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 視線の先には白い天井。背中にベッドの柔らかさを感じながら、見るともなしに、その白さを眺めていた。

 右手には、今しがた読み終えた一冊の本が握られている。その表紙には、『こゝろ』とタイトルが印字されていた。


 天井から視線を切る。読了後独特の倦怠感を覚えながら、寝返りを打った。



 ……現国を担当する高橋先生は、エゴイズムがこの小説の主題であると言った。


 確かに小説内で先生は、お嬢さんと結ばれるために、親友であるKを裏切ってしまう。その結果としてKは死を選び、先生もまた、良心の呵責から最後には自殺してしまうのだ。


 Kへの裏切りがエゴだと言うのなら、そうであるのだろう。

 通常の倫理観に照らし合わせれば、友への裏切りは許されざる悪徳だ。


 しかし、それでも私は先生が悪人であったとは思えない。

 だけど……そうであるなら、人は悪人でなくても、許されざる利己心を抱えているというのだろうか?


 小説の最後でも、先生は自らのエゴを露わにしてしまう。


 私に罪の告白をし、良心の呵責から自殺する。

 それだけを見れば、方法はともかくとして、自らの行いを悔い改めようとする清廉な人物のようにも見える。

 しかし、先生は遺書の中で私に向けてこう記すのだ。


 妻となったお嬢さんにだけは、真実を伝えないでくれ、と。


 死を目前にしながらも、愛する人にだけは自分の醜さを知られたくない。その一心で、最後の最後まで、自らの譲れぬ願いを遺書に記してしまうのだ。



「…………あくまでこれは、小説の中の話よ」


 誰に聞かせるでもなく、ポツリと言葉を零した。


 そう、あくまでこれはフィクションだ。

 夏目漱石という、稀代の名作家の筆によって描かれた結果、とんでもないリアリティを感じてしまうが、所詮は小説の中の話。

 現実とは違う。そうでなくては………………。



 むくり、と起き上がる。私は読み終えた小説を鞄に仕舞うため、学習机に歩み寄った。

 机の上には、通学に利用している学生鞄。そして、その傍らには、二冊の本が置かれている。


 ――『きっと、気に入るわ』、藤堂さんの言葉が甦る。


 私は動きを止め、その二冊の本を凝視した。


「…………何を怖がる必要があるっていうの?」


 私は鞄に『こゝろ』を仕舞うと、そんな言葉とは裏腹に、恐る恐る二冊の本へと手を伸ばした。



****



 黒板の上には丸い掛け時計。その短針と長針が重なる。同時に、ありふれたチャイム音が鳴り響いた。

 多くの生徒が待ち望んだ授業終了の合図。――昼休みの始まりだ。



「はぁ……んん」


 お弁当を食べている最中、思わず零れ出た欠伸をかみ殺す。


「何、雫。そんなに木原の授業は退屈だった?」

「いやいや、あの年寄りの念仏まがいの授業は、誰だって眠くなるっしょ!」


 いっしょに席を囲んだ友人たちが、続けざまに発言する。


「うーん、いや、実は昨日、夜更かししちゃって……」


 私は苦笑を浮かべつつ、理由を説明する。

 

 そう、昨日は結局、藤堂さんから押しつけられた本を読み耽ってしまい、気付いたら相当遅い時間になっていたのだ。


「なになに、遅くまで何やってたの?」

「決まってんじゃん! いけない妄想に励んでたんだよ!」

「うわー、卑猥だわー! って、あんたと雫をいっしょにするなし!」


 私は彼女たちの掛け合いに、ただ苦笑を返す。

 

 いつも通りだ。いっしょに弁当を食べながら、女同士、気兼ねなく会話に華を咲かせている。……そう、寝不足の頭に痛いぐらいに。


 あれ、どうしてだろう? 普段は全然気にならない、むしろ、楽しく聞いているはずなのに……今日はひどく…………。


 きっと、寝不足のせいだ。そう、だから――。


「……ねぇ、雫もそう思うでしょう?」

「えっ! いや、私は別に……」


 私の返事に、問いかけてきた莉子の表情が一変する。

 目を見開き、驚いた表情を。次いで眦をきつくして、不服そうな表情になる。


 しまった! どうして、こんな返事をしたの!?

