0-3
視線の先には白い天井。背中にベッドの柔らかさを感じながら、見るともなしに、その白さを眺めていた。
右手には、今しがた読み終えた一冊の本が握られている。その表紙には、『こゝろ』とタイトルが印字されていた。
天井から視線を切る。読了後独特の倦怠感を覚えながら、寝返りを打った。
……現国を担当する高橋先生は、エゴイズムがこの小説の主題であると言った。
確かに小説内で先生は、お嬢さんと結ばれるために、親友であるKを裏切ってしまう。その結果としてKは死を選び、先生もまた、良心の呵責から最後には自殺してしまうのだ。
Kへの裏切りがエゴだと言うのなら、そうであるのだろう。
通常の倫理観に照らし合わせれば、友への裏切りは許されざる悪徳だ。
しかし、それでも私は先生が悪人であったとは思えない。
だけど……そうであるなら、人は悪人でなくても、許されざる利己心を抱えているというのだろうか?
小説の最後でも、先生は自らのエゴを露わにしてしまう。
私に罪の告白をし、良心の呵責から自殺する。
それだけを見れば、方法はともかくとして、自らの行いを悔い改めようとする清廉な人物のようにも見える。
しかし、先生は遺書の中で私に向けてこう記すのだ。
妻となったお嬢さんにだけは、真実を伝えないでくれ、と。
死を目前にしながらも、愛する人にだけは自分の醜さを知られたくない。その一心で、最後の最後まで、自らの譲れぬ願いを遺書に記してしまうのだ。
「…………あくまでこれは、小説の中の話よ」
誰に聞かせるでもなく、ポツリと言葉を零した。
そう、あくまでこれはフィクションだ。
夏目漱石という、稀代の名作家の筆によって描かれた結果、とんでもないリアリティを感じてしまうが、所詮は小説の中の話。
現実とは違う。そうでなくては………………。
むくり、と起き上がる。私は読み終えた小説を鞄に仕舞うため、学習机に歩み寄った。
机の上には、通学に利用している学生鞄。そして、その傍らには、二冊の本が置かれている。
――『きっと、気に入るわ』、藤堂さんの言葉が甦る。
私は動きを止め、その二冊の本を凝視した。
「…………何を怖がる必要があるっていうの?」
私は鞄に『こゝろ』を仕舞うと、そんな言葉とは裏腹に、恐る恐る二冊の本へと手を伸ばした。
****
黒板の上には丸い掛け時計。その短針と長針が重なる。同時に、ありふれたチャイム音が鳴り響いた。
多くの生徒が待ち望んだ授業終了の合図。――昼休みの始まりだ。
「はぁ……んん」
お弁当を食べている最中、思わず零れ出た欠伸をかみ殺す。
「何、雫。そんなに木原の授業は退屈だった?」
「いやいや、あの年寄りの念仏まがいの授業は、誰だって眠くなるっしょ!」
いっしょに席を囲んだ友人たちが、続けざまに発言する。
「うーん、いや、実は昨日、夜更かししちゃって……」
私は苦笑を浮かべつつ、理由を説明する。
そう、昨日は結局、藤堂さんから押しつけられた本を読み耽ってしまい、気付いたら相当遅い時間になっていたのだ。
「なになに、遅くまで何やってたの?」
「決まってんじゃん! いけない妄想に励んでたんだよ!」
「うわー、卑猥だわー! って、あんたと雫をいっしょにするなし!」
私は彼女たちの掛け合いに、ただ苦笑を返す。
いつも通りだ。いっしょに弁当を食べながら、女同士、気兼ねなく会話に華を咲かせている。……そう、寝不足の頭に痛いぐらいに。
あれ、どうしてだろう? 普段は全然気にならない、むしろ、楽しく聞いているはずなのに……今日はひどく…………。
きっと、寝不足のせいだ。そう、だから――。
「……ねぇ、雫もそう思うでしょう?」
「えっ! いや、私は別に……」
私の返事に、問いかけてきた莉子の表情が一変する。
目を見開き、驚いた表情を。次いで眦をきつくして、不服そうな表情になる。
しまった! どうして、こんな返事をしたの!?
