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意識と無意識の境界線 〜 Aktuala mondo  作者: 神子島
第三章
21/43

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 最近どうも社内が落ち着かない。

 原因はよく分からないけれど、例の社内公募の締切後あたりからだから、ひょっとすると応募した人達が結果が気になっていているのかもしれない。私は何とか締切に間に合い、目標を成し遂げた感でいい意味で肩の力が抜けていて、その騒ぎについては、深く追求しないままでいた。


 社内公募の締切から2週間経ち、今度は具体的な組織変更の通達が一斉になされた。

 その頃になると、社内のザワザワ感は治まるどころか、更に増してきた。仕事に響くようなことはなかったけれど、さすがに無視できない雰囲気のため、周囲の動向に耳を澄ませてみると、どうやら応募した人達が何人か呼び出されてプレゼンまがいなことをさせられたという話が漏れ聞こえて来たのだ。


 残念ながら私にはそんな話など一つも来ていなくて、もしかすると書類選考で落とされたのかもしれないという不安にかられてしまった。

 不採用の連絡すら無くて、不確かな憶測でしかないのだけれど、プレゼンの噂を聞いた時にガッカリしたのは確かで、でも、凹んでいても仕方なく、頑張ったんだけどなぁ〜という思いは胸の底に仕舞い込み、またここで頑張ろうと目の前の仕事に取りかかった。


 (それにしても応募者数多かったのかなー。折角のチャンスだったかもしれないのになー、もっと練り直す必要があったかもしれないな)


 結局のところ、全然気持ちを切り替える事が出来ず、公募のことをずるずると引きずりながら仕事をする羽目になってしまった。



  ***



 更に数日立ったある日、マネージャーの里見さんから呼び出しがあった。用件は特に書いてなかったが会議室まで来るようにというメールで、指示された時間にそこへ向かった。


 (ひょっとすると先日の公募の件かも?)


 私は(はや)る気持ちを心に押しとどめつつノックをした。すぐに中から返事があり、恐る恐る入るとそこには里見さんだけでなく、ダイレクターの安達さんも待っていた。


 「悪いね急に呼び出して、さ、そこに座って」


 里見さんに促されテーブルを挟み二人の前の椅子に座る。私が姿勢を正して正面を向いた時、最初に口を開いたのは里見さんだった。


 「用件について書いていなかったんだけど、何か分かる?」


 「確信はありませんが、恐らく、先日の公募の件かと」


 先に考えた通りのことを口にすると里見さんは苦笑した。


 「ああ、そうか。君も応募していたんだったね。だけど今回はそれとは関係なくて、まぁ関係・・・なくはないんだけど、本題は組織変更の方なんだ。純粋に人事異動の件で来てもらった。10月から新規部門の一つに異動して欲しい」


 思ってもいなかった話に、直ぐに言葉を返す事が出来なかった。


 「えええ? そ・・・そうなんですか?」


 間の抜けた返事をした直後、『公募と関係なくはない』と言った里見さんの言葉が蘇える。


 「あの、もしご存知だったらで結構なんですけど、私の企画書はどうだったのでしょうか? 教えていただけませんか」


 やっぱり気になって仕方の無い事を口にした。

 誰かからフィードバックをしてもらわないと、こうも気持ちの整理が付かないものなのだろうかと、悶々とする日々を送っているのだ。しかし、思い切って聞いた割には、どう答えが返って来るのか怖くてドキドキが治まらない。


 「ぷっ。野田さん面白いね。普通さ、人事異動っていわれたら、まず異動先が気にならないか?」


 なにが可笑しいのか、安達さんがクックックと肩を震わせて笑っている。


 「気になる物は仕方ないんです。噂では何人かがプレゼンをさせてもらえたと聞こえて来ているので。これでもすごく頑張ったって自分では思っているので不採用でも良いから結果が知りたいんです」


