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意識と無意識の境界線 〜 Aktuala mondo  作者: 神子島
第三章
23/43

23

 カフェで噂話を聞いた翌日は朝から大変だった。

 

 「野田さん。眼鏡外してみてよ」


 突然やってきて不躾にそう言っているのは三木だ。


 「嫌です。目をブルーライトから守るためにかけているんですから外せません」


 「この前は外してたって聞いたんだけど」


 むぅ・・・しつこい!


 「あれは不幸な偶然が重なった結果です。でも、だからと言って、どうして三木さんに見せる必要があるんです? もぉ、仕事の邪魔です。ご自分のお部屋へお帰り下さい」


 「い・や・だ。見るまで帰らない」


 (な・・・。なんて人だ。子どもか! いい大人なのにこれでいいの? この人)


 全然引き下がろうとしない三木に、出来る限り、迫力のある顔を向けて威嚇しているのだけれど、全然効果がない。

 己の赴くままに行動するようなこんなヤツに、言う事を聞かせるには里見さんくらいの強さが無いといけないのかもしれない。ああ、もう、こういう時に限って里見さんまだ来ないんだもんなー。他の人達は・・・、むしろ興味津々でこっち見ているしー。


 「はぁ・・・もう、見たら直ぐに帰って下さい。いいですか?」


 「ああ、わかった。直ぐに帰るから」


 三木は勝ったとばかりに、ふふん、という音が聞こえて来そうな笑みを浮かべた。


 (こんなのに粘り勝ちってあるの? もー、邪魔しておいて、信じられないわ)


 「絶対ですよ? 約束しましたからね。分かっていますか?」


 「わかったってば!」


 念には念を入れて確認をする。

 売り言葉に買い言葉ではないけれども、互いに一歩も譲らなければ平行線のまま、それこそ子どもの喧嘩のようになってしまう。三木は言葉通り、見るまでは絶対に帰らなさそうだし、まったくもって収集がつかない状態だ。ここは大人として私が折れるしか無い。渋々、眼鏡を上にずらし、そのまま前髪を持ち上げた。


 「さ、どうぞ。これで満足ですか?」


 素顔を晒したまま目の前にいる三木を睨み上げる。そのまま睨み合う事一分間。


 「約束は果たしました。仕事にお戻り下さい」


 大人に二言は無いはずだ!


 私は直ぐに眼鏡を装着し、仕事に取りかった。大分出遅れてしまっているから、大急ぎで取りかからなければならない。

 メールの指示に従い作業をすすめると、直ぐに情報が足りないことが分かった。すぐさま送信元の人のところに行き状況を説明をする。


 「緑山さん、この情報が不足しています。お客様から取り寄せてもらっても良いですか?」


 「おう、わかった。すぐやる、すぐやる」


 緑山さんはすぐさま社有携帯を取り出すと先方へ連絡をしてくれた。


 「珍しいですね。緑山さんがこんなところ抜かしちゃうなんて」


 「ははは、俺だって人間だからねー。色々しでかす事もあるさ。じゃ、もらったらまたメールするから」


 「はい。宜しくお願いします」


 用事を済ませ自席に戻り、緑山さんからのメールには未処理のマークをつけておく。そして次のメールを・・・


 「・・・三木さん。いつまでそこにいらっしゃるんですか? 最初に約束しましたよね? 早く戻らないと仕事が滞りますよ」


 約束したはずなのに帰ろうとしない三木はずっと私の机の前に立っている。非常に邪魔だし、非常に鬱陶しい。ちらりと見れば目が合うのも勘弁してほしい。そっと私は溜め息をついた。


