24
あっという間に9月も下旬になった。
すったもんだと仕事に全く関係ない攻防戦をなんとか今の所は搔い潜っている。
そして、いよいよ来週から新しい職場に移る。私の後任はめでたく榎本さんになり引継も順調だ。でも私の新しい職場について詳細情報がなかなか人事から来ない。何度か問合せをして、業務に必要な事項を入手した。部署名は、まぁ、9月末には辞令が出て判明するし、なんせ、ポジション的に見たらやる事は変わらないんだろうし、どうでもいい。
新規部門ということで特に引継等はなかったけれど、マーケティングやら財務やら、その辺の知識が必要だそうで最近はその手の本を読んでいる。夕食後の最近のひとときは読書に費やしている。
「ねぇ蓮。蓮はそろそろ会社に顔を出したりしないの?」
私は読書に飽きて蓮に話しかけた。見れば蓮も似たような本を読んでいる。
「ああ明日行く事になっている。来週だしな。挨拶とそれから会議だそうだ」
蓮はベッドに寝そべり、本を顔の上に被せたまま答えている。声がくぐもっているのはそのせいだ。
「そうなの。蓮の配属先は経営企画室よね?」
「そうだ、瑠璃もだろ?」
「・・・え?」
我が耳を疑うというのはこのことか。蓮は顔を覆っていた本を外すと起き上がり、こちらに顔を向けた。
「瑠璃も経営企画室に配属だ。間違いない」
「私、蓮と一緒のところなの?」
「ん? 連絡は行ってないのか?」
「えっと少し前にマネージャーの里見さんとダイレクターの安達さんから異動になるって言われたけど、所属先の名前はまだ、正式な部署名は聞いてないの」
「そうなのか? 何やってるんだ人事は」
「ねぇ本当なの?」
蓮の腕に手をかけてゆさゆさと揺さぶると、反対に腕の中に閉じ込められてしまった。
「本当だ。そうそう、あの企画書はとても良かったぞ。着眼点がいいな。あれくらいのやんちゃな発想が私は好きだ」
私の口は動いているのだが、声が出て来ない。頭の上から聞こえる言葉に頭がついていかないというのが正しいかもしれない。私が押し黙っていると蓮が顔をのぞき込んできた。
「どうした?」
「あれって蓮が募集してたの?」
「そうだ。メンバーを揃えるにあたって面白い人間がいいなと思ってな。短期間で間に合わせて来るあたり、日頃から目的意識を持っていると思われるものが多くて、有意義だった」
(ずっと家に居たと思っていたのに、いつのまにそんな事をしていたんだろう。じゃ、時々会社には顔を出しているって事なのかしら)
「そうだわ・・・プレゼンは? その中から何人かプレゼンしたって」
「ああ、あれか。別にプレゼンというわけじゃない。あれは内容の確認だな。面白い事を書いてはいるんだが、矛盾があったり、途中から主題が反れていたりしていたやつで、本当に言いたいのは何かってのを聞いただけだ。まぁ次点ってところだ」
「じゃ、じゃあ、プレゼン=採用ってわけじゃないの?」
「そう言う訳じゃない。本当なら瑠璃の言う通りプレゼンまでさせてみたかったが、さすがにそこまではできなかった」
蓮は本当に残念そうだ。でも、これまでずっとくすぶっていた事を主催者から直に聞けて、ようやく胸のわだかまりが消えた。
「経営企画のメンバーって、蓮が選んだの?」
「大体はな。瑠璃も私が選んだのだぞ」
「・・・私を選んだ理由を訊いても良い?」
「企画書が良かったことが一つ。外国語も問題なく使えることと、半年毎の評価を見て」
「・・・そう。・・・なら、いいわ」
個人的な理由じゃなくて良かったと、ほっと胸を撫で下ろす。さすがに公私混同はしないわねと、蓮を見直した。
「そして最後の理由は、・・・いつも側に居たいから。いつもこうしていたい」
蓮は上背を利用してむぎゅーっと伸し掛かるように抱きしめてくる。後ろに倒れそうで倒れないこの状態は、蓮が微妙に力をコントロールしているせいだろうが、この体勢は・・・私に取っては非常に苦しい。
「だめ! そんなんじゃ真面目に仕事している他の人に迷惑よ!」
負けじと押し返すとすんなりと元の体勢に戻す事ができた。そこで、最近の不快な緊張や不安も混ぜこぜにして、ポフッと拳骨で蓮の胸を叩く。これくらいじゃビクリともしないのは、私も分かってやっているんだけどね。
蓮はうっすらと笑みを浮かべて、どうやら私の反応を面白がっているようだ。
「瑠璃ならそう言うと思ったよ。・・・最後の理由は私の心の中に深くしまっておく」
くれぐれもお願いねと胸をグーでポンポンと叩きながら念を押した。
