0-4
かつ、かつ、かつ、と小刻みに奏でるチョークの音。それとは真逆の、間延びした老教師の声。
美穂曰く、念仏のような木原先生の授業。
お世辞にも心地良いとは言えぬ、その時間。そんな中、誰しもが、ただ一つの音が訪れるのを待ち続ける。
ついには、耐えきれず船を漕ぎだす生徒がちらほら出始めた頃、ようやくその音が鳴り響いた。
それは、待ち望んだ授業終了のチャイム。その音を聞き、木原先生が授業を締め括ると、日直により終礼の号令が掛けられた。
同時にそこかしこで始まる、雑談のざわめき。
変わらない平凡な日常。だけど――。
私は視線を移す。その先には誰も座らぬ空席。……ただ一つの相違点、藤堂 朱、彼女がいない。
藤堂さんが学校から姿を消して、ひと月が経った。
彼女が学校に来ない理由、その詳細は、生徒たちに知らされてはいない。
しかし、これが単なる不登校や病気療養でないことは、最早誰しもが知る、公然の事実であった。
生徒たちの噂では、家出をしただの、何かしらの事件に巻き込まれただの、様々な憶測が語られている。
その真偽は分からない。分からないが、どうやら藤堂さんが行方不明となり、彼女の両親たちですら、その消息を掴めていないというのは事実であるらしい。
既に、警察に失踪届が出されているとの話も聞く。
失踪当初、皆は興奮気味に、その事実を話題に出した。……全くもって不謹慎な話ではあるが。
しかし、ひと月も経った今では、たまに話題の端に上がるぐらいで、一時の興奮はすっかりと風化してしまった。
人一人が消えたというのに、その無関心さの方があるいは、興奮気味に語り合うよりも酷いことなのではないか、そんな風にも思う。
もっとも私だけは、周囲の人たちとは違った。
そう、藤堂さんの失踪について、未だに後ろ髪を引かれるような心地でいる。
そして何より、彼女の失踪に対する受け取り方こそが、最大の違いであった。
皆は、言い方は悪いが、クラスメートの失踪劇を観覧する見物客だ。
彼らにとって、藤堂さんの失踪は、平凡な日々に生じたスパイスのようなもの。日々の退屈を紛らわす、一種の娯楽だ。
そこにあるのは、興奮と下世話な好奇心だけ。
一方、私は鬱屈した感情を持て余していた。
「……ずるい。それに……酷過ぎるよ」
廊下を一人歩いている中、ポツリと言葉が零れ出る。そう、それこそが、私の偽らぬ気持ち。
だって、私は知っている。藤堂さんの失踪の訳を。
思い出すのは、彼女との最後の会話。そう、きっと彼女は、彼女の言う理想郷へと旅立ったのだ。
こんなところに、私一人を置き去りにしたまま……。
彼女と出遭い、私は、目を背けてきた自身の内面を覗き見てしまった。
それを知ってしまえば、もう元には戻れない。
まるで禁断の果実みたい。なら、藤堂さんはイブをそそのかす蛇かな?
そんな風に考えて、思わず苦笑してしまう。
いや、全く甘くないそれを、果実と呼ぶのは間違いかもしれない。
……きっとそれは、じわじわと体を蝕む蛇の毒。
そう、彼女と出遭ってからも、自分を誤魔化そうともがき続けて、結局、誤魔化し切ることができなかったのだから。
うん、禁断の果実より、ずっと言い得て妙だよね。
なんて、そんな風に得心しつつ、歩き続ける。しかし、すぐにその歩みは、騒々しい声に止められてしまった。
「雫! おーい、雫!」
背後から投げつけられる呼び声。バタバタと廊下を駆ける音。……ウルサイな。
私は悟られないように溜息を一つ吐くと、仕方なく振り返る。
「……どうしたの、美穂?」
「いやー、莉子がさぁー、放課後付き合えって。ほら、新しく出来たクレープ屋。雫もくるよね?」
最早、確定事項のように問い掛けてくる美穂。
うんざりとした表情を、表に出さないように気を付ける。
「……ごめん、今日の放課後は駄目だよ。三枝先輩に、同好会に顔を出すよう厳命されているんだ」
「あー、あの『史研』の女帝にか。そりゃー、仕方ない」
「うん、だからゴメンね」
申し訳なさそうな表情を意識して作りながら、手の平を合わせてみせた。
そして、それで話は終わりとばかりに、私は話題を変える。
「それより美穂、さっさと足を動かさないと、次の移動教室に間に合わないよ」
「おっと、それはマズイ。山岸のババアは小煩いからなぁー。あれがいわゆる、更年期障害ってやつかね?」
「さあ、どうなんだろうね?」
そう言って顔を見合すと、クスクスと笑い合う。そうして、二人連れだって廊下を歩き出した。
――本当は、事前に三枝先輩に話を通しておけば、今日の同好会の活動を取り止めることも可能ではあった。
だけど、どうして私が、そんなことをしなければいけないのか?