 「野田さん、仕事終わったら付き合ってくれない?」


 「お断りします。仕事が終わったら直ぐに帰りたいんです」


 「じゃあさ、お昼。お昼に時間ちょうだい」


 「三木さん。さっき約束しましたよね。その約束すら守ってくれない人とお話しする事なんてありません」


 ピシリと言ったつもりだったが全然聞いてくれてない。ほとほと困り果てていると苦笑いをしながらも周囲の人達も助け舟を出してくれた。


 「だははははは! 三木ぃ〜。告る前に振られたな、残念だったなー」


 「お前さー、ほんと戻れよ。マジ嫌われっぞ。ってか嫌われろ。嫌われてしまえ!」


 「うるさいな。少しくらい良いだろう? 俺の大事な正念場なんだから。野田さん頼む。一生のお願い」


 三木は全く聞く耳を持たず、尚も私に食い下がって来る。最後には拝まれているが、思わずその手を叩きたくなるがグッと我慢だ。


 「おらっ。またお前か! 仕事始まっているのに何やってんだ。とっとと帰れ!」


 里見(きゅうせいしゅ)さんの登場だ。これにはさすがの三木も及び腰になり、顔を引きつらせながら身を翻して出て行った。


 「ありがとうございました里見さん」


 ようやく帰ってくれて、全身から脱力する思いだ。心から里見さんにお礼を言う。


 「ったくあいつも困ったやつだ。・・・まぁ、気持ちは分からんでも無いけどな」


 眉根を寄せて呆れ顔の里見さんだが、最後の言葉がちょっと気になる。


 「里見さん?」


 「ああ、いや何でも無い。すまんな。この事は滝本にも言って注意してもらうから」


 里見さんのお陰で無事仕事に取りかかれるようになったが、一日が始まったばかりなのに、妙な疲労感に襲われてしまったのは仕方が無いだろう。



  ***



 「だはははははは!」


 「笑い事じゃありませんよ榎本さん」


 お昼休み、いつもの場所でお弁当を食べながら午前中の出来事を話すと、榎本さんはお弁当そっちのけで大笑いをしている。本気で困っているのに、なぜ笑われねばならないのだ。ぶーぶーと文句を言えば、更に笑い声は大きくなった。


 「もう他人事(ひとごと)だと思って・・・」


 「はひっ・・・これが笑わずにいられますかって。三木が時間くれって言ったってことは、もう告っているのと同じじゃん」


 もうこうなったら飽きるまで笑ってもらおうじゃないか。私は横目で榎本さんを見ながら、黙々とお弁当を食べ始めた。

 ようやく笑いの治まった榎本さんは涙を拭きながらお弁当を食べ始める。その頃には私は既に食べ終えていて、これからの事を考えていた。


 「やっぱり告られるんですかねぇ・・・」


 「100%告られるでしょうね。まあね、特にあんたみたいな恋愛初心者には、かなり負担であることは間違いないわね」


 「どうしましょ」


 「はっきり断るしか無いわよ。あんた婚約してるんだしね。こういう場合はズルズルと誤摩化すより、すぱっと言ってあげる方が親切なの。そりゃ断れたら誰だって傷つくわよ。でもね時間が解決するの。三木もいい大人だし、直ぐに新しい相手に巡り会うわよ。ま、そっから先はあんたが心配するところじゃないから気にする事無いわ。あんたは、ちゃんと断る、ここまでで十分よ」


 「分かりました。私、三木さんに何か言われた時にはちゃんと断ります」


 「おう、がんばれー」


 榎本さんの助言を受けて、決意を新たに三木を迎え撃つべく心構えを整えた。


 「あ、そうだ。ひとつ先輩からアドバイス。会うのは仕事終わってからはやめた方がいいから。昼休み中とかに済ませなさい」


 「どうしてですか?」


 「あいつ馬鹿だからさ、きっと甚だしい勘違いをすると思うんだよね。仕事終わって付き合うってことは、食事とか飲みにも付き合ってくれるって思う訳よ。ちょっとでも気があるって勝手に思うかもしれないわ」


 「うっ・・・」


 「まぁ、そういうこともあるってことで。なるべく強制的に終りの時間が決まっている時の方が断りやすいわよ。それに、お酒弱いじゃん野田はさー」


 「さすが榎本先輩! 私、榎本さんの事、見直しました」


 「あんた、ほんっとにかわいくないわね」


 何て言うやり取りをしながら過ごしていたら、やはり今日もベンチの周りに人が集まって来たので早めに席を立った。



  ***



 「はふ。やっぱ食後は珈琲ね。特に今日みたいな日は」


 あれから榎本さんとは別れて私はひとり社内のカフェテリアにいた。まだ人はいるものの、最盛期の時間は過ぎたようで人の数はまばらだ。窓際の2人用のソファを陣取り、ぽぉっと外を見ながら午後に向けて英気を養っているのである。

