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「では、また定時退社日に参ります」
地下二階で降りて行く彼らに挨拶をすると、先に降りていた蓮が戻ってきた。
「何をしている? 一緒に帰ろう。送って行くから」
「え・・・いや、いいですよ。近いですし」
「駄目だよ。こっちは手伝ってもらった上にお弁当まで作ってくれて何も瑠璃に対価を払えてないんだから。せめて送らせて」
言われてみれば、確かに完全な手弁当でボランティアだな、と思うが全く苦にはなっていない。むしろ自分の欲求が満たされる感覚の方が近い。
「お弁当は自分の趣味ですし、お手伝いも無理矢理お願いしてさせてもらってるし、気にしないで下さい。・・本当に近いので」
「ならば尚更だよ。帰る方向が同じかもしれないし」
どうしても蓮は送って行くと言って引かない。自宅から無理をすれば歩いて通える距離の会社を選んでいるだけに、送ってもらう事が非常に申し訳なく感じる。
「送ってもらえばいいよ。ここはもう遠慮する所じゃないんじゃない? これからも手伝いに来てくれるつもりなんでしょ?」
押し問答をしている私たちを見兼ねて余暉サンが割って入ってきた。
言われて、それもそうだなと思い直し「それじゃ宜しくお願いします」と送ってもらう事にした。
ドアを開けて待っていてくれている車はアストンマーチンのコンバーチブル。いつかは乗ってみたい(できれば運転したい、でも自分の稼ぎじゃ買えない)と思っていた車にテンションが急上昇した。
(いやはや、時たますれ違うだけでも目で追っちゃう車に乗れちゃうなんて。きゃぁ、神様ありがとう)
心の中で、いるかいないか分からない神様に感謝をした。
それにしても蓮に似合い過ぎていてノー違和感である。
私は嬉々として乗り込んだ。
そしてその結果、蓮の家と私の家は区こそ違えど、それ程遠くない事が分かった。でも、やっぱり会社から蓮の家に直行する方が近いんだろうなとは、地図を頭に思い描きながらも考えたがそこは言わぬが花で話題にはしなかった。
予想通りあっという間にうちの近くの道に差し掛かり、もう歩いて帰っても問題ない距離となった所で止めてもらいお礼を言って車を降りようとしたら腕を引かれた。
「ちょっと待って。もう少しだけ付き合ってくれない?」
真剣なまなざしで蓮が訴えてきた。もうだいぶ懐柔されていた私は素直に頷くと座り直した。それを見届けて蓮の運転する車は滑るように走り出した。そして近くの入口から目黒線へ入り、天現寺から左へ折れC1に入り道なりに走っている。
「運転お上手ですね」
思っている事を素直に口に出した。蓮はちょっと驚いていたようだけど「そお? あんまり意識した事ないけどね」と言って笑っていたが、
「例えばどう言う所?」
と逆に質問された。
「どうと言われれば、答えに詰まるのですけど、そうですねぇ・・・。ブレーキを踏むタイミングとか、ちゃんと周囲の流れに乗って合流が出来ていたり、ウインカーを出してからの車線変更のタイミングとか加速具合とか・・・私と同じタイミングなんですよね。だから、安心していられます」
「・・・」
私が答えてから蓮は沈黙した。
(ありゃ? 沈黙? なぜに? 何か変な事言ったかな?)