同好会の活動と、莉子と美穂の二人と過ごす放課後。その二つを天秤にかければ、当然ながら秤は同好会へと傾く。
そう簡単に結論が出るぐらいには、同好会の活動を、三枝先輩と過ごす時間を気に入っていた。
まあ、そうでなければ、わざわざ『史学研究同好会』に在籍したりはしない。
三枝先輩は変人ではあるが、少なくとも趣味は合うし、何より莉子や美穂のように私を苛々させることもない。
まあ、歴史以外眼中にない三枝先輩の前で、自分を偽るなんて、馬鹿馬鹿しいにも程があるもんね……。
そう結論付けると、思考は一つの懸念に移り変わる。
さて、また莉子が不機嫌にならなければいいけれど……。
そんな風に心中で案じながら、美穂と下らない雑談を交わしつつ、歩みを進めた。
****
「そもそもだね、劉備なんて所詮、ゴロツキの親分ぐらいの器しかないのさ。曹操と比べるべくもないね!」
放課後の会室に響き渡る声。
白熱した三枝先輩が、ぞろ、極端な自説をのたまう。
……分からなくもない意見だけど、少々度が過ぎた意見でもある。
私は真実、苦笑の表情を浮かべると、先輩に言葉を返した。
「先輩、そんなこと言ったら、三国志ファンに怒られますよ」
「三国志ファン? フン、三国志演義ファンの間違いだろう」
そう吐き捨てるように言うと、三枝先輩はパイプ椅子の背もたれに体重をかける。
ギシっと、パイプ椅子が小さな悲鳴を上げた。
まあ、確かに、日本人の持つ三国志の知識というと、そのほとんどが三国志演義によるものだ。
その何が問題かというと、三国志演義は歴史書ではなく、小説であるということだ。
つまり、必ずしも、歴史的事実を記しているわけではない。
演義の主人公である、劉備たち三人の義兄弟、引いては彼らの陣営である蜀の人物たちは、事実より良く描かれる傾向にある。
その一方、敵対関係にある人物、取り分け曹魏の人物たちは、悪し様に描かれることも少なくない。
演義しか知らない人が、三国志正史を読めば、随分と印象が変わることだろう。
実際、私も曹操と劉備では、曹操の方が優秀な人物だと思う。
もっとも流石に、劉備をゴロツキの親分とまで過小評価したりはしないが……。
パイプ椅子に背を預けている三枝先輩は、不貞腐れたのか、肘を組みながら頬を膨らませている。
全く、世間論としては劉備の方が善玉として、曹操よりも良く扱われることが多いですよね、などと、指摘しただけでこの有様だ。
本当に年上なのか? 大人げない。……まあ、そんなところが、先輩の可愛らしいところでもあるんだけど。
しばらく、むっつりとした先輩の表情を窺う。
……すぐに機嫌が直りそうに……ないかな? うん、直りそうにないね。
だけど、取り立てて慌てるような事態ではない。
この程度のこと、『史学研究同好会』の活動中ではよく見られる光景、言わば、日常風景に他ならない。
私は軽く息を吐く。ここらでクールダウンといきますか……。
窓の外へと視線を移す。
三階に位置する会室の窓からは、校舎と校舎の合間にある、中庭の様子を見下ろすことができる。
私はその無人の中庭を、見るともなしに見ていた……。
「……またその表情。ここ最近、悩ましげな表情を浮かべることが多くなったな、同志長谷川」
「…………そうですかね?」
「そうだとも」
……聡い人だ。莉子や美穂とは比べ物にならない。
彼女の前では仮面など、一体どれほどの役に立つというのか?