 一口飲んで気持ちが落ち着いたのか、珈琲は覚醒作用があるはずなのに、うつらうつらと睡魔が襲って来た。ほんのちょっとだけと思いソファに深く体を沈めてそのまま仮眠を取る。もちろんタイマーもしっかりセットしてスマホを抱くようにして目を瞑った。安達さんは10分間睡眠を推奨しているので、10分間きっかりだ。




 「瑠璃。瑠璃ではないか」


 「青蓮(せいれん)? あれ? あ、そうか、わたし寝ちゃったんだ」


 昼間の明るい日差しを遮る涼しげな御簾がゆらりと揺れ、薄地の単衣を身につけた青蓮が立っていた。


 ここは、わたしが使う部屋のひとつだ。主に月夜の夜に前栽(せんざい)を眺める部屋として使っている。月光のもとでは、特に心が洗われる程に美しい風景が広がるのだ。時々気まぐれで大きなウサギが遊びに来る事もある(猫達に見つかったら、その度に追い掛けられているけど)。

 その部屋に来ているという事は、“私”は今、睡眠中ということだ。


 「瑠璃。どうした、会社なのだろう?」


 むぎゅっと、青蓮によって問答無用でその懐に包み込まれる。現世の蓮にも共通することだが、こうしてもらえると気持ちが安らぐのだ。基本、青蓮は無表情ではあるけれど、その表情からでも滲み出るわたしへ愛情を隠そうともしないで、この人はいつでもわたしを受け止めてくれる。


 「瑠璃の波動を感じて来てみれば。本当に居るから驚いた」


 「ええ。今ね会社のカフェで仮眠中なの」


 「なにかあったのか?」


 青蓮はつっと目を細めて、わたしの顔を覗き込んでいる。


 「ちょっとね。午前中疲れる事があって充電中なの」


 表情を読み取られるのが気まずくて、青蓮の胸に顔を押し付けてみるが、青蓮はそう言う事では騙されてはくれそうにない。


 「疲れる事とは何だ?」


 案の定、粘り強く仔細を訊ねて来る。青蓮には隠し事はできないし、元からするつもりは無いのだけれど、何となく言いたくない。そんな気持ちがあるので自然と口が重たくなる。


 「・・・青蓮も知っている、三木さんという社員さんがね・・・」


 「もしや瑠璃が倒れる原因になったあいつか」


 青蓮の纏う空気が冷たく張りつめた。だが、ここで話しを止めてしまうと、更に宜しくない状態になるので素直に話してしまう方が懸命だ。


 「そう。あの時の人です」


 そしてわたしは包み隠さず伝えた。もちろん、榎本さんからのアドバイスのことも。


 「私の居ないところでそのような事が・・・。瑠璃、それは大変だったな。私がそいつを消滅させよう。それで全てことは済む」


 即決断、即実行されては大事(おおごと)だ。青蓮から見れば、何でも無い存在かもしれないけれど、消してしまって終りというわけにはいかない。青蓮にそんなことさせたくない。むしろ、現世での“私”の経験を積むためのものだと、ここは我慢して見守っていて欲しい。


 「ま、待って! 大丈夫だから。榎本さんにも対応の仕方を教えて貰ったし、それでしっかりお断りするから。“私”に人としてきちんと対応させて、お願い」


 「それでそやつは瑠璃の事を諦めるのか?」


 ぐいっと端正な顔が寄せられ、その目が怪しいと言っている。


 「当然でしょ。だって、わたしはあなたと婚約しているんですもの。婚約している人にちょっかい出す人なんていないわよ」


 わたしとしては正しい対応だと考えているし、きっとこの理由で通じると思っているのだけれど、いかんせん、恋愛経験値ゼロ者には、まだ超えなければならないハードルがあるようだと分かるのは、もう少し先になってからだ。


 「・・・瑠璃。私は全くもって安心できないのだが、やはり消した方が早いぞ」


 「だ、駄目よ。ここはわたしを信用してもらわない事にはなんとも言えないんだけれど、・・・その事は失敗したら考えるから、それまでは待って。顛末を見守っていて、お願い」