蓮を見ると薄ら頬が染まっているようだ。この美形さんは本当にクルクルと表情が変わるなぁと眺めていたら
「そんなに見ても面白いものじゃないぞ」
とチラリとこちらに視線をよこした。その表情がまた可愛らしくて、くぷぷと吹き出してしまった。
「笑うな」
蓮はすねた口調で口を尖らせた。
車は箱崎から木場を通り有明へと走って行く。
「本当は大井の方へ行きたいんだけど、今日は橋を渡って帰るよ」
自分で運転する時にはじっくり眺める事はできないが、今日は幸いにも助手席に居る。顔を左へ向ければ蓮の姿は完全に見えなくなり代わりに湾が目に入ってきた。だが、それが何だか寂しくて、すぐに向き直ってしまった。そして、運転している蓮の横顔を見た途端、無意識に手が延びた。
「瑠璃?」
蓮の声で我に返る。
「あ、ごめんなさい!」
私は運転中の蓮の頬に手を添えていたのだ。慌てて手を引いく。
「運転中なのにゴメンナサイ」
私は助手席で小さく頷いて謝った。すると蓮の左手が私の頭を撫でる。
「いや別にいいよ。むしろ嬉しいくらいだし。でも、もっと違う時に触れて欲しいかな」
自分の行為にもだが、蓮の言葉にも顔が火照るのを感じる。
大胆すぎる自分の行動が信じられない。どうしてあんな事しちゃったんだろうと考えるがその時の事が思い出せない。それと、頭を撫でられているのが心地よくて考えられないのもある。伝わる蓮の暖かさが心地いい。うっとりと堪能しようとしたその時、突然その手が離れた。
とても残念に感じて離れて行く手を見遣ればハンドルへと戻っていく。再びC1へ合流するために速度を落とし合流のタイミングを待っているのだ。
一旦入ったC1も直ぐに離脱し私たちは目黒線へと入る。天現寺を過ぎるともうすぐ家だなぁと、ほんの少し寂しく感じた。我が家の最寄りの出口から降り一般道路へと入ると、ここから先は住宅街で一方通行が多い。途中で降ろしてもらおうと思ったが、どうしても家まで送るという蓮の主張に甘える事にした。
「ここ?」
蓮が開いている門の間に車を滑り込ませる。それ程広くはないが、来客用のために2台分のスペースは確保してある。そこへシルバーのボディが滑り込んで止まった。
「楽しかったです。ありがとうございました」
礼を言ってドアに手をかけようとした時、背後から抱きすくめられた。
「瑠璃」
耳元で名前を呼ばれると、軽い電流の様なものが背骨を通電したように感じた。
「瑠璃。あのね、昼間に言った事、本気だから。・・・私の恋人になって下さい」
心臓が再び激しく跳ね始め呼吸が荒くなる。これだけくっついているから蓮には全てが分かっている、と思う。だから、というか返事は顔を見てしようと腹をくくった。
蓮の腕に手を添えゆっくりと外して体を向けると、正面から蓮の目を見た。蓮も視線を外す事無く見つめ返してくる。私はすぅっと呼吸をすると口を開いた。
「正直に言います。私はもうじき30歳になりますが、誰ともおつきあいをしたことがありません。だから、恋愛がどういうものか、おつきあいがどう言うもの分かりません。恋人として何をすればいいのかも。それでもいいんですか?」
蓮はじーっと私の目を見ている。何も言って来ない。変な事を言ってしまったのだろうか?
「あの・・・」
「瑠璃。何か勘違いしているよ。恋愛って何かしなきゃいけないってもんじゃないと思うんだ。少なくとも私は瑠璃から何かしてもらいたいから付き合いたいとは考えていないよ。私が瑠璃に何かをしたいとは思うけどね。二人として同じ人間がいないのと同様に、付き合い方も私たちなりで良いんじゃないかな。あまり構えずに自然体でいて欲しいんだ」
流石に30年近く生きていると好むと好まざるとに関わらず、色んな情報に触れる。身近なところでは社内恋愛や友人達の恋愛話。自然と頭でっかちになっていて、ついつい頭の中で色んなパズルを組み立て、計算した結果が先行してしまっているようだ。蓮のこの言葉がとても新鮮で、すぅっと私の中に入ってきた。
