
資金面はまだ心許ない。……どうせ逃げ出すならいっそ、慎重さをかなぐり捨てて、金目のものを持ち出してしまおうか?
その場合、リスクはどの程度跳ね上がる? ……判断が難し…い……な。
――んん、瞼が重たい。
もうすぐ日暮れになる時間帯。夕食はまだ摂っていないけれど……。
先に、少し、休もう…かな……。
「……うー。何? ……騒がしいな」
外の喧騒に目を覚ます。もぞもぞと寝台から這い出すと、壁まで歩み寄った。
そして、壁にある窓――決して硝子製などではない。四角い穴に木板で蓋をしただけのもの――を押し上げ、外の様子を窺う。
空はちょうど赤味を帯びてきていた。……どうやら、眠りについてから、僅かな時間しか経っていないようだ。
いったい、何が私の安眠を妨げたんだ!
恨みの籠った眼を、左右に走らせる。……えっ! 黒い…煙?
小火騒ぎだろうか? いやいや、もしかすると、大火事かもしれない。
後者なら、この騒ぎようも理解できる。
……取り敢えず、外の様子を確認するべきかな?
そうだね。現状把握には、きっとそれが最善でしょう。
そうと決まれば、即行動。
くるりと、体を木製の扉の方へと反転させる。扉まで小走りし、そうして手をかけると、一気に押し開け――
「……何よ、これ」
呆然と呟く。
村のあちらこちらを染める紅蓮の炎。立ち上る黒煙。そして、阿鼻叫喚の叫び声。
私の目に飛び込んできたのは、そんな途方もない光景。
この日、一年半前と同じく、私は人生における大きな転換点を迎えたのだった。