 懐に抱かれたまま必死の思いで青蓮の顔を見つめれば、青蓮の表情がふわっとやわらかく(ほぐ)れ、あっという間に口づけをされる。


 「ああ、きっとこのまま目が覚めても覚えておらぬのだろう。私が側に居られぬというのに心配でたまらぬ」


 「心配しないでって言っても無理かもしれないけど、きっと大丈夫だから。ね」


 “私”もいい大人なのだ。経験した事が無い事でも、榎本さんから聞いた対応策を基に色々と考える能力はあるはずで、実行する事も出来る筈なのだ。なのに青蓮は過剰な心配をしてるだけ、と浅はかにも思ってしまった。


 「・・・ふむ、ならば、露草(つゆくさ)に更に注意をするように言っておこう」


 「露草?」


 「瑠璃の会社に安達という名の者がいるだろう」


 「え? 安達って、わたしの知っている人で、安達さんは、ダイレクターの安達さんのこと?」


 「確かそうだ。父上の臣子(しんし)の者で、瑠璃の周辺ではヤツが気を配っているのだ。だが、こちらのことは瑠璃は気にしなくていい。私の気が済むようにしたいだけだから」


 そう言えば、一日一度は安達さんの姿を見ているかも、と思い当たる。確かダイレクター席は個室になっているはずで、他のダイレクターや部長さん達は、めったに出歩いているのを見た事が無い。安達さんの出没率が高いのはそう言う理由があったのかと納得した。

 いや、今はそんな事よりも---


 「要はわたしがちゃんと三木さんにお断りできればいいってことでしょ。露草さん? 安達さんには骨折り損になっちゃうかもしれないけど、青蓮の思う通りにすればいいわ」


 この場所でしか覚えていない話を気にしていても仕方が無い。それで青蓮の気持ちが落ち着くのであればそれでいい。


 「そろそろ時間だな。名残惜しいが家で待っているから、早く帰って来い」


 「ええ。ありがとう。お陰で十分充電できたみたい」


 最後に私からぎゅっと青蓮を抱きしめ、意識を現世へと向かわせる。そしていつものように、ゆらゆらと泉の(あぶく)の中に身を任せる-----





 ぶいいいいいいいいいい・・・・

 意識が浮上してきた時が、ちょうど時間だったようだ。握りしめたままのスマホが振動で時間を告げている。

 この10分間睡眠は私にしっかりと休養を与えてくれたようで、実に気分の良いまま、パチっと目を開けた。


 「ひっぃ・・・きゃああああ・・・ふごっ」


 「し、静かに」


 目を開けた途端、視界一杯に広がる人の顔に、驚きのあまり叫び声を揚げようとしたら口を塞がれてしまった。


 「んーーー! んんんん・・・」


 「野田さん静かに。何もしてないから。今から手を外すから叫ばないで、お願い」


 若い男の人が焦ったように早口で私に指示を出す。私は恐怖もあってコクコクと頷いて理解した事を伝えた。

 ゆっくりと手が外されると、新鮮な空気を求めて自然と深呼吸になる。


 「ごめん。悪いとは思ったけど、一人で寝ているから危ないなって思って、側に居たんだ」


 私は姿勢を正しながら少しだけ男性と距離をとる。


 「えっと、あ、ありがとうございました・・・?」


 「どういたしまして。でもね、女の子が一人でこんなところで寝てるなんて無防備すぎるんじゃない? 僕じゃなくったって襲っちゃうよ」


 「え? 襲う?」


 慌てて服装を確認すると、男性は苦笑いをして「何もしてないって」と首を振っている。


 「で、でも、あ、あんな至近距離、はれ? 眼鏡・・・」


 ちょっとした違和感を感じて顔をぺたぺた触ると眼鏡が無い。

 さも普通ですという雰囲気で男性が眼鏡を渡してくれるが、私、一体いつの間に眼鏡外したんだっけ・・・?


 「はいどうぞ。野田さんの寝顔が可愛くて、つい近くで見てた」


 「ええええええええええ!?」


 「で、でも見てただけ。キスとか、してないし」


 「キキキキキス?」


 「してないって! ・・・まだ」


 「まだ?」


 「・・・いつかしたいとは思うけどね」


 「は?」


 「ねぇ・・・」


 男性が顔を引き締めて口を開きかけた時、頭上から大きな声で私の名前を呼ぶのが聞こえた。


 「野田さんじゃないか。何やってるんだこんなところで」


 「安達さん!」


 「もうすぐ仕事が始まるぞ。もしかして、何かあったのか?」


 安達さんはジロリと隣の男性を見る。


 「あ、いいえ。全然。10分間睡眠をして起きたところで、こ、この人は、通りすがりの人のようです。知らない人です。えっと、もう仕事に行けます!」


 ビシッと直立不動で敬礼をしてみせると安達さんは相好を崩して笑った。安達さんが笑っているうちにと思って、「それでは、失礼します!」と90度の礼をしてその場を後にした。



