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――トロボ川。北の隣国マグナ王国から、メデス辺境伯領のリーブラ市を結ぶ主要街道を、斜めに分断するように流れる川の名である。
その川は、比較的浅い水位に反し、広い川幅を持った流れとなっている。
当然のことながら、その幅広の川には、岸を渡るための橋が、上流から下流にかけて複数架けられている。
とりわけ、主要街道上には、大規模な商隊でも容易に渡れる、立派な造りの橋が架けられている。いや、架けられていた。
その橋は、マグナ王国軍の進軍を阻むために、アルルニア王国諸侯軍の手によって既に落とされた後であった。
トロボ川の南岸には、およそ一万にのぼるアルルニア諸侯軍が布陣する。
これは、諸侯軍全軍の四分の一にしか満たない数であり、残る軍勢の多くは、ここよりも後方にあった。
全軍の内、まず五千の兵を重要拠点であるリーブラ市に残し、出陣した三万五千余りの軍団も更に分割させている。
諸侯軍の迎撃方針は、守勢に有利な地形を利用して、数に勝るマグナ王国軍を迎え撃つというものであった。
リーブラ市で籠城戦を、という意見もあったが、そもそも四万を超える諸侯軍全軍を、リーブラ市で収容しきれないという根本的な問題があった。
そのため、リーブラ籠城案は早々に棄却され、地形を利用した防衛戦が採用される運びとなったのである。
マグナ王国との国境からリーブラに至る道中で、方針に合致する地は三ヶ所。
一つは、先の戦いでフーバー将軍を討ち取った、森林と湖に挟まれた隘路。
しかし、予想外のマグナ軍の出陣に後手をとった諸侯軍は、敵軍が通過するよりも先に、この地点を抑えるのは難しいと判断。
より後方へ引き込んでの迎撃案が採られることとなった。
二つ目が、今まさに一万の兵が布陣するトロボ川。
敵前渡河するマグナ王国軍を、存分に叩いてやろうというわけである。
もっとも、主力が展開していないことからも分かる通り、この地で敵軍を撃退しようなどといった思惑はない。
トロボ川に布陣した諸侯軍の目的は、マグナ王国軍の足止め、時間稼ぎであった。
そして残す三つ目は、小高い丘が連なる丘陵地帯。ここには、諸侯軍主力が展開している。
つまり、最終的には、ここで大規模な戦端が開かれることになるだろう。
ともあれ、まずは、このトロボ川でマグナ王国軍を迎撃しなければならない。
この地に布陣する諸侯軍の指揮を任されたのは、アルルニア諸侯の一人、アヴリーヌ伯爵であった。
アヴリーヌ伯爵は、三十代後半の男性で、貴族然とした雰囲気を纏っている。
しかし、今でこそ落ち着いているが、かつての彼は、全く貴族らしからぬ経歴の持ち主であった。
彼は元々アヴリーヌ伯爵家の三男であり、家督を到底継げぬ立場であった。
故に、青年期の彼は早々に家を出ると、自分の腕っ節で一旗揚げようと、自ら傭兵団を立ち上げ、各地の戦場を渡り歩いたのだ。
その戦いぶりは相当なもので、彼の赤い髪から【赤鬼】という異名で恐れられるまでの傭兵になっていった。
しかし、誰にとっても予想外なことに、アヴリーヌ伯爵家の長男、次男が流行り病であっさりと亡くなってしまう。
結果、彼は傭兵団長からアヴリーヌ伯爵と、大きく立場を転身させたのである。
アヴリーヌ伯爵は鋭い眼光を細め、対岸の様子を見つめる。
トロボ川の北岸には、続々とマグナ王国軍の軍勢が集結してきていた。
「ベルトラン、あの旗印は確か、マグナ王国第二軍のものであったか?」
アヴリーヌ伯爵は、傭兵時代からの付き合いである傍らの男に問い掛ける。
「ええ。ラザフォード将軍率いる、第二軍の旗印ですな」
旧知の間柄ということもあるのだろう。いくらばかりか、砕けた口調で応じるベルトランと呼ばれた男。