蓮は「わかったわかった」とこくりと頷いていたが、その内にスッと表情を引き締め直した。さっきのふざけた態度とは一変する。
「瑠璃には私の側で、私の仕事をしっかりと見て欲しいのだ。瑠璃なら私に対しても注意してくれるだろうし、その辺りも考慮にいれた。これは本当だ。それに室長と秘書の相性も大事だしな」
そういう目論みがあったのか・・・。今度は私が姿勢を正す番だ。蓮から求められた私の役割をしっかりと胸に刻み込んだ。
「でも、秘書が必要なら秘書室から回してもらえばいいんじゃないの? プロでしょ?」
「プロ? まぁ、あいつ等が来たところで、おそらくはまともな仕事にはならないだろう。私が求める者とは、かけ離れているからな」
既に会ったのか、蓮にしては珍しく眉間に皺を作って嫌そうな様子を見せている。「そこまで露骨に嫌そうにしなくても」とクスクス笑っていると「笑い事じゃないぞ。できれば二度と会いたくないくらいだ」とほっぺたを指でつつかれた。蓮にそう言わせるなんてどんな嫌な事があったのかしら、と想像するがその場面を思い描けなかった。
「・・・ということで、お弁当は一緒に食べよう。これは決定だ」
スリスリと頬をこすりつけて来る蓮は今ではそう珍しくないけれど、よほどお弁当を気に入ったと見える。しかし・・・これでは365日蓮とほぼ一日中一緒ということだ。大丈夫なのかな私達と思ったが、何となく大丈夫そうな気もしないでもない。なるようにしかならないだろうし、私には私の出来る事をやるだけだ。お弁当も一人分も二人分も大差ないし、なんだ、あまり今までと変わらないじゃない、と一人納得する。
「でも、会食やお出かけは無いのかしら?」
「さあな、そう言う事はおいおい出て来るとは思うが、まずは自分の部門の地盤を固めないといけないからな、よほどの事でない限りは断るつもりだ」
「でもいずれは立場が変わるし、お義父様からの顔繋ぎとか必要でしょう? そうなったら」
「そうなったら、そうなったでその時に考えればいい事だ。秘書はどこへ行こうとも必ず付いて来てくれるだろう?」
「秘書じゃなくてアシスタントですけどね。必ずなの? 何か違う気がするですけど?」
ちょっぴり茶目っ気を出して蓮を見ると、蓮は腕を伸ばしてきて私の頭を引き寄せ額にキスをする。
「瑠璃には普通の会社員としてというより、私と一緒に何かを成し遂げて欲しいと思っている。だから私と同じ物を見ていて欲しいんだ」
私の役割には、既に蓮の伴侶としての立場も想定して織り込まれているのだろう。蓮の思惑に乗せられている感も否めないけれど、どんどん私が蓮に惹かれている事は確かなので、助け合えるようになれれば良いなとは思う。
「私は私の出来る事で、蓮の側にいるわ。しばらくは手探り状態だけど、良い方向に向かうようにやってみるわね。よろしくね神威室長」
「蓮で良い」
「駄目でしょ。呼び方だけでも公私を分けましょう」
「む・・・」
あきらかに不満という顔をしている。そんな顔をしても私が流される訳が無い。会社で無事に生きて行く為なんだから必死になるのは当たり前だ。
「そんな顔をしても駄目。快適な会社ライフを送るためには必要なのよ。それに、その方が新鮮でしょ?」
「新鮮か・・・。じゃぁ私も瑠璃の事は野田さんと言わなければならないのか。野田さん、野田さん、野田さん・・・瑠璃の方が言いやすい」
「もう蓮ったら。・・・お願い」
渾身の気持ちを込め、少し上にある蓮の顔を見つめながらお願いをする。すると僅かだが蓮は目を見開いた。驚いているようだ。
「・・・もう一度、もう一度言ってみてくれ」
なにをそんなに焦る事があったのだろうか。私の肩をガシッと掴んで必死の様子だ。
「何を?」
「最後に言った言葉を」
「お願い?」
「ちがう! いや違わないが、さっきみたいに表情もつけてだな」
蓮が何を言いたいのか分からないけれど、何だか必死なその様子を不思議に思いながらも、まぁ、そのくらいで名前の呼び方を変えてもらえるのであれば、お安いご用だと、僅か20cmほど上にある蓮の顔を見返すように、先ほどと同じように、無事に会社ライフを神に祈るような気持ちで、わずかに首を傾けてお願いと口にする。
「蓮、お願いします・・・ふおっ」
しばしの沈黙の後、がっちりと抱きしめられた。そして「瑠璃、かわいい」と耳元で何度も何度も囁かれてしまった。
(いったい、この人は、何をしたかったんだ・・・)
ほっぺとほっぺをスリスリしている蓮の背中をよしよしと撫でながら、私はそっと溜め息をついた。
