1-8
木製のコップの中から湯気が上がる。その湯気と共に、ほんのりと漂う香り。
それは、出涸らしのものでは味わえない、良質なものであった。
コップの端に口を付け、ゆっくりと手に持つそれを傾ける。
猫舌と、何より貧乏性の為、ちびちびと中身を飲み下していく。
その温かみに、ほー、と吐息が漏れる。
「いやー、ホッとするね」
「……中堅傭兵団の一事務員には、過ぎた贅沢ですね」
お茶を楽しむ私のことを、恨めし気に見ながら嫌味を言ってくるワイズ。
でもお生憎様、そんな嫌味を歯牙にかけないほど、今の私はご機嫌なのである。
確かに彼の言う通り、今飲んでいるお茶の茶葉は決して安いものではなかった。
しかし、今回の自分の働きに対するご褒美と思えば、ささやかなものだ。
ちなみに、ワイズの分はない。当然でしょう?
おめーの茶ねぇから!
「へー、いい香りがするね」
唐突に開かれたドアの音と共に、来訪者の声が室内に響く。
現れたのは派手な帽子を被った青年、コンラート副団長であった。
「ねぇ、僕の分は無いのかな、リルカマウスちゃん?」
「……逆に尋ねますが、どうしてあると思ったのですか?」
「ないの?」
「ありませんね」
にべもなく言い切る。おめーの茶もねぇから!
「それは残念。まあ、ゆっくりお茶を楽しむ暇もないわけだけどね」
「そうですか。それでは、どうぞ仕事をしに行って下さい」
相手の言葉尻に乗り、早々に部屋から追い出そうと試みる。
「はは、他人事みたいに言っているけど、君もいっしょにだからね」
「…………何も聞いていませんが?」
「そりゃ、誰も言ってないからね」
平然とのたまう、いかれ帽子野郎。
……つまり、新しいお仕事か。どうして、こうも唐突なのだか。
出かかった文句を、喉元で押し留める。勿体無いが、残ったお茶を一息に飲み干して、立ち上がった。
「それで? 今度の仕事はいったい、どういうものでしょう?」
まあ、副団長同伴という時点で、ロクなものではないでしょうけど。
「ああ、謁見だよ」
「はい?」
「だーかーら、謁見。王都から戻ったメデス辺境伯にお会いするのさ」
「はぁぁああああー!?」
執務室に、女子にあるまじき低音の絶叫が木霊する。それは、ドスの利いた可愛らしくない声だった。
というか、私の声だった(某吸血鬼男子調)。
****
その謁見室には、何人もの男性が集まっていた。
そのほとんどが、武人然とした屈強な男ばかり。
一等、見事な鎧姿の壮年の男性は、メデス辺境伯に仕える、ウェルテクス騎士団の団長。その周囲には、騎士団の幹部たち。
その他にも、辺境伯と契約を交わした各傭兵団の団長や幹部たちが揃う。
つまり、この場に集まっているのは、メデス辺境伯軍の主要人物たち。
……場違いすぎるでしょう。どうして、私がここにいるの?
今すぐにでも、隣の気狂い帽子野郎に問い質したいところだが、そうもいかない。
何故なら、一番上座に座るメデス辺境伯、その人の御前だからだ。
「よく集まってくれた。各々大儀である」
「滅相もありません、辺境伯閣下!」
メデス辺境伯が労いの言葉をかける。その言葉に対し、一同を代表して、騎士団の団長が答え、深々と頭を下げる。
他の武官たちも、それに倣い頭を下げていく。
私も頭を下げながら、ちらりと、上座に座る辺境伯を観察する。
年の頃、四十ばかりだろうか? 流石に、積み重ねた年齢のせいで、下座に立つ武官たちのように、生気に溢れた人物ではない。
むしろ、どこか、疲れたような印象さえ感じさせる中年男性であった。
その上、気難しそうな顔立ちをしている。
しかし、どういうわけか、その瞳や表情に、どこか理知的なものを感じさせる人物でもあった。
人間性はともかく、有能な人物であるのかもしれない。
少なくとも、勝手に抱いていた、暗愚な為政者という貴族のイメージとは、懸け離れた御仁であるらしい。
「一同、頭を上げよ。騎士団長、まずは、マグナ王国の動向を報告せよ」
「はっ! マグナ王国との国境付近に、マグナ王国軍が集結しつつありと、騎士団の斥候が確認しております。また、マグナ王国王都にも、後詰の軍団が終結している由」
騎士団長の言葉に、謁見室にどよめきが起こる。
メデス辺境伯は神経質そうな表情で、右手を一振りする。そうして、どよめきを静めると、再び口を開いた。
「やはり、先日の国境侵犯は単発的なものではなかったか。……威力偵察か、露払い、あるいは、その双方か。……騎士団長、敵軍の規模は如何ほどか?」
辺境伯の再度の問い掛けに、騎士団長は先程のように即答しない。
暫しの時間を置いて、絞り出すように報告する。
「……国境付近の先遣隊、いえ、先遣軍だけでも、二万近く。後詰の本軍は、それ以上の数になるとの見通しです」
再度上がるどよめき。それは、先程の比ではない。
メデス辺境伯も、今度ばかりは自然に治まるのを待つ構えのようだ。
あるいは、辺境伯自身も、あまりの事実に色を失っているのかもしれないが。
「先遣軍だけで二万だと!? 我らの三倍以上ではないか!」