  ***



 安達が男性に向かって話しかけていた。


 「おい。彼女には手を出すんじゃないぞ」


 「それは命令ですか? ・・・恋愛にまで上司風吹かせないで下さいよ。俺が誰を好きになろうと、あなたには関係ないでしょう」


 「ところが、関係あるかもしれなくなるんだな、これが。いいか警告はしたからな、手ぇ出すなよ、じゃあな」


 用は済んだとばかりに、後ろ手に手を振りながら安達はカフェを後にした。



  ***



 午後は無事に乗り切った。

 保留になっていた分も緑山さんが情報を送ってくれて本日中に承認を得られ事なきを得られたし、いつも通り順調に終えられた。


 (いつも通り、なんて素敵な響き・・・)


 いつ来るのかと身構えていたけれど、結局三木は午前中以降姿を見せる事が無くて、ようやく肩から力が抜けた。さてと、今日はもうイレギュラーな事が無い限り帰るだけだ。時計を見れば定時まであと15分というところなので引継書を書き始める。頭の中で業務内容をトレースしながら、指先に伝えてカチャカチャと文字にして行く。


 「のーだーさん」


 「おわ! び、びびびびびっくりした!」


 「やだな。そんなに驚かないでよ」


 いつもは机の前に来るのに、しゃがんでデスクに両肘を乗せた体勢で、私と並んで、三木が居た。


 「い、いつ来たんですか」


 「ん? ちょっと前。野田さんの横顔を見てたんだ」


 どうして、気付かなかったんだ!! 平常心を保とうと務めようとするが、うまくいかない。大体、そんな恐ろしい事を言われたら顔はきっと引きつっている。


 「見てないで直ぐに声をかければいいでしょう。もうすぐ終業時間になるのに。それで何のご用ですか?」


 「やだな誘いにきたんだよ。ってか、それ引継書? なんで? 辞めるの?」


 「違います。辞めません」


 慌ててセーブをしてファイルを閉じる。


 「良かった。折角、野田さんと親交を深めようとしている矢先にいなくなられたんじゃ俺寂しいから。ね、今日、二人で飲みに行こうよ」


 「ごめんなさい。折角のお誘いですが、帰りたいんです」


 ちらりと時計を見ながら、もう片付けても大丈夫だろうと何気なく机の周りを整える。


 「えーちょっとくらいいいでしょ。ね」


 三木はキラキラした笑顔で私が立ち上がろうとするのを阻もうとしているかのようだ。このポジションだと逃げ場がない。


 「三木ぃ、野田さん嫌がってるじゃん。諦めろ」


 「そうだぞ。しつこいと嫌われるぞ。ってかマジで嫌われろ」


 「おまえらーちょっとは協力してくれてもいいだろー」


 他の人達が三木の気を引いてくれている間に、そそくさと机を離れる。そして「お先に」と声をかけてオフィスを抜け出した。


 「あーお前等のせいで帰っちゃったじゃないか!」


 「うるせー。自業自得だ。振られたんだって早く自覚しろ」


 「まだ告ってもないのに振られたとか言うな!」


 背後でギャイギャイと騒ぐ声が聞こえるが、振り向くまい。皆さんのご協力感謝します、と心の中で手を合わせて足早に更衣室へと向かった。





 「おつかれー。あー、いたいた野田さん。あんた大変だったみたいねー」


 着替え終わりロッカーに鍵を掛けていた時、榎本さんが更衣室に入って来た。その様子だと既にさっきの騒ぎも聞いているのかもしれない。


 「フェイントですよ、もう。定時直前に来たんですよ」


 「ふはははは。三木の作戦だったみたいね」


 「そうなんですか・・・。他の人達が引き止めてくれてたのでその間に抜けて来ました」


 「ほほう。協力的じゃん。良かったじゃない」