「ねぇ蓮。どうして私なの?」
昼間にも言った事だが改めて確認せずにはいられない。
「何でだろうね。私も分からない。強いて言えば直感・・・だろうか。瑠璃が良いって思ったんだ。もし、瑠璃と恋人になれないからといって、他の人と付き合うという選択肢は私にはない。ただただ、心の底から瑠璃の事を欲しているだけだ。・・・無条件にね。瑠璃と一緒に居られれば少なくとも私は幸せだと確信が持てる。今日会って、それは確信した」
(無条件・・・)
この言葉が私の心に深く突き刺さった。
(無条件にこの人が私を好きでいてくれるの? 信じられないんだけど・・・頭で考え過ぎかな、これも)
「他に何か言ってない事あるかな。あ、そうか」
何やら蓮は一人でブツブツと言っている。
「瑠璃」
「はい」
「好きです」
「・・・」
思わず息を飲んでしまった。面と向かって言われるのは初めてだったから。
「真剣に付き合いたいんだ」
重ねて言われた言葉にまともに呼吸が出来なくなっている。
「瑠璃?」
(もうすぐ30歳なのに! 落ち着け、落ち着け、落ち着け)
ドキドキと鳴り続ける心臓を抑えるようにギュッと胸の前で手を握りしめ、そして覚悟を決めた。
「あの、蓮。付き合うなら私も真剣に付き合いたいです。だけど、私はまだ貴方に対して恋愛感情を感じられていないの。だから、今はまだ好きと言えません」
そう言えば蓮は今日一番の笑顔を見せた。
「構わないよ。嘘はいらないから。むしろ、気持ちも無いのに言われたら興醒めする」
そして、素直でよろしい、と褒められた。
「蓮は言いましたよね。少しでも興味があるならyesが欲しいと。まだ、貴方の事は好きとは言えませんが、知りたいと思います。だから貴方の申し出を受けようと思います」
私の言葉が終わらないうちに蓮に抱き寄せられた。
「嬉しい。嬉しい瑠璃。ありがとう。君の事、一生大切にするから」
「ちょ、ちょっと待って。結婚はまだ先ですよ。まだ・・・むぐ」
興奮した蓮の唇に私の言葉が飲み込まれた。
まだ出会って初日なのに、既にセカンドキスまで許してしまった・・・。
「あの、蓮。そろそろ私、降ります」
庭先に車を止めてから随分と経つ。流石に両親も気づいているだろう。
「瑠璃、付き合うにあたってきちんと筋を通したい。突然で申し訳ないのだが、ご両親に挨拶をさせてもらえないだろうか?」
蓮は真剣な顔で聞いてきた。確かにココまで来ておいて挨拶もせずに帰るとなると、心証が良く無いかもしれない。それにきっと双方にとっても今日会わせておく方が良いように感じる。私は両親に話をしてくるからちょっと待っててと言って、先に家に入った。
果たして両親は快く応じてくれる事になった。直ぐに蓮を呼びに戻ると一緒に家に入る。
玄関には母が待っていて、挨拶をしようとした蓮を押しとどめ、私たちに早く上がるようにとせっついてきた。
そして、玄関に最も近い応接間に通され、父が出迎えた。直ぐさま蓮が歩みでて挨拶をする。
「神威蓮と申します。この度は急な申し出にも関わらずお時間を作っていただき、ありがとうございます。今回、瑠璃さんとおつきあいをするにあたり、どうしても先にご両親へ挨拶をしておきたかったものですから」
(へー、神威というのか、そうか、うちの経営陣の名前と一緒なんだ、・・・それもそうよね)
名字を聞いて改めて、会社関係者なんだなと、取るに足らない事を思った。
蓮は父よりも頭一つ分は高い位置から真摯な態度で言葉を紡いでいる。少し遅れてやってきた母も父の隣で蓮の言葉を聞いていた。
蓮の挨拶が一区切り付いた所で今度は父が口を開いた。
「この時をお待ちしておりました。さ、お掛け下さい」
(ん? 待っていた?)
