2-1
曇りなく磨かれたガラス窓。塵一つ落ちていないフロア。
良く手入れの届いた廊下を歩いていく。
「あー、重たい、重たいなぁー」
両腕に、書類の束を入れた箱を抱えながら、思わずそんなことを口走った。
「重たい? たった、その程度しか持っていないのに?」
すぐ後ろからの低い声。私は声の主を振り返る。振り返ったのだが……。
その人物は、私と同様の箱――何箱も積み重ねるという違いはあるが――のせいで、その顔を拝むことができなかった。
「ミーは女、ユーは男。アンダスタン?」
「……何を言っているのか、さっぱりですよ」
「まあ、つまり、男女の違いというやつですよ。騎士道精神を見せたまえ、ワトソン君」
「元商人に、何を期待しているのですか、貴女は」
まったく、あー言えば、こう言う。口ばかり達者な部下だなぁー。
私はやれやれと、首を振った。
場所は、リーブラの中枢、メデス辺境伯の執政府。その廊下を、私とワイズは荷物を抱えて歩いていた。
何をしているのかといえば、お引っ越しだ。
先日のコンラート殿下の決起宣言。それに伴い、コンラート殿下は、居住地を傭兵団の屯所から、リーブラの中枢へと移した。
もっとも、傭兵団そのものの待遇は変わらず、依然、屯所を住まいとしている。
待遇が変わったのは、私と、その下僕であるワイズである。
私は傭兵団事務員から、コンラート殿下付き主席秘書官という、よく分からない肩書へと転職と相成った。
まあ、きっと出世には違いないのだろう。何せ、給金も上がったことだし。
ついでに、ワイズもお零れで、殿下付きの秘書官となっている。
その実態は、私の補佐、ないし、小間使いといったところなのだが……。
「だいたい、どうして私たちがこれを運んでいるのです? 傭兵連中に運ばせれば、それでいいでしょうに」
「機密書類の類もあるからよ。盗み見られると困るでしょう」
例えば、エルゼ商会からの転売とか、転売とか、転売とか……。
うん、見られたらまずいわ、あの阿漕な転売の資料を。
「下っ端傭兵共に、そんな頭はありませんよ」
確かにその通り。下っ端のほとんどは、文字すら満足に読めない。
しかし、念には念をだ。
エルゼ商会からの買付では、ぼったくり価格を少しはマシにしたと、一般団員たちから現状、感謝されているのだ。
しかし、実際には、転売で馬鹿みたいに搾取していると知られれば……。
感謝の念を持っていただけに、それが反転した時の怒りは、きっとすさまじい。
文字通り、血祭りに上げられるかも。
だって、ただでさえ、今の私は……。
「……おい、見たか、今の娘の顔?」
「ああ。あの独特の容姿……噂の魔女か」
「おいおい、声が大きい。聞こえたらどうする」
いやいや、聞こえていますよ、お兄さん方。
廊下ですれ違った、役人A、役人Bが、私の顔を見てこそこそと話し出す。
ふー、やれやれ。
「エロイム、エッサイム。エロイム、エッサイム……きぃえー!」
背後から、声にならない悲鳴が三人分。おいおい、ワトソン君、お前もか。
そして、ドタドタと聞き苦しい足音。
「廊下を走ってはいけませんって、彼らは習わなかったのかしら?」
「……どうでしょうね」
……まあ、こういうことですよ。
先日の大勝利、その信じられないような戦果は、人々に感心を通り越して、いっそ不気味に思われたようだ。
しかも、それを為したのが、私みたいな得体の知れない小娘となれば尚のこと。
まあ、若年の上、彼らから見れば奇妙な風貌の娘だ。無理もない。
その結果が、【遠国の魔女】の異名。
なんと大袈裟な呼び名だろう。だけど……悪くない。そう悪くはない。
軍隊というものは男社会だ。ただの小娘では、相手に舐められてしまうかもしれない。
まともに相手されなければ、仕事に支障を来たしてしまう。
しかし、魔女と恐れられている内は、少なくともそのような心配はいらない。
ふふ、せいぜいこの悪名を利用させてもらいましょう。
そんな風に結論付けると、口の端を吊り上げた。
「また悪巧みですか、魔女殿?」
ワイズが厭味ったらしく問い掛けてくる。
ふむ、先程の奇声で驚かされた仕返しかしら?心の狭いことね。
「そうね、次は誰を呪い殺してやろうかと、思案中なのよ」
それらしい笑みを浮かべながら、冗談で返す。
「成程、どうやら噂通り、危険な娘のようですわね」
私の冗談に返答したのはワイズではなかった。その声はずっと高い女性のもの。
私は声のした方に視線を向ける。
前方の曲がり角から、声の主と思われる少女が姿を現した。
一目で高価なものと分かる豪奢なドレス。富裕層の女性、その象徴とも言うべき長髪は、癖一つ無い銀髪。また、小さな顔は愛らしく整っている。
文句なしの美少女。ただし、ずいぶんと気が強そうではあるが……。
年齢は私と同じくらいかしら? いや、それよりも……。
どうして初対面で睨まれているの? ああ、嫌だ、厄介事の気配がプンプンする。
「私に何か御用ですか、あー、……レディ?」
私の問い掛けに、ピクリと吊り上がる眦。あれ、地雷を踏み抜いた?
「まさか貴女、私が誰か分かりませんの?」
ええ、誰か分かりませんが、それが何か?