***
平和にまったりと過ぎていた午後。そろそろ休憩をして、お茶でもしようかと首をコキコキと回していた。
「野田さん、今から50階に行ってくれ。至急だ」
入って来るなり安達さんが私の名を呼んだ。声の聞こえた人達の視線が一斉にこちらに集まるのを感じたけれど「急いで行け」との事なので、筆記具を掴んですぐに席を立つ。
廊下に出て歩いていると、背後でザワザワしている雰囲気の中「お前等は気にせずに仕事しろ!」と安達さんの怒鳴る声が聞こえた。みんなの反応もよく分かる。確かに急に50階にと言われれば、一般社員は何ごとかとビビるのが先だ。何せ、社長をはじめとする役員室しかないのだから。行った事すら無い人達が大多数なのだ。
ちなみに使用するエレベータは限られており高層階用のものでなければ辿り着けない。最初から1Fや地下であれば他の階をすっとばした直通のエレベータがあるのだが、残念ながら私のいるフロアは低層階にあたるので、ほぼ真ん中の25Fで乗り継ぐ必要がある。まぁこれも人を分散させる目的があるのだろうけれど、こういう時はなかなか面倒くさい。ちなみに私も今回が初めての50Fだ。
エレベータを待っている間、そう言えば、呼び出しの内容を聞かなかった事を思い出した。
安達さんは「至急、行け」以外、何も言わなかったけれど、きっと来週の異動の件だろうと・・・思う。それ以外の心当たりがない。そう言えば、今日出社すると蓮が言っていた。もしかするとメンバーと初顔合わせかなと、そうなれば何となく意味が分かる。きっとそうだ、そうでなければ私のような事務職員が呼ばれる理由がないのだ。
うんうんと一人、物思いに深けていると、出来れば二人きりでは会いたくない人に声を掛けられてしまった。
「野田さん!」
あれから姿を見なくてすっかり忘れていたが、三木がいた。
私からはきちんと断りを入れたし、敢えてこちらから行く予定も、そのつもりも無いので近寄らずにいたのだ。まぁ同じフロアだし、いつかは会うだろうとは思っていたけれど、よりにもよって急げと言われている今、会う必要は無いだろうと心が沈む。
「こんにちは。三木さん」
平常心を心がけて同僚として挨拶をする。
「どこに行くの?」
「50Fです。理由は聞いていないんですけど」
ちょうどエレベータの扉が開いたので、じゃ、と挨拶をして乗り込み直ぐに「25」と「閉」ボタンを押す。あとちょっとで完全に閉じようとしていたところで、にゅっと指が差し込まれた。下手をしたら挟まれたまま動き出すかもしれないのに! 慌てて「開」を押すとその指の持ち主が入って来た。
「上に行きますけど・・・」
「いいよ」
いいよって・・意味がわからないんですけど! とりあえずこちらも急いでいる身なので遠慮なく「閉」を押した。私からは特に何も話す事は無いので、黙ったまま三木に背中を向けている状態だが、ビシバシと後ろから来る視線が痛くて居心地が悪い。心の中で、早く着いて〜、と祈る。
「ねぇ、本当に駄目なの?」
とうとう三木の方から話しかけて来た。表示を見ればあと少しで25Fだ。私は体ごと三木に向き直ると「そうです」と答えた。それに対して三木は腕組みをして黙ったまま私を見ている。本当に居心地が悪い。何か喋ってくれれば、この場合助かるんだけど。
願いが叶ってかようやく25Fに到着し扉が開いた。私は文字通り逃げ出す態で「失礼します」と会釈をしてエレベータを下り、高層階用のエレベータへ移動する。三木はそのまま下に降りて行くだろうと思っていたのだけれど、少し遅れて私の後を着いて来た。
「用件は済んだかと思うんですけど」
たまりかねてジロリと睨むと、少し怯んだようだが口をむすっと結んだままこちらを見ている。このまま見られるのも、見ているのももう我慢の限界に達し、私はぷいっとエレベータ側へ顔を向けた。そしてようやく到着したエレベータに乗り込み「50」を押す。さすがに着いて来る事は無いだろうと、声も掛けずにとっとと閉じようとしたところ、またしても三木は一緒に乗り込んできた。
「三木さんも呼ばれているんですか?」
「どこに?」
「50Fですよ」
「いいや。俺は君と話したいだけだ」
「そうですか・・・。ならば手早くお願いします」
動き出したエレベータの中で、私は三木と二人向かい合っている。どんな質問が出て来るのか内心ドキドキしているけれど、素振りに見せないようにお腹に力を入れて頑張った。
意外にも高層階用のエレベータのスピードが早く、三木の質問を待っている間に着いてしまいそうだ。リズム良くポンポンと変わる表示に三木も気がついたようで、深く息を吸い込むと一歩足を踏み出して一気に距離を詰めて来た。