父の不思議な言葉にも首を捻るが、母が早く座りなさいと私をせっつくので思考が止まってしまった。
私は蓮の隣に腰をかけて、両親に向かい合う。この状況は人生で初めてであり柄にも無く緊張してしまっている。私から蓮を紹介しなければならないのに言葉が出て来ない。内心焦っていると、蓮が私の手を握った。とっさに蓮を見上げれば彼は優しく微笑みを浮かべ、軽く頷いている。その蓮の顔を見れば今までの焦りがどこかへと消えて行った。
(腹をくくるときだ)
すぅっと息を吸い込み父と母に顔を向けた。
「えっと、神威・・・蓮サンです。あの、」
折角の括った腹が・・・。
何から話していいのか躊躇する。それを察した蓮が直ぐさま後を引き継いで話し始めた。
「私たちは今日初めて出会いました。ですが、私は少し前から家人を通じてお嬢さんのお話を伺っていました。その時から、この人しか居ないと感じていました。その思いは今日お会いしてから確信に変わりました、私は間違っていなかったと。先ほど二人で話し合い、おつきあいをする事になりましたのでご挨拶に参りました」
恐る恐る両親を見れば、母は驚いた顔をしていたが父は穏やかな表情のままだった。こう言ってはなんだが少し拍子抜けした感が否めない。
「挨拶をして下さるということは、娘と“真剣に”おつきあいをすると言う意思表示と思って宜しいですか?」
「はい。お嬢さんとは真剣に、できれば結婚を視野に入れて関係を深めたいと思っています」
父よーーー。結婚という文字にどう反応するのだろうか。私はドキドキと慎重に様子を窺う。
「分かりました。そこまでの覚悟がおありなら認めましょう」
えっ!? と母と私が父を見るが、父はひょうひょうとした表情のまま言葉を続ける。
「あと二年もすればこの子も30歳ですし、いい年にもなるのに男の影がちらりとも見えませんでね、どうなる事やらと心配していたのですよ。そろそろ知り合いの息子でも充てがってみようかと考えていた所でした」
何故か父はニヤリと人の悪い顔をした。この言葉に今度は蓮が息を飲む。
「ひとまずは、合格です。この子の親として、こちらからもお願いします」
「ありがとうございます! 絶対に幸せにしますから!」
(だから違うでしょう・・・)
頬がピクピクと反応をするが、この場の雰囲気を壊す勇気もなく、私は突っ込むこともできず、ただただ両親と蓮のやり取りを聞いていた。
その後、父と蓮は意気投合して私をネタに色々と話を始めた。
話題にされている身としては、身の置き所が無くソワソワと話題を変えるきっかけを図るべく様子を窺っていた所、母が口を開いた。
「ところで神威さんは、お仕事は何をなさっていらっしゃるのですか?」
「どうぞ蓮とお呼び下さい。私の仕事についてですが、もう少ししたら彼女と同じ会社に勤務します」
「ええええええ?! 本当?」
「そう。竹崎は何も言ってなかった? 私は経営に携わる事になっているんだ。だからランチは可能な限り毎日一緒に食べよう」
今はランチの約束をしている場合じゃないわよね。
「はぁ? ちょっと待って! 経営って何?」
「暫くは経営企画ってとこに席を置くんだけど、その内、50階に行く予定だそうだよ」
蓮はまるで他人事のように淡々と話している。
「50階? それって・・・」
「うん、次期社長だってさ」
何でも無いという風にアッサリと言う。こちらが拍子抜けする程に。
「はぁ・・・」
もう空いた口が塞がらない。
(そう言えば、竹崎サンが蓮は創業家だと言ってたっけ。でも、まさかいきなり次期社長? 経営陣は世襲なんだろうか・・・そう言う事、全然知らないや)
想像もしていなかった50階(天上界)を思い浮かべる。
「まぁ次期社長? 大変なお立場になられるのですわね。でもそんなお立場で娘を幸せにできると? いつも一緒に居てやれるとおっしゃるの? 娘を寂しがらせないと言い切れますか?」
母は何故か次期社長という言葉に眉をひそめて、不機嫌な顔をしている。そして、
「あなた、私はこのお付き合いには反対ですわ」