今のは明らかに、『そうだね』って、同意するところなのに。
気まずい空気が流れる。それに敏感に反応した美穂が、おどけた声を出した。
「ちょっと、ちょっと、『別に……』って、あんたはエリカ様か!」
「えっと、ばれちゃった? 実は……」
美穂の助け船に乗りかかる。ふっ、と笑いが漏れた。
彼女の機転のおかげで、気まずい空気が緩和される。そして、何でも無い会話が再開された。
それでも私は気まずさと、何より内心の動揺から、会話の途中にふいっ、と視線を逸らしてしまう。
逸らした視線の先で、別の視線とぶつかる。
その視線の主、藤堂さんは、私と視線が合うと、意味深な笑みを浮かべた。
自分の弁当を食べ終えた直後、トイレに行くと言って教室を抜け出した。
廊下を一人歩きながら考えるのは、先程の会話のこと。
私はどうしてあんなことを言ったの? ……いや、それは大した問題じゃない。本当の問題は…………。
藤堂さんの意味深な笑みが思い出される。
私は……あの時……二人と話しながら、いったい何を思った?
「長谷川さん、少しいい?」
考え事をしていたせいか、背後から近づく足音に気付かなかった。
というか、この人は前回といい、今回といい、背後からの奇襲が好きなのかな?
なんて益体もないことを考えながら、ゆっくりと振り返る。
背後から声をかけてきた同級生の顔を確認してから、口を開いた。
「……いいよ。何の話かな、藤堂さん」
「ありがとう。でも、その前に少し歩こうか」
そう言うと、返事も待たず、私を追い越して歩き出す藤堂さん。
相変わらず、自分勝手な人だ。
だけど、その不躾さが不思議と嫌には感じなかった。
廊下を渡り、階段を下りる。
私たちは、校舎と校舎の合間にある中庭まで出てきていた。まばらに人の姿があったが、それを避け、端の方まで歩み寄る。
「それで、どうして声をかけてきたの、藤堂さん?」
歩みを止めた藤堂さんに問い掛ける。
「うーん、特にこれといった用事があるわけでもないけど……ね。まあ、つまり、長谷川さんと少し話してみたくなった……って、そういうところかしら?」
「はぁ……」
顎に手を添えながら小首を傾げる藤堂さん。
そこで疑問形は止めて欲しい。こちらも生返事しか返せないじゃないか。
「そうね、長谷川さん…うん? はせがわ…さん……。取り敢えず、雫でいい? 六文字と三文字じゃ大違いだし」
「…………うん、いいよ」
「なら、そういうことで。……あれ、何言おうとしたんだっけ?」
そう言って、再び小首を傾げる藤堂さん。明るく染めた髪がサラリと流れる。
しかし、考えるのを止めたのか、すぐに傾げた首を元に戻すと、口を開く。
「まぁ、いっか。今話したいことを話せばそれで……」
「……………………」
自由過ぎる。会話の運びといい、その内容といい、まさしくフリーダム。
他人事ながら少し心配してしまう。
こんな調子でこの人は、人付き合いは大丈……いや、そういえば特に人との付き合いを持たない人だったな。
仕切り直しと言わんばかりに、藤堂さんはこちらを真っすぐ見つめ直し、再度言葉を投げ掛けてくる。
「そうだね、じゃあ質問を何点か。雫、さっきの食事中の会話だけど、いったい何を考え、何を思ったの?」
「……何って? ……それは…………」
まさしくそれは、私自身が疑問に思っていたことだ。
思わず言葉に詰まる。しかし、何か返事をしなければ……。
「あの時はね、………………ううん、実は分からない」
何かしら適当な回答をしようとも思ったが、あの時の意味深な笑みが甦る。
すると、今更誤魔化すのも馬鹿馬鹿しい気がして、正直に内心を吐露した。
「……分からない、か」
ふむふむと頷くと、質問を重ねる藤堂さん。
「ねぇ、雫。昨日の『人間失格』はもう読んだ?」
質問の方向性が何の脈絡もなく、明後日の方に飛んで行ってしまう。
いったい、彼女は何が聞きたいのだろう?