 「それは本当に助かりました。でも三木さんのお陰で今日一日でどっと疲れました。明日もああだともう嫌です。平和な日々が懐かしいです」


 「まー、ちょっとね。あれはないわー。ガキだよね全く。ちょっと待ってなさい。一緒に会社の外までは行ってあげるわ」


 「え? いいんですか? 里見さんとは?」


 「わーーーーーーー! あんたね、私の好意を仇で返す気か! いや、まぁ、昨日のアレで、まぁ、その、ね、」


 「おお。上手くいったんですか!?」


 可愛らしく頬を染めた顔で榎本さんがこくんと頷いた。


 「おめでとうございます!!」


 「あ、ありがとう。まぁ、そのお礼よ。里見さんからもくれぐれも頼むって連絡来たしね」


 榎本さんはポリポリと頬を掻きながら照れ笑いをしている。


 「ありがとうございます」


 この日は榎本さんが付き添ってくれて無事に会社を出て帰宅する事ができた。



  ***



 「ただいまー」


 「瑠璃!」


 おわっ。今日はつくづく驚かされる日のようだ。いつもなら書斎かリビングで待っていてくれるのに、蓮は今日は玄関で待っていてくれたようだ。


 「ど、どうしたの? 蓮。どちらかにお出かけ?」


 「いや、その、無事かなと思ってな。それより、疲れた顔をしているがどうした?」


 気付かないうちに腰に手を回されて抜け出せそうにない状態になっていて、蓮は私の顔をまじまじと覗き込み、表情から何かを読み取ろうとしているように見える。


 「え? そお? 何でも無いの。まぁちょっと色々あって」


 「何でも無い訳が無いだろう? きちんと話しを聞かせてくれ。些細な事でも何でも良い。瑠璃の話が聞きたいんだ」


 蓮の真剣な眼差しに気圧されたというのもあるが、隠して良い事なんて一つもないし、そもそも隠すような事でもないし、私は今日一日の出来事を洗いざらい報告した。


 「なんだと。三木だけじゃなく、他のヤツもか?」


 「そっちは私が過剰反応しているのかもしれないし。知らない人だもの」


 「いや、いつもと違うと感じるという事はやはり瑠璃の周りで何かが起こっているという事だ。用心に越した事は無い。いいか、会社内だろうと絶対に一人になってはいけない。隙を見せれば直ぐに男どもの餌食になる。瑠璃は魅力的なのだから」


 頬に手をあて優しく撫でながら私を見つめている蓮は、恍惚とした表情をしている。一方で私は蓮の色気にあてられ過ぎて腰が砕けそうになっている。綺麗な人の色気って人を常軌を逸した状態にしてしまう、ある種の武器なのかも・・・。


 「れ、蓮さん、それは欲目ってやつですよ。過大評価だわ。三木さんにもちゃんと断るし大丈夫。私が好きなのはあなたなんだもの」


 「瑠璃〜」


 スリスリがいつもより激しい気がするが、蓮なりに心から心配をしてくれているのが伝わって来る。明日からも気を引き締めて、もう絶対に眼鏡を取る事はしないと心に決めた。



  ***



 「じゃあさ、ランチデートしようよ」


 いきなりこいつは・・・。

 しかも、朝っぱらから。

 周囲の人達はもうあきれ顔だ。肩を震わせて笑っている人も居る。そもそも連日懲りずによくもまぁ気力が続くものだと、違う意味で感心してしまう。


 「三木さんおはようございます。用事があるのならばお昼休みに伺いますが、デートはしません」


 それだけ言うと、早く帰れと三木の背中を押してオフィスから追い出した。強制退去だ! ちょうど廊下を歩いていた滝本さんを呼び止め、バトンタッチして連れて帰ってもらった。いい大人が首根っこを掴まれて・・・見なかった事にしよう。