 私の真剣な気持ちがようやく伝わったのか安達さんは笑うことをやめ「俺が知ってることだけね」と言って教えてくれた。


 「まぁ確かに、何人かは話を聞いてみたいって事で新しく組織の上長になる人の前でプレゼンがあったようだよ」


 「ってことは、やはりそれに呼ばれなかった人は不採用ってことでしょうか。それに漏れた人はもうチャンスはないんでしょうか?」


 噂通りの話に思わず両手をテーブルについて立ち上がってしまった。

 まさか私が立ち上がるとは思わなかったのか、二人とも若干仰け反って目を丸くしている。私から見下ろされる形になっている二人は、互いに目線を交わしたあと「まあ落ち着いて座りなさい」となだめるように言う。私はハッと自分の体勢を見て大人しく席に戻った。


 「俺も詳しくは知らないけど、それがそのまま採用ってことにはならなかったようだ。で、君の場合だけど評価はかなり良かったみたいだが、それだけじゃなくて、上長になる人のアシスタントもやってもらいたいってことになって、今回は純粋に人事異動ってことで打診が来たんだ」


 「アシスタントですか・・・。企画とかじゃないんですね。そうですか。評価は良かったけれど、アシスタントかぁ・・・はぁ・・・」


 二人の前だけど、気持ちが優先してしまってがっかりと肩を落とし項垂れる。だって、それなら今の部署と変わらないじゃない、と思っているけれど、直上の里見さんの前では言えない。


 「おいおい、あからさまにがっかりするんじゃないよ。大体、上長のアシスタントって秘書みたいなもんだぞ。やりがいはあると思うんだけど。それに『アシスタントも』って話だったからチャンスがあれば企画もやらせてもらえるんじゃ無いか?」


 「本当ですか!」


 「可能性は多いにある。評価は良かったって言っただろう。それに確実に君を欲しいみたいな感じだったと聞いているしね。ご指名だぞ」


 「それに野田さんだけだったらしいね。日本語を一切使わずに企画書出したの。英語とフランス語だったそうだね」


 「ああ・・・、それですか。特に言語の指定はありませんでしたし、いいかなって。大学時代留学していたので、その方が書式として慣れているんです。もしかして日本語必須でした? それが駄目だったとか?」


 「いやいやそう言う訳じゃない。それで今回、君が留学してたってね俺ら初めて知ったのよ。そのレポートを見た人事部がさ、保管してある君の履歴書を改めて見たようでね、初めて博士課程まで終了してるってことが分かったそうだ。当時の担当者が、完璧に見落としていたようだ。まぁ、人事から渡された履歴書を見た時、今の君と履歴書の写真が違ってて俺も最初同一人物なのかって疑ってしまったけどね。くくく」


 「そうですか・・・」

 

 ってか、今、入社当時の履歴書の話をされても意味なくない? でも、何だか二人ともその話を聞きたがっているような気がしたので答える事にした。


 「最初の入学は日本の大学だったんですけど、試しにフィンランドの大学に応募したら合格をもらえてそのまま留学しました。フィンランド在学中に修士までとって、留学中にEUの留学制度を利用してイギリスの大学で博士課程を修了しました」


 「スキップしたんだよね。だから日本の大学卒業とほぼ変わらない年齢で博士課程まで終えられたと」


 「うーん、スキップって言うのとはちょっと違うんです。もの凄く頑張れば幾らでも単位が取れる仕組みだったので、人間一度くらいは死に物狂いに勉強しても良いんじゃないかと思って単位を取りまくった結果です。お世話をしてくれたチューターも留学経験者で色々アドバイスをしてくれて私にあったスケジュールを組めましたし、先生方も相談に乗って下さって授業のやりくりがしやすかったですし」