そう内心で返事をしていると、後ろからワイズが助け船を出してくる。
「まさか、まさか、メデス辺境伯家の御令嬢を知らぬものは、このリーブラにはおりませんよ、アンネリーお嬢様」
なるほど、メデス辺境伯の娘か。ワイズの言葉に満足気に頷く少女を見やる。
……なんというか、単純そうな娘だ。その高い自尊心とは裏腹に。
この娘相手なら、どうとでもなるかな?
「それで、アンネリーお嬢様、私に何の御用でしょうか?」
私は、再び問い直してやる。すると、こちらを睨みつけてくるアンネリー。
「一つ忠告をして上げようかと思いまして」
「忠告……ですか?」
「ええ、その通りですわ」
高慢そうに言い放つ、アンネリー。さて、何のことやら。
「魔女などという醜悪な輩が、高貴な方の傍に侍るなど、あってはならぬこと。今すぐお役目を返上すべきですわ」
忠告などと言いながら、その声音には敵意と憎悪が込められている。
ああ、そういうこと。つまりは嫉妬……か。まったく下らない。
コンラートはふざけた性格の持ち主だが、容姿は悪くない。その上、辺境伯から飾り上げられた英雄という名声。
上辺しか見ていないリーブラの娘たちから、今大層な人気を博している。
この単純そうなお嬢様も、例に漏れず、恋にでも落ちてしまったのだろう。
はあ、本当に下らない。
「……アンネリーお嬢様、お嬢様の懸念は見当違いなものです」
「見当違いですって?」
むっとした様子で、問い返してくるアンネリー。予想通りの反応だ。
さて、奇襲によって主導権を握りましょう。
「腹芸は苦手ですので、直截的に申し上げますが……。お嬢様は、コンラート殿下をお慕いなされておられるのですね?」
「なっ、何を言って……!」
林檎のように赤くなる頬、潤みだす瞳。はいはい、可愛い、可愛い。
「何かおかしなことを申し上げましたか? ……勇ましい貴公子と、身目麗しき御令嬢。むしろ、自然な成り行きかと。大層お似合いなことだと思います」
パクパクと、金魚のように口を開閉するアンネリー。
はい、無力化完了。話の主導権を完全に握った。
「お嬢様は、殿下の傍に女性があることが心配なのですね? ええ、それは当然の感情でしょう」
「い、いや、私は……」
表に出し辛い彼女の本音を、当然のことと肯定してやる。
口籠って俯くアンネリーだが、自己を肯定されることは、それほど悪い気分ではないでしょう?
「御心配はいりません。考えても見て下さい。私のような下賤の娘が、殿下と釣り合いましょうか? 万に一つの間違いもありえません」
私の言葉の真偽を確かめようと、伏し目がちな瞳を持ち上げるアンネリー。
そして、恐る恐る問い掛けてくる。
「その言葉に偽りは有りませんか?」
「ええ、天地神明にかけて」
まっすぐと、アンネリーの目を見つめ返しながら返答する。
しばしの沈黙。それを破って、アンネリーが口を開いた。
「先の発言を取り消します。ずいぶんと失礼な物言いをしました。お詫びしますわ、えーと……」
「雫です、お嬢様」
「そう、シズク、許して下さいね」
「勿論、どうかお気になさらず、アンネリーお嬢様」
よし、ミッションコンプリート。辺境伯の御令嬢の不興を買うことを回避した。
いや……ここはもう一歩踏み出すべきかな?
そうね、そうしましょう。
「お嬢様、これも何かの縁ですし、私からも一つ献策させて頂いても?」
「献策……ですか?」
「はい。……私の故郷の言葉で、『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』というものがございます」
「えっと、それは、どういう……?」
怪訝な表情で、小首を傾げるアンネリー。
「目標を落とす前に、その周辺を落とす方が近道になるという意味です。……殿下の側近である私を味方につければ、どれほどお嬢様の役に立つと思いますか?」
「あっ!」
私の言わんとしていることに、ようやく気付くアンネリー。
「殿下とお嬢様がお似合いだと言った言葉は偽りではありません。僭越ながら、お嬢様の恋路のお役に立てればと」
「私の手伝いを……してくれると?」
顎に手を添えて考え込むアンネリー。
何を悩む必要があるの? 答えは一つしかないでしょう?
「……その代価に、貴女は何を求めるのです?」
単純な娘と言っても、それでも貴族の娘だ。当然そこは気になるか。
「ああ、それは簡単なことです。恐れながら、私の願いを申し上げても?」
「……言ってみなさい」
表情に警戒心を滲ませながら、私の言葉を待つアンネリー。
「私の願い、それは……」
「それは?」
「貴女とお友達になることです。どうか、私とお友達になってくれませんか、アンネリーお嬢様?」
「お、お友達……?」
想定外の返答に、困惑するアンネリー。私は微笑みながら言葉を重ねる。
「はい、是非お友達に。軍内はむさ苦しい男ばかりなので、可憐なお嬢様が傍にいて下されば、一服の清涼剤になることでしょう」
「…………ふふふ、成程、これが【遠国の魔女】。よろしいですわ、シズク。貴女を友人と認めましょう。以後、アンネリーと呼びなさい。お嬢様はいりません」
愉快気に微笑みながら、アンネリーがこちらの申し出を許可する。
「ええ、よろしく、アンネリー」
早速、許しを得た呼び方で、彼女の名を口にする。
私は狙い通り、辺境伯の御令嬢との友誼を得たのであった。