どうやら、マグナ王国軍の先陣を務めるのは、ラザフォード将軍率いるマグナ王国第二軍であるらしかった。
「ふーむ。昔を思い出すな、ベルトラン。レレーヌの平野戦では、あの軍旗を掲げる騎兵隊に散々に追い散らされたものだ」
「あー。あまり、思い出したくない類の過去ですな」
アヴリーヌ伯爵の言葉に、苦笑を浮かべるベルトラン。
ベルトランの言葉も当然のこと。なにせ、彼らが傭兵時代に体験した負け戦の中でも、レレーヌの敗戦は、一等酷いものであったのだから。
「つまり、これは雪辱戦か。ふむ、久々に血が滾るではないか」
「はは、結構なことですな、伯爵閣下。それに今回は、勝算があります」
「うむ」
重々しく頷くアヴリーヌ伯爵。
ベルトランの言葉は、決して楽観的なものではない。極めて、現実に即した言葉であった。
彼らは別に、マグナ王国第二軍を過小評価などしているわけではない。
むしろ、その恐ろしさは、かつての敗戦で骨の髄まで染みついている。
そう、マグナ王国第二軍といえば、近隣諸国にその名を轟かす、最強の騎兵隊を有することで知られていた。
というのも、ラザフォード家の領地は、名馬の産地として名高く、良質な軍馬を揃えることができた。
その上、領民の多くは土地柄、馬に携わる仕事をしているものが多い。馬の扱いは手慣れたものである。
そんな領民の中から募った騎兵隊員は、何れも精強な実力者たちであった。
――『平原にて、ラザフォードに敵は無し』。昔から、戦に関わる者たちの間で語り継がれてきた言葉。
その言葉に異を唱える者は少ない。
だが、今回の戦場は、何の障害も無い平原ではなかった。
両軍の間には、幅広の川が流れる。その水位が十分足がつく程浅いとはいえ、それでも大の大人の腰元辺りまであるのだ。
いかな騎兵隊とはいえ――騎兵に限った話ではないが――その機動力を多いに削がれるのは間違いない。
その上、川の上には何一つとして遮蔽物などありはしない。つまり、一方的に矢の雨を降らされるというわけだ。
これには、どれほどの精兵であれ、たまったものではないだろう。
「そろそろですかな」
対岸の様子をつぶさに観察しながら、ベルトランが呟く。
「そのようだ」
ベルトランの言葉に、アヴリーヌ伯爵も頷く。
彼らの視線の先、そこには当初の雑然とした様子は見られず、整然と川岸に居並ぶ敵軍の姿があった。
後は、指揮官の言葉を待つばかりといったところか。
痛いばかりの緊張感を、この場にいる全てのものが共有する。
不自然なまでの沈黙。それは、嵐の前の静けさというものか。
いくばくの時が流れただろうか? ついにその音が鳴り響く。
高らかに鳴り響いたのは、突撃喇叭の音色。続けて上がるのは、兵士たちの蛮声。
それはまさしく、開戦を告げる戦場音楽であった。
アヴリーヌ伯爵の体がぶるりと震える。全身に鳥肌が立った。久々の実戦に、彼の精神は極限まで昂る。
「来るぞ、ベルトラン! 迎撃せよ!」
「はっ! 各士官、弓兵に迎撃準備を! しかし、先走るな! しっかりと敵兵を引きつけるのだ!」
アヴリーヌ伯爵、ベルトランが声を張り上げる。
また同様に、最前線の下士官たちが、ベルトランの指示と同じことを兵らに怒鳴りつけていく。
「……まだだ、まだだ、まだ、後少し」
誰に聞かせるでもなく呟く、アヴリーヌ伯爵。
けたたましい蛮声と水音を立てながら、徐々に、徐々に近づいてくる敵兵の姿。
その圧力は、待ち構える兵らに多大なプレッシャーを与える。
じりじりと、精神が磨り減るような時間。そしてついに、敵兵が弓の有効射程範囲まで近づいてきた!
「射てぇぇええええええ!!!!」
「「「「「てぇぇええええええ!!!!」」」」」
アヴリーヌ伯爵の叫び、続き各士官たちが叫び声を上げる。
瞬間、弓の鳴る音が響く。数多の矢が放物線を描きながら、宙へと放たれた。