「……読んだけど、それが?」
「そっか、もう読んだか。そちらはどう感じた?」
どう感じたか? 『人間失格』を私は……。
『人間失格』の内容を思い返す。
太宰治の代表作『人間失格』。“恥の多い生涯をおくってきました”という、あまりにも印象深い一文から始まる小説だ。
この小説に登場する大庭葉蔵にとっての恥とは何であったのか?
色々あるが、その一つが、他者にとっての普通を普通と思えない、それ故に人のことを理解できず、恐怖してしまうことだろう。
結果として彼は、道化を演じ、自らを取り繕うことで……自らを取り繕う?
「…………藤堂さんは、私が本当の自分を隠すため、大庭葉蔵のように自分を偽り、取り繕っていると言いたいの?」
意識せず低い声が出る。しかし、藤堂さんはその声にまったく頓着せず、それどころか、笑みすら浮かべてみせた。
まるで、よくできました、とでも言うように。
「……もし、そんな風に思ったなら、それは藤堂さんの勘違いだよ」
「そうかな?」
「そうよ」
しばらくの間、互いに無言のまま見つめ合う。先に沈黙を破ったのは、藤堂さんの方であった。
「……私ね、昔は品行方正なお嬢様だったの」
「はい?」
お…じょう…さま? 思わず、明るく染めた髪と、着崩した制服を見やる。
私のそんな不躾な視線に怒るでもなく、むしろ逆に、藤堂さんはお腹を抱えて笑いだした。
初めて見るそんな藤堂さんの様子に、私は目を丸くする。
しばらくして、彼女は笑いながら話しだす。
「ッ……プッ……クク、そうだよね。全然、お嬢様に見えないよね……フフ」
私は何と言ったらいいのか分からず、そのまま黙りこくる。
藤堂さんは、そんな私に構うことなく話し続ける。
「自慢になるけど、私はいわゆる良家のお嬢様なの。でもね、それだけに躾は厳しかった。周囲からはお嬢様としての振る舞いを求められた。……その求めに応え続ける内に、体の中に黒いものが溜まっていって、ある時、耐えきれなくなったの……」
黒いものが溜まっていく? 私もいつか似たように感じなかったか?
まるで黒い靄がかかっているかのように……。
「お嬢様を止めて、自分の思うように生きて、それで体に溜まった黒いもの、その多くは消えてなくなった。素晴らしい解放感だったわ……」
その当時の解放感を思い出したかのように、藤堂さんは晴れ晴れとした表情を浮かべる。
私はその表情に……。
「……でもね、完全に消えてなくなりはしなかった。当然よね、私一人が変わっても周囲は変わらない。世の中には下らない柵や、常識、あるいは倫理観なんかがあって……。本当の意味で自由には生きられない。……仕方ないと諦めていた、この前までは……」
藤堂さんは私に背を向けると、一歩、二歩とゆっくりと歩き出す。
まるで、歌うように台詞を発する劇団員のように語りながら……。
「……そう、私にとっての理想郷が存在したの。その場所は、此処よりずっと未成熟な社会で、それ故に倫理観が薄く、人々は剥き出しの欲望に忠実で……。本当は一人で行くつもりだった。だけど……」
藤堂さんがくるりとターンする。ふわりと揺れるスカート、風になびく明るい髪、そして、露わになる艶やかな笑み。
「――きっと、雫も気に入るわ」
私は彼女の言葉に困惑を隠せない。
何せ、言っている意味が全く分からない。いや、分からないと言うより、理想郷云々などと、正気とは思えない。
ともすれば、何か怪しい宗教にでも引っ掛かったのでは、と邪推してしまう。
そう、私の理性は彼女の言葉に反発している。それは確かだ。
それなのに、どうしてだろう?
彼女の言葉に、何よりその笑みに、私は本能的に惹かれてしまったのだ。
まるで、教科書で初めて『こゝろ』を読んだ時のように……。
そして、その日を最後に、藤堂 朱は学校から姿を消した。