 「連日お疲れ様だね、野田さん。クックック」


 声をかけて来たのはクスクスと笑っている緑山さんで、その様子からまったく他人事なんだろうなと、内心うそぶく。


 「緑山さん、どうして三木さんはあんなに元気なんでしょうか」


 私は溜め息を吐きながら、言っても仕方の無い事だとわかっているけれど、つい、口をついて言ってしまう。


 「三木だからねー仕方ないよ。ずっと探していた人が見つかったて舞い上がってるのさ、あいつの気持ちも分かってやってよ」


 「でもあれはないです。っていうか、私、三木さんとは殆ど話した事無いんですよ。どう言う人か私知らないんです。きっとそれは三木さんもそうだと思いますけど」


 「あはは。まぁあいつはねー、究極の面食いだからね。それで何度も失敗しているってーのに懲りないやつなんだよ。ま、そこが可愛いヤツなんだけどさ」


 それだけ言うと、緑山さんは席に戻って行った。



  ***



 お昼休み。

 さっき念のため蓮にこれから三木と会うということをメールしておいた。返信はまだ無いけれど、私の決意のつもりなのでそれはいい。食事の前になるのか、後になるのかは分からないけれど、一緒に食事は取れないだろうと思うので榎本さんにも一応連絡は入れておいた。


 5分程経って三木がやってきた。人が居ないところが良いというので、ならば会社を出た近くの公園に行こうということになった。


 お昼時だけれど、公園は小さな子どもを連れたお母さん達が何人かいるだけで、幸いにもあまり人の姿はない。私達は木の陰になっているベンチに腰掛けて話しを始めた。


 「野田さん、もう分かっていると思うけど、俺、野田さんの事が好きだ。彼女になって欲しい」


 今朝見せていたヘラヘラな顔ではなく、そこには真剣な表情をした三木の顔があった。最初からこの顔だったら印象も大分違っていたかもしれないのに。そう思うけれど、そんな顔をされても誰とも付き合う気はない。なので私も真正面から受け止め丁寧にお断りの言葉を口にする。


 「ごめんなさい。お付き合いは出来ません」


 「どうして。理由を聞かせて欲しいんだけど。俺が納得できるような理由がある?」


 「はいあります。私、先日婚約したんです」


 「婚約? 野田さんのそんな噂、聞いた事無いんだけど」


 「はい。誰にも言ってませんから」


 「じゃさ、どうして指輪してないの。婚約指輪。普通はするもんでしょ」


 「それは、今、彼がデザインしてくれているんです。それが出来たらつけるつもりでいますよ」


 「・・・何とでも言えるよね。そんなに俺の事が嫌?」


 「嫌とか好きとかじゃありません。三木さんの事は同僚としかみれません。それにさっきも言いましたけど私には婚約者がいますから、どなたともお付き合いはできません」


 「あっそ。嘘までついて断るんだ。わかったよ。今日のところはここまでにしておくけど、俺は諦めないからね」


 そう言うと、三木は私を置いて一人公園を出て行った。


 「ふぅ」


 どっと疲れが出て立ち上がる気力も無くなってしまった。

 どうして思った通りにいかなかったのだろう。

 婚約しているって言ったのに、どうして諦めないなんて言えるのだろう。

 何だか嫌な終わり方になってしまって、食欲も無くなってしまった。


 「めんどうくさいなー。他に何か言うべき言葉があったのかしらね・・・」


 木々を眺めながらポツリと呟いた時、メールの着信を知らせる振動が響いた。見ると榎本さんからで、今どこにいるのかと言う内容だった。心配かけちゃったなぁという思いと、結局上手くいかなかった事で気が重いが、公園に居るとメールをしておいた。蓮にも・・と思ったが芳しい成果が得られなかった事で手が止まってしまった。


 ぽーっとしていたら隣に誰かが座る気配がしたので横を見ると榎本さんがいた。


 「どうしたのよ。三木のやつ一人で帰って来てたからさ気になって」


 「駄目でした。幾ら婚約したって言っても信じてくれなくて。指輪してないからって。諦めないって言われました」


 「あー・・・どうりで。あいつ、なんか目の色変わっててさ、ちょっとビビった。真面目な顔できるんだって思ったけどね」


 榎本さんはカカカと元気よく笑ってくれる。


 「榎本さん、ごめんなさい。折角、アドバイスしてくれたのに」


 「何、あんたが謝る事じゃないじゃない。あんたはちゃんと正当な理由を言ってお断りしたんでしょ。諦めないって言ったのはあいつ。勝手に舞い上がってるあいつが悪いの。その内に目も覚めるわよ。だってさ、もうすぐじゃん。あんたの彼、入社して来るし」


 「昨日、彼に言ったんです。ちゃんと断るから大丈夫って。すごく心配してくれていたんですけど・・・はぁ。参ったな」


 榎本さんはポンポンと肩を叩いて慰めてくれた。

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