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――『こゝろ』、偉大な文豪、夏目漱石が記した、エゴイズムを主題とする長編小説。
国語の教科書に載っているその文章に、初めて目を通した時、私は言いようのない衝撃を受けた。
面白かったとか、感銘を受けたとか、そういったものではない。かといって、なら、どんな感想を持ったのかと聞かれれば困ってしまう。
……そう、やはり衝撃を受けたとしか言えないのだ。
これまで、明瞭に分かっていたはずの自分の心が、実はこれほどまでに得体の知れないものであったのかと、そういった意味でも驚いたのを覚えている。
しかし、周囲の友人たちにとってはそうでもなかったようだ。
彼女たちは一様に、『暗い』、『辛気臭い』などといった感想を口にした。
あるいは、同じ夏目漱石の作品なら、『坊っちゃん』の方がよっぽど面白いと言うのだ。
その口振りからは、私と同様の衝撃を受けたようには見えなかった。
私は一人、彼女たちと違う意見を口にするのが憚られて、『そうだね。暗いよね』などと言って、笑顔を浮かべながら調子を合わせた。
しかし、心の中に、何やら黒い靄がかかっているような心地を感じていた。
それからしばらく、この小説のことが頭の片隅に残り続けた。
昼食で楽しい話に華を咲かせた時。あるいは放課後の帰り道、ある友人の愚痴に相槌を打った時。それは不意に思い出されるのだ。
一時は忘れてしまおうとも考えた。しかし、どうしてもこの作品の持つ不可思議な引力に抗えず、私は一人、放課後の図書室を訪れることにした。
教科書に載っている一部分のみではなく、この小説を最初から最後まで読んでみたいという欲求が溢れ出したからだ。
そして私、長谷川 雫はその図書室で、藤堂 朱に出遭ってしまったのだ。
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コツ、コツ、コツ。私が足を一歩進める度、いやに足音が響く。
一階の廊下はシンと静まりかえり、人の気配が感じられない。
それもそのはず、今は全ての授業を終えた放課後。
帰宅部の生徒は既に学校を後にし、運動部はグラウンド、文化部は美術室や音楽室が固まる四階に、そして先生方は二階の職員室にいるはずだ。
そんな無人の廊下を歩くこと暫し、私は目的地に到着した。
私は、目の前にある横開きのドアに手をかける。
そして、そっと横に引いた。
ガラっと音を立てて開くドア。
すると、室内に設けられたカウンターの内側に座っている男子生徒、おそらくは図書委員であろう彼が、こちらを一瞥する。
しかし、すぐに興味を失ったのか、手元の本に視線を落とした。
私は図書室の中に足を踏み入れると、後ろ手でドアを閉めながら視線を左右に走らせる。
冬なのに開いている窓は換気のためだろうか?
その窓から冷たい風と、キンと甲高い、野球部がボールを打つ音が入ってくる。
室内に設置された各テーブルには、まばらに人の姿があった。
私の知り合いは、いない……よね?
そう内心で呟きながら、おっかなびっくり室内の様子を探る。
一頻り室内に視線を走らせ終えると、ひとまず安堵の息をついた。
それでも、まるで泥棒のような足取りで、そろり、そろりと目的の本棚を探す。
それは、明治・大正といった一昔前の作品が並ぶ本棚だ。
えっと、…………こっち、かな? うん、たぶんこっち。
キョロキョロと視線を彷徨わせながら、適当に当たりをつけて歩いていく。
しかし――。
うーん、見つからないよー。
すぐに自分の推測、あるいは、ただの勘が的外れであったことに気付かされる。
その事実に、少しばかり眉を顰めてしまう。
図書室を活用する機会は度々あったが、普段読んでいるジャンルと異なるため、なかなか見つからない。
歴史の本棚とは別だよね? ……まあ、別の本棚だろうね。
そんな分かり切ったことを、心の中で自問自答する。
まったく、歴史本のジャンルが並ぶ本棚ならすぐに分かるのに……。思わず、そう独りごちる。
そう、私はいわゆる「歴女」と呼ばれる趣味の持ち主で、図書室でもその手の本を借りる機会が多かった。
小さな頃は、女の子らしくない趣味だからと、あまり大っぴらにしなかったものだが……。
最近では「歴女」という言葉が浸透してきたおかげで、恥ずかしがらずに趣味を謳歌できるようになったので嬉しい限りだ。
そんな取り留めも無いことを考えながら、本棚の間を通り抜けていく。
すると、ある本のタイトルが目に留まる。
タイトルは、『銀河鉄道の夜』。言わずと知れた、宮沢賢治の代表作。
あっ、きっとこの辺だ!