きっぱりと母がそう言った。それを聞いて蓮が慌てている。
「な、なぜですか? 理由をお聞かせ下さい。私は、私たちは確かに互いの事をまだ良く知りませんが、ですが」
「それが理由ではありません。私が懸念しているのは、権力や財産を持った後の堕落する人間の多さです。どうやらあなたはお金には困っていらっしゃらないようなので、自由になるお金が沢山手に入ったとしても、それ相応に使い方を心得ていらっしゃるとは思いますが、ですが立場が上になればなるほど、きっとあなたには言い寄って来る女性も多くなるでしょう。もしくは会社同士の繋がり云々と言いつつ政略的な結婚等を提示されるかもしれません。その時、あなたは瑠璃を守れるのですか? 瑠璃一筋で通せるのですか? つい魔が差したなんて言い訳は私には通用しませんわよ」
いつになく母の言葉が強い。ひょっとすると私はこういう母を見るのは初めてかもしれない。父も慌ててフォローに入る。
「おい、お前。それはちょっと言い過ぎだし、早すぎじゃないか? まだこの二人は・・・」
「あなた。最初だからこそです。私は瑠璃をみすみす不幸になるような結婚をさせたくはありません。いいですか? 結婚を視野に入れていると言うのなら尚更です。そこの所はどうなのですか? 神威蓮さん」
母もその人生において色々と見聞きして来たのだろう。辛酸をなめたのかもしれない。母に名指しで詰め寄られた蓮はーーー微笑んでいる。
「おっしゃる事はごもっともです。ですが、これだけは誓います。私は瑠璃一筋です。長い、長い人生において私は瑠璃のような女性を、いえ、瑠璃を待っていました。出会った時の心が震える様な喜びはどう表現していいか分かりませんが、誇張でなく、魂を揺すられる思いでした。ご心配の事は、こればかりはこれからの私の行動で証明するしかありません。懸念が晴れるまで、私の事は穿った見方で見ていただいても構いません。ですがどうか、私から瑠璃を取り上げないで下さい。私は一生瑠璃一筋です。もし、瑠璃と結婚できなければ、他の誰とも結婚はしません」
(ちょ、ちょっと、なぜ既に結婚する話になってるの?)
思わず声に出して突っ込みそうになったが、この真剣な間において流石にそれはできなかった。
母と蓮がにらみ合っている。その向こうでは父が眉根を寄せて困っている様子だ。
「ん・・・お母さん、もしかして、お父さんが不貞を働いた事あるの?」
何の気無しに言った言葉だったが、母はこれまで以上の鋭い視線を私に向けて言った。
「そんな事あるわけないでしょ!」
「そんな事あるわけないだろ!」
父と母、双方から責められた。
聞かなきゃ良かったと激しく後悔した。確かに私の両親は年相応に仲睦まじいが、だからといって父が不貞を働いていないと言う証拠にはならないじゃないか、そう思い、私はじとっと父に視線を向けた。
「はぁ、、、具体的に証明できるわけじゃないけど、私は母さん一筋だ。浮気をしたいと思った事も無い」
再びはぁっと父は大きな溜め息をついた。
「なぁお前。ここは蓮君を信用して任せてみようじゃないか。どうやっても、こればかりは証明するのは難しいよ」
実感のこもった父の言葉に母は渋々頷いた。
「蓮君。一旦は瑠璃の事を預けますけど、もし、私が見て駄目だと思った時には即座に返してもらいますからね」
「はい! ありがとうございます」
ようやく母から許可が降りた事で蓮は嬉しそうだ。私もなぜか嬉しかった。
少し説明します、と蓮が口を開いた。
「我が社は上場はしておりません。今後もするつもりもありませんし、必要性もありません」
「つまり資金は潤沢にあると? 乗っ取られる事は無いと?」
「将来の事までは断言できませんが、今の所、業績は順調に伸びていますし海外への展開も問題なく進んでいます。国内での一般的な認知度は低いですが我が社の強みは海外で遺憾なく発揮されています」