 今のは明らかに、『そうだね』って、同意するところなのに。


 気まずい空気が流れる。それに敏感に反応した美穂が、おどけた声を出した。


「ちょっと、ちょっと、『別に……』って、あんたはエリカ様か!」

「えっと、ばれちゃった? 実は……」


 美穂の助け船に乗りかかる。ふっ、と笑いが漏れた。

 

 彼女の機転のおかげで、気まずい空気が緩和される。そして、何でも無い会話が再開された。


 それでも私は気まずさと、何より内心の動揺から、会話の途中にふいっ、と視線を逸らしてしまう。


 逸らした視線の先で、別の視線とぶつかる。

 その視線の主、藤堂さんは、私と視線が合うと、意味深な笑みを浮かべた。




 自分の弁当を食べ終えた直後、トイレに行くと言って教室を抜け出した。

 廊下を一人歩きながら考えるのは、先程の会話のこと。


 私はどうしてあんなことを言ったの? ……いや、それは大した問題じゃない。本当の問題は…………。

 藤堂さんの意味深な笑みが思い出される。


 私は……あの時……二人と話しながら、いったい何を思った?


「長谷川さん、少しいい?」


 考え事をしていたせいか、背後から近づく足音に気付かなかった。

 というか、この人は前回といい、今回といい、背後からの奇襲が好きなのかな?


 なんて益体もないことを考えながら、ゆっくりと振り返る。

 背後から声をかけてきた同級生の顔を確認してから、口を開いた。


「……いいよ。何の話かな、藤堂さん」

「ありがとう。でも、その前に少し歩こうか」


 そう言うと、返事も待たず、私を追い越して歩き出す藤堂さん。

 相変わらず、自分勝手な人だ。

 だけど、その不躾さが不思議と嫌には感じなかった。



 廊下を渡り、階段を下りる。

 私たちは、校舎と校舎の合間にある中庭まで出てきていた。まばらに人の姿があったが、それを避け、端の方まで歩み寄る。


「それで、どうして声をかけてきたの、藤堂さん?」


 歩みを止めた藤堂さんに問い掛ける。


「うーん、特にこれといった用事があるわけでもないけど……ね。まあ、つまり、長谷川さんと少し話してみたくなった……って、そういうところかしら?」

「はぁ……」


 顎に手を添えながら小首を傾げる藤堂さん。

 そこで疑問形は止めて欲しい。こちらも生返事しか返せないじゃないか。


「そうね、長谷川さん…うん? はせがわ…さん……。取り敢えず、雫でいい? 六文字と三文字じゃ大違いだし」

「…………うん、いいよ」

「なら、そういうことで。……あれ、何言おうとしたんだっけ?」


 そう言って、再び小首を傾げる藤堂さん。明るく染めた髪がサラリと流れる。

 しかし、考えるのを止めたのか、すぐに傾げた首を元に戻すと、口を開く。


「まぁ、いっか。今話したいことを話せばそれで……」

「……………………」


 自由過ぎる。会話の運びといい、その内容といい、まさしくフリーダム。

 他人事ながら少し心配してしまう。

 こんな調子でこの人は、人付き合いは大丈……いや、そういえば特に人との付き合いを持たない人だったな。


 仕切り直しと言わんばかりに、藤堂さんはこちらを真っすぐ見つめ直し、再度言葉を投げ掛けてくる。


「そうだね、じゃあ質問を何点か。雫、さっきの食事中の会話だけど、いったい何を考え、何を思ったの?」

「……何って? ……それは…………」


 まさしくそれは、私自身が疑問に思っていたことだ。

 思わず言葉に詰まる。しかし、何か返事をしなければ……。


「あの時はね、………………ううん、実は分からない」


 何かしら適当な回答をしようとも思ったが、あの時の意味深な笑みが甦る。

 すると、今更誤魔化すのも馬鹿馬鹿しい気がして、正直に内心を吐露した。


「……分からない、か」


 ふむふむと頷くと、質問を重ねる藤堂さん。


「ねぇ、雫。昨日の『人間失格』はもう読んだ?」


 質問の方向性が何の脈絡もなく、明後日の方に飛んで行ってしまう。

 いったい、彼女は何が聞きたいのだろう?