 初めて聞く話なのか里見さんも安達さんも興味津々で私の身の上話を聞いている。

 入社面接の時どうだったかなと思い出すが、こんな話をした覚えが無い。自分のアピールポイント間違えたのかも、と思ったが・・・いまさら、だ。


 「なるほどねー。色んな制度があるんだな。英語が得意だったとか?」


 「別に得意というわけじゃありませんでしたけど、思い切って自分をそういう環境に置くのが一番早いかと思ったのも一つありますね」


 「あっはっは。思い切りがいいんだな」


 「腹を括れれば、ですけどね」


 そんな感じでしばらく三人で世間話のように雑談をしていた。


 「本当のこと言うと手放したくないんだよな野田さんのこと。うちとしては貴重な戦力だし、実際仕事は安心して任せられるし切り替えも早いし」


 ぼやきともとれる里見さんの言葉に、安達さんが苦笑している。


 「里見がひっぱったもんな野田さんのこと。だから、今回搔っ攫われるんで悔しいみたいでさ」


 今度は私が驚く番だった。女子社員で事務担当での採用なら能力の差なんてそうないだろうし、ま、相性はあるかもしれないけど、そういうところまでマネージャーが気を配っているとは思っていなかったからだ。驚いている私に視線を向けながら、里見さんは口を尖らせている。


 「その顔は信じてないだろう。ま、自分のことは自分では見えない部分もあるからね。オレは野田さんのことは高く評価してるんだ。だから、今回の人事異動は面白くない」


 「おい里見、あからさまだな」


 笑い上戸なのか再び安達さんが肩を震わせている。


 「だって、安達さん、言いたくなりますよ。折角いい雰囲気のチームになっていたんですよ。それを・・・あーあー」


 安達さんの前だからか、目の前でブツブツ文句を言っている里見さんはいつもより幼く見える。こういう表情を榎本さんは見たことあるのかな、なんて全く関係ないことをこっそりと考えていた。


 「あのー。その人事異動は私に拒否権はあるんですか?」


 私の質問の内容が思いがけなかったのだろう。里見さんと安達さんは揃って目をパチクリとしている。


 「拒否する? そうだねー、正直言うと無いな。里見にもない。もちろん俺にもね」


 肩を竦めながら安達さんがそう言った。


 「そうですか、わかりました。私も会社の一歯車ってことですもん。厚かましいですけど、望まれて行くって思っていいですか? その方が私の心が折れませんから」


 気を張っていないと簡単にポキリといっちゃうんですよこれが。


 「ああ、その通りだよ。望まれてるの、あちらから是非にって。だから、思いっきりやってこい」


 安達さんがニヤリと人の悪い笑みを浮かべて激励してくれる。私もそれにつられて笑顔になる。


 「ふふふ、はい。10月からですね」


 「そう。今日は内示だけだから、正式な辞令は後日発令される。新しい部署についてはその内に連絡があると思うけど、まだ周囲には言わないで。でも、ちょっとずつ引継書を作っておいて欲しい、誰が来ても良いようにね」


 「分かりました。正味、一ヶ月ありませんもんね。気持ちを切り替えてやります」


 「ああ頼むぞ。俺達からの話は以上だ」


 「はい。ありがとうございました。失礼します」


 私は二人に向かって頭を下げると会議室を後にした。


 自席に戻ると早速、引継書の内容を考える。臨機応変を求められるポジションだけに書面にする内容が難しいが、そこは後任者次第だと割り切りルーチンワークを中心にリストアップしていく。

 その途中、ふと後任者の名前を聞かなかったことを思い出した。でも「誰が来ても良いように」ってことはまだ未定ってことだろうし、一応、榎本さんには伝えておこうと思って、スマホを取り出し、異動になる事を知らせるメールを送っておいた。するとたまたま席にいたのか直ぐに「さんきう!」という返信が来た。

 それを見て思わず吹き出す。きっと自席でガッツポーズしている榎本さんの姿を思い浮かべれば、この短い文面から推測するに、きっと猛烈に異動したいとアピールするに違いない。私も後任が榎本さんであればいいなと思いながら、再び引継書にとりかかった。



  ***



 翌朝、いつもどおり一番に出社し、引継書に取りかかった。昨日、次々とふられる仕事の合間には到底まとめられないと判断し、いつもの始業前の時間を割り当てようと思ったのだ。

 カタカタとキーボードを打っていると人の気配がするので顔を上げるとそこには榎本さんがいた。


 「おっはよ。野田さん。昨日はメールさんきゅーね。私、この席に来られるように頑張るわ」


 やる気をみなぎらせた榎本さんは、いつも以上に明るい。既に行動を起こしたと見た。


 「ふふふ。おはようございます。