そうだった。メーカーのメーカーというか表立っての認知度は無いが、うちの会社無しではそもそも自社製品が作れないという会社が全世界に広がっている(らしい)。だが、その事は会社全体として見たらほんの一部分で、もっと他の分野においては更に基軸を担っている部門もあると聞いている。
「ふむ、話は聞こえてきていますよ。あなたの会社の実力も体力も何もかも。日の沈まぬ神威・・・。全世界どこでも仕事ができる会社。恐らくこの国が破綻しても、貴方の会社は潰れないだろうということも」
さすが社会人経験の長い父は経済界の動きや企業研究に余念はないが、口ぶりからすると、私以上にうちの会社の事を知っている気がする。
「はい。その自信はあります。将来私が無職になる事はかなり低いです。だから安心して娘さんを私に下さい」
「それなら、まぁひとまずは安心ね」
ようやく母が安心した顔をした。だが、無職にならないって部分に安心感を覚えるのは普通の反応なのだろうか? 次期社長って言葉に普通は飛びつくんじゃないのかしら? などと余計な事を考える。
何だか頭がクラクラしてきた。つまりだね、私は、私の恋人は私の上司の上司の上司の上司になる人ってことで、えーっと・・・ぷしゅ・・・。
「る、瑠璃。大丈夫か?」
蓮が思考停止に陥った私の体を支えてくれた。
「駄目ね、この子ったら。もうすぐ30歳になるっていうのに。ゴメンナサイね蓮君。こんな娘で」
「いいえ義母上、瑠璃は瑠璃であってくれさえすればいいのです。何も取り繕う必要などありません。自然体の瑠璃が私は愛おしいのですから」
「まぁ優しい事。良かったわねあなた。素敵な旦那様が見つかって」
母は本気で喜んでいるようだ。さっきまであんなに渋っていたのに。
「ああ、本当に良かった。後は、この子の覚醒を待つだけですね蓮君」
「はい、義父上。どうぞゆっくりと私たちを見守って下さい」
父と蓮は二人だけに分かる話をしている気がする。
(覚醒って何? 自覚の間違いじゃないの? しかも、結婚前提というか婚約者扱いなの?)
「ところで、蓮君のご両親は?」
(そうよ、そこよ。聞いてなかったし)
「おかげさまで健在です。父は別な所に居て直ぐには会えませんが、瑠璃の事は気に入ってくれています。もちろん母も」
「え? 竹崎サンは蓮のご両親にも私の話を?」
「そうだよ。当然じゃないか。両親のすすめが無ければ私は瑠璃に会えなかったんだ。あ、勘違いしないでくれる? 仮に両親が反対したとしても説得していたはずだから」
口をパクパクさせている私の代わりに父が答えた。
「お父上様にはくれぐれも宜しくと、お伝え下さい。我が娘を末永く宜しくお願いしますと」
「はい、伝えます。が、瑠璃を娶るのは私ですからそこは間違いの無いようにお願いします」
「娶るって・・・えっと・・・」
「瑠璃は嫌? 私と結婚するのは」
ちょこっと首を傾げる蓮に重なるように、ひょっこり子犬の幻影が見える。
「だから展開が早すぎて付いて行けないの! さっきから言っているでしょ? 私たちは今日会ったばかりなの。付き合うって事でもいっぱいいっぱいなのに、結婚とかまだ頭が付いて行かないの!」
「ふ。瑠璃は恥ずかしがりやなのだな。大丈夫だよ、私は瑠璃に相応わしい夫になるように努力するから、瑠璃はそのままでいて」
「違うわ! そんなんじゃないの。結婚するのならば私だっていい奥さんになりたいわ。だけどね、い・・むぎゅ」
何故か蓮に抱きしめられている。
「瑠璃! ありがとう! 私は幸せ者だ!」
息が・・・息が・・・ぐるじい・・・パシンパシンとかろうじて自由に動く肘から先で蓮の体を打ち付け、苦しいという意思表示をする。ようやく私の状況を気づいてくれた蓮が慌てて腕の力を緩めた。私は恐らく酸欠で顔が赤くなっているだろうと思うが、新鮮な空気を吸う為に顔を上に向け口を開けてはぁはぁと荒く呼吸をする。
「瑠璃・・・キス、していい?」
デジャヴ?
んーーーーーーーーーーー!
思い出した! 昼間は余暉サンが助けてくれたのだった。今は、既にキスされている!! 親の前で!
「ほほほ。若いっていいわね。幸せになりなさいよ瑠璃」
お、おかあさーん?