心中に安堵と喜びが溢れてくる。
ようやく目当ての本棚を見つけ、その前に歩み寄る。
そして本棚に並ぶ、本の背表紙に指を滑らしていった。
芥川の『蜘蛛の糸』に『羅生門』……、国木田独歩の『武蔵野』……、それから、田山花袋の『蒲団』……あった! 夏目漱石の『こゝろ』だ。
指先を鉤のように曲げると、本棚からその本を引っ張り出し――。
「漱石の『こゝろ』に興味があるの?」
「わっ!?」
突然背後から話し掛けられ、素っ頓狂な声を上げてしまう。
その上、本が手の中から滑り落ち、床へと落としてしまった。
私は慌てて本を拾い上げると、恐る恐る後ろを振り返る。
背後から話し掛けてきた人物の姿を認め、私は再度、驚きの声を上げそうになるのを何とか堪えた。
背後に立っていたのは、着崩した制服を身に纏い、明るく染めた頭髪を肩先まで伸ばした少女。――同級生の藤堂 朱であった。
彼女は普段私とは、いや、私を含むクラスの女子たちの誰とも付き合いを持たない、そんな女生徒であった。
そんな彼女が何故? どうして、私なんかに声を掛けるの?
疑念が鎌首をもたげる。
私なんかと言えば、少々卑屈すぎる言い方かもしれない。しかし、実際、何処にでもいるような平凡な自分には、適当な表現だろう。
例えば、学生の本文である学業の成績は、中の上と最も目立たない立ち位置。
歴史好きが高じて、社会だけはトップクラスだが、他の教科は見事なまでに平均点と近似値を叩きだす。
歴史以外に誇れる点があるとすると、小学生のころ珠算を習っていたこともあり、計算だけは早いのだが……。
だからどうしたと言われても、仕方のないレベル。
それから、年頃の少女として最も気にかかる点。容姿に関して言えば……。
まあ、悪くは無い顔立ちをしているという自負はある。
しかし、どうしたわけかパッとしない。そう、地味な印象から抜けきれないのだ。
目の前の少女のように、髪でも染めればまた違ってくるのかもしれないが、そこまでの踏ん切りが、どうしてもつかない。
せめてものこだわりとして、黒髪を長く伸ばしているが……魅力的とは言い難い。
一方、彼女、藤堂さんを端的に評するなら、容姿端麗、成績優秀。……にもかかわらず、決して品行方正とだけは言えない、珍しいタイプの人物だ。
不良生徒のように、何か大きな問題を起こすとか、馬鹿なことを仕出かすとか、そんなことをするわけではない。
ただ、自分のやりたくないこと、気乗りしないこと、あるいは納得のいかないことに対して、頑として受け付けない、そんなところがあった。
そんな人物だから、人間関係において角が立つことも多い。その手の衝突は、学友に対してだけではなく、教師にまで及ぶことも珍しくなかった。
常に自分のやりたいように、自分の好きなようにやる。そんな彼女のことを自分勝手な女だと毛嫌いする人間も少なくない。
しかし、そんな中でも彼女は周囲から常に一目置かれる人物であった。
それは単純に優れた容姿や頭脳、それ故のことではなく、上手くは言えないが、彼女にはどこか華のようなものがあった。
他の女生徒のようにグループに属さず一人でいても、決して端役にはならない。
一人超然としている彼女は、遠巻きにする人の輪の中心に独り立つ、孤高の主人公のような雰囲気を持っている。
問題児であり、しかしながら人の目を惹きつけてやまない一種の偶像。
だからこそ分からない。どうして彼女が私に声を掛けてきたのかが。
……ただの気紛れだろうか?
その可能性が一番高いかもしれない。なにせ彼女は、自分勝手であると同時に、とんでもない気分屋としても有名であった。
「ねぇ、人の話を聞いているの?」
明らかにイラついた声音で、再度、藤堂さんが話しかけてくる。
ッ、マズイ、何か返事しないと!
「えっと! 興味っていうか、その……何だろう……」
中身が無く曖昧な、その上尻つぼみの返答。藤堂さんの眉が上がる。
……うん、今の返事はない。藤堂さんじゃなくてもイラっとくるに違いない。
彼女は何か言いたげな素振りを見せ、しかし、結局何も口にすることなく、無言のまま前へと足を踏み出す。
じ、実力行使ですか!? あまりの事態に狼狽する。
私はザッと、横に身体を逃がす……が、藤堂さんはそんな私に構わず、本棚から二冊の本を抜き出す。
そして私の方に、その本を突き出してきた。
「うぇ、え?」
またもや、間抜けな声を漏らしながら、思わず差し出された本を受け取る。
「その本も読むといいよ」
「は、はぁ……」
「きっと、気に入るわ」
そう一方的に告げると、藤堂さんは踵を返し、私の前から去って行った。
私はその後ろ姿を呆然と見送る。そして、その姿が見えなくなると、深々とため息を吐いた。
一心地つき、そこでようやく私は、手渡された二冊の本に視線を落とす。
そこには『舞姫』と『人間失格』というタイトルが記されていた。