三枝先輩はきっと、私の憂いの訳を概ね理解しているに違いない。
気付いてしまった自身の内面。それ故に馴染めない環境。そして、もう一人の同属を失った喪失感と、置いていかれた寂寥感。
ぽつりと弱弱しい声が、私の口から漏れ出てくる。
「……先輩。私の、私たちの人間性は、間違いなのでしょうか?」
「私たちの人間性……か。ずいぶんと簡単に言ってくれる」
私の問い掛けに、そう返しながら眼鏡を直す三枝先輩。そして、こちらに真っ直ぐ視線を向けてくる。
その眼光には、常にない厳しさがあった。
「人はね、人間の本性なんてものを、そう簡単に解したりできないものだ。例え、自分のことであってもね」
まだ、私は自分のことが、本当の意味で分かっていないと?
……もし、覗いた気になったものですら表層に過ぎないとしたら、その奥にはどれほどのモノが潜んでいるというのか?
三枝先輩の言葉に戸惑いを覚える。しかし、先輩はそんな私の様子に構うことなく、話を続けていく。
「……東洋の孟子や荀子。あるいは、西洋のカントに始まる哲学者たち。彼ら、偉大な先人たちですら思い悩んできたんだ。……同志長谷川、君も存分に悩むがいい」
「…………はい」
それはアドバイスであったのだろうか?
きっと、そうなのだろう。だけど、ちっとも優しくない。
私たちのような人間性を否定するでもなく、そういった人間性があってもよいと肯定するわけでもない。
自分で悩み、答えを探せと、安易な回答を与えてはくれない。
……厳しいなぁ。
でも、それがきっと正解。だって、こんなことに教科書通りの答えなんて、あるはずがないんだから。
なら、その答えは、これから自分で探さないといけないのだろう……。
それから、互いに言葉を交わさないまま、同好会の活動はお開きとなった。
****
校門を急ぎ足で抜ける。辺りは、既に暗くなり始めていた。
この季節は陽が傾くのが早い。急がないと、家に着く頃にはすっかり暗くなってしまうかもしれない。
通り抜ける風は冷たく、思わず首を竦めてしまう。
毛糸のマフラーと厚手の手袋だけが、私の味方だ。
もっとも、猛威を振るう冬将軍が相手では、少しばかり心許ない。
冬の寒さは苦手だ。
まあ、だからといって、夏の暑さが得意というわけでもないのだけれど……。
更に言い足すなら、春になれば、その陽気さから毎度眠気に降参し、秋になれば、食欲の前に理性は惨敗する。
なんだ、得意な季節なんて一つもないじゃないか。
そう考え、思わず苦笑してしまう。
そんな風に、益体もない考えを弄びながら歩みを進める。しばらく、普段と変わらない下校風景を送っていたのだが……。
ふと、背後から呼ばれている気がした。
足を止めて、背後を振り向く。
「ぅえ!?」
視線の先、これまで私が歩いてきた、その何の変哲もなかった筈の空間が、黒一色に塗り潰されていた。
まるで、墨汁でも零してしまったかのように……。
見るからに異常事態だが、最初に驚きの声を上げこそすれ、すぐに落ち着いてその闇を見つめている私がいた。
その落ち着きは、不思議とその闇の正体に確信を持てたからだ。
そう、きっとこれは迎えなのだ。
「……驚いた。藤堂さんって、意外と律儀なんだね」
そんな呟きが漏れる。そうこうしている内にも、その闇は膨張し続け、私との距離が縮まってくる。
――逃げ出すべきだろうか?
その一瞬の逡巡が、私から選択肢を奪う。
それは、もう私のすぐ後ろまで迫っていて……。今更逃げ出しても、手遅れのように思われた。
ならば仕方ないと、私は足を止めたまま、迫りくる闇から目を離す。そして、頭上を仰ぎ見た。
目に映るのは、一枚の葉も宿さない巨木。
それは、大きさといい、枝ぶりといい、見事な桜の木であった。
もっとも残念ながら、季節柄、まだ花を咲かせてはいない。
……二度と、あの薄桃色の花びらを見ることは叶わないかもしれない。
それだけは、心残りかな。
そんなことを漠然と思いながら、私は深い闇に飲み込まれていった。