「……読んだけど、それが?」

「そっか、もう読んだか。そちらはどう感じた?」


 どう感じたか? 『人間失格』を私は……。

 『人間失格』の内容を思い返す。


 太宰治の代表作『人間失格』。“恥の多い生涯をおくってきました”という、あまりにも印象深い一文から始まる小説だ。


 この小説に登場する大庭葉蔵にとっての恥とは何であったのか?

 色々あるが、その一つが、他者にとっての普通を普通と思えない、それ故に人のことを理解できず、恐怖してしまうことだろう。

 結果として彼は、道化を演じ、自らを取り繕うことで……自らを取り繕う?


「…………藤堂さんは、私が本当の自分を隠すため、大庭葉蔵のように自分を偽り、取り繕っていると言いたいの?」


 意識せず低い声が出る。しかし、藤堂さんはその声にまったく頓着せず、それどころか、笑みすら浮かべてみせた。

 まるで、よくできました、とでも言うように。


「……もし、そんな風に思ったなら、それは藤堂さんの勘違いだよ」

「そうかな?」

「そうよ」


 しばらくの間、互いに無言のまま見つめ合う。先に沈黙を破ったのは、藤堂さんの方であった。


「……私ね、昔は品行方正なお嬢様だったの」

「はい?」


 お…じょう…さま? 思わず、明るく染めた髪と、着崩した制服を見やる。

 私のそんな不躾な視線に怒るでもなく、むしろ逆に、藤堂さんはお腹を抱えて笑いだした。

 

 初めて見るそんな藤堂さんの様子に、私は目を丸くする。

 しばらくして、彼女は笑いながら話しだす。


「ッ……プッ……クク、そうだよね。全然、お嬢様に見えないよね……フフ」


 私は何と言ったらいいのか分からず、そのまま黙りこくる。

 藤堂さんは、そんな私に構うことなく話し続ける。


「自慢になるけど、私はいわゆる良家のお嬢様なの。でもね、それだけに躾は厳しかった。周囲からはお嬢様としての振る舞いを求められた。……その求めに応え続ける内に、体の中に黒いものが溜まっていって、ある時、耐えきれなくなったの……」


 黒いものが溜まっていく? 私もいつか似たように感じなかったか?

 まるで黒い靄がかかっているかのように……。


「お嬢様を止めて、自分の思うように生きて、それで体に溜まった黒いもの、その多くは消えてなくなった。素晴らしい解放感だったわ……」


 その当時の解放感を思い出したかのように、藤堂さんは晴れ晴れとした表情を浮かべる。

 私はその表情に……。


「……でもね、完全に消えてなくなりはしなかった。当然よね、私一人が変わっても周囲は変わらない。世の中には下らないしがらみや、常識、あるいは倫理観なんかがあって……。本当の意味で自由には生きられない。……仕方ないと諦めていた、この前までは……」


 藤堂さんは私に背を向けると、一歩、二歩とゆっくりと歩き出す。

 まるで、歌うように台詞を発する劇団員のように語りながら……。


「……そう、私にとっての理想郷が存在したの。その場所は、此処よりずっと未成熟な社会で、それ故に倫理観が薄く、人々は剥き出しの欲望に忠実で……。本当は一人で行くつもりだった。だけど……」


 藤堂さんがくるりとターンする。ふわりと揺れるスカート、風になびく明るい髪、そして、露わになるあでやかな笑み。


「――きっと、雫も気に入るわ」

 

 

 私は彼女の言葉に困惑を隠せない。

 何せ、言っている意味が全く分からない。いや、分からないと言うより、理想郷云々などと、正気とは思えない。

 ともすれば、何か怪しい宗教にでも引っ掛かったのでは、と邪推してしまう。


 そう、私の理性は彼女の言葉に反発している。それは確かだ。

 それなのに、どうしてだろう?

 彼女の言葉に、何よりその笑みに、私は本能的に惹かれてしまったのだ。


 まるで、教科書で初めて『こゝろ』を読んだ時のように……。



 そして、その日を最後に、藤堂 朱は学校から姿を消した。


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