狭いエレベータ内では、例え一歩でもかなり身近な距離まで近づいて来くる。思わず仰け反ってしまいバランスを崩してしまった。倒れようとする私の腕を三木が掴んで支えてくれなければ尻餅でもついてたかもしれないけど、・・・その方が良かったかもしれない。
三木は私の腕を掴んだまま「やっぱり諦め切れない。付き合って欲しい」と、ぐいぐい迫って来る。
「手を、手を離して下さい。人を呼びますよ」
「呼べば? エレベーターの中だけど?」
ふっと笑う三木はどこかオカシクなっているように見える。
「三木さん。この前も言いましたけど私には婚約者がいるんです」
「じゃあさ、その婚約者がいなかったら、付き合ってくれるの?」
「なにを言っているんですか! あなたの事は同僚としか思えません。だから無理です。それに、私は婚約者以外とは、付き合いたいとは思いません」
「ふーん。じゃ名前を教えてよ。どこの誰が君の婚約者だっていうんだよ?」
「そ、それは・・・」
公表しない事でこんな所でつまづくとは思ってもいなかった。
「言えない? いなかったら言えないよね? ねぇ、最初は好きじゃなくて良いよ、付き合ってから考えてみてよ」
「無理です。そんな、付き合うってそんな簡単な事じゃないでしょ」
「簡単じゃないの? 付き合っていくうちに好きになるってこともあるよ。何なら試してみようか」
三木の言葉は私には恐怖にしか感じられない。何をどう試そうとも、無理なのに。私は全力で首を振り拒否を示す。
「そう? 簡単じゃないか、すぐ終わる。こうやればいいんだ」
そう言うと、三木はもう片方の手で私の顎を持ち、顔を近づけて来ようとする。
私は三木の言動にまごつき、思考・言動ともにフリーズしてしまっていた。目では情報を捕らえていたのだけれど、頭の中でそれが上手く処理できずにいたのだ。三木の顔がだんだん近づいて来るのは見えていたけれど、顔を反らす事ができなかった。
「やめ・・・やめ・・て・・・」
「瑠璃を、離せ! 瑠璃!」
かろうじて言葉を発したその時、強い力で腕を引っ張られた。一瞬でエレベータから降ろされ、誰かの腕の中に抱き込まれる。はっとして見上げると、険しい表情をした蓮が三木を睨みつけていた。三木は弾き飛ばされエレベータの隅に尻餅をついている。
「蓮!」
この状況下で、私の意識が働き出した時には遅かった。蓮が三木に向かって言い放ったのである。
「瑠璃は私の妻だ! 二度と近づくな!」
地を這うような、腹の底に響くような低い声は、聞く者に真の恐怖を味あわせるには十分で、その言葉を直に向けられた三木は驚愕の表情が浮び、まるで呼吸を忘れたかのように、目も口も大きく見開かれてたままで蓮を見つめ続けている。もしや瞳孔も開いている?
一種異様なその状態に、何やら奇妙な印象を受ける。なにが起きているのか分からないけれど、このままではいけない気がして、私は咄嗟に声を張り上げた。
「彼の言う通りです。私の婚約者はこの人です。ですから、お付き合いはできません」
私の声にピクリと反応を示した三木は、ようやく放心状態から意識を取り戻し、ガクガクと首を縦に小刻みに振っている。
そんな所へ隣のエレベータが50Fに到着した。驚く事に出て来た人は安達さんで、私達の状況を一目見るなり素早く蓮に視線を移し黙って頷くと、直ぐに三木の乗っているエレベータに乗り込み扉を閉めた。表示からすると下に向かっている。タイミング良く安達さんが出て来た驚きよりも、三木を連れて行ってもらえた事に安堵感が広がる。あの状態でひとり放っておくのは危ない気がしたのだ。
けれど決して同情してはいけない。現実を受け入れて前向きになってもらわないと。榎本さんからもそう言われているし・・・。頭では分かっているけれど、私は放心したままその場に立ち尽くしてしまった。
「瑠璃、大丈夫か?」
再び私の意識を戻したのは蓮だった。蓮は私を腕に囲ったまま心配そうに私の顔をのぞき込んでいる。
修羅場ではないけれど、ごく短い時間だったけれど、感情の応酬に心がかき乱されたようだ。私は蓮の顔を見てようやく本来の自分に戻って来た。そしてそのまま倒れ込むように蓮の腕の中に顔を埋めた。
「蓮・・・ありがとう」
この腕の中では私は安心していられるのだ。ここがあるから強くいられる、そう思う。
蓮も優しく私を抱きしめてくれていて、公私混同はしないって言ったことなどすっかり忘れてしまっていた。