「いや、リーブラの市民から、成人男性を徴収すれば……」
「……それでも、敵方の半分にも届くまい」
「更に、後詰の本軍が来るのだぞ」
「いったい、どうすれば………………」
そこかしこで、悲観的な発言が飛び交う。
あらら、これは随分と、まずそうね。
武人として、なんとも情けない醜態を見せる男たちを眺めながら、心中で溜息を吐くと共に、現状の厳しさを認識する。
まあ、彼らの反応も無理はない。
辺境伯軍の兵力は、騎士団が三千余り。各傭兵団を合わせた数も、ほぼ同数。総勢、六千前後といったところ。
先遣軍だけで、二万と聞かされれば、尻ごみするのも頷ける。
そんな騒然とした謁見室の中で、一人の男――いずれかの傭兵団の人間――が、上座の前まで進み出る。
そして、徐に口を開いた。
「辺境伯閣下! 恐れながら、御質問をお許しください」
「よい、申してみよ」
辺境伯の許しを得た男は、一礼すると、再び口を開く。
「閣下は援軍要請の為、直接王都まで出向かれたと聞いております。……国王陛下は、何と仰せであられたのでしょう?」
この男の問いに、ざわめきが一瞬で静まる。
謁見室に集まった全ての者が、辺境伯の答えを、固唾を飲んで見守る。
幾重もの視線は、重圧をもってメデス辺境伯に押し寄せる。
それを受け、辺境伯の顔が歪んだ。ただでさえ、神経質そうな表情が、一層酷くなっていく。
……これは期待できそうにないかな。
「……我らが王陛下は、急ぎ、諸侯に援軍の兵を挙げるよう、呼びかけると仰せだ。……ふん、命じるではなく、呼びかけるとは、なんとも泣かせるではないか」
そう言って、首を横に振る辺境伯。
そこかしこで、呻き声と、落胆の溜息が漏れた。
北のマグナ王国と違い、アルルニア王国は、中央集権的な国家ではなかった。
アルルニア王国の国内情勢は、10世紀における、フランス王国の黎明期を思い浮かべれば、分かりやすいかもしれない。
……分かりやすいのは、ひょっとして歴史好きだけかしら?
黎明期のフランス王国と同じく、アルルニア王国は、王権が弱く、多数の有力諸侯が幅を利かせる、地方分権的な国家である。
無論、有力諸侯とはいえ、王の要請を真っ向から反対することは難しい。
しかし、何かと理由をつけ、煙に巻くぐらいは平然とやってのけよう。
兵の準備を遅らせたり、その規模をできる限り縮小したり、あるいは、重病の振りでもして、そもそも軍を起こさない諸侯までいるかもしれない。
果たして、どれほどの諸侯が、メデス辺境伯の為に、必死に兵を挙げてくれるものだろうか?
……きっと、その数は極めて少ないに違いない。
「援軍は間に合うまい。少なくとも、敵先遣軍の来襲には。……そう思って、行動する方が賢明であろうよ」
メデス辺境伯が、そのように締め括る。謁見室には重い沈黙が落ちた。
辺境伯は、暫く、押し黙る武官たちを眺めると、再び口を開く。
「突然の話だ。すぐに対策を申せと言っても、無理があろう。……明朝、軍議を執り行うこととする。各々、それまで意見を纏めよ」
そう言い残すと、メデス辺境伯は、真っ先に謁見室を後にする。
武官たちは、慌てて頭を下げると、辺境伯を見送る。
そして頭を上げると、それぞれ、隣に立つ男と囁くような声で相談する。
その顔は、一様に暗い。
「辛気臭いし、とっとと退散しよう、団長、リルカマウスちゃん」
「ああ、そうするか」
コンラート副団長が提案し、ライナス団長が頷く。
三人連れだって、謁見室を後にする。
廊下に出ると、コンラート副団長が、大袈裟に深呼吸をした。
「はぁー。まったく、息が詰まるかと思ったよ」
「コンラート、お前な」
コンラート副団長のそんな様子に、ライナス団長は呆れ声を上げる。
私は二人の背中を見ながら、廊下を歩いた。
そして、一つ目の角を曲がった時、コンラート副団長の背中に問い掛ける。
「コンラート副団長、どうして私を、謁見室に連れて行ったのですか?」
コンラート副団長は、その問い掛けにピタリと足を止める。
そして、ゆっくりと振り返ると、返事をよこした。
「うーん、何となく、そうした方がいいような気がしてね」
「はい?」
「つまり、僕の勘が、そう囁いたのさ。リルカマウスちゃんを連れて行けってね」
「はあ、勘ですか」
呆れた。本当にこの男は……。
胡乱気な瞳で副団長を見やる。彼は、そんな私に微笑んだ。
「君なら、とんでもないことをするんじゃないかと、そう感じるんだ。エルゼ商会との商談の時のようにね」
「何です、それ。荒唐無稽にもほどが……」
思わず言葉が止まる。私の声を止めたのは、大きな手の平。
あろうことか、私の頭を無造作に撫でてきやがります。
「あっ、な……」
「期待しているよ、リルカマウスちゃん」
そう言うと、再び歩き出すコンラート副団長。ライナス団長も横に並ぶ。
一方、私は床に根を生やしたかのように動けない。
暫し、呆然。そして再起動――。
「乙女の頭を、気安く撫でるんじゃねーー!!」
廊下に、怒号の叫び声が響く。なんとも、下品な物言いであった。
というか、やっぱり、私の声だった(某吸血鬼男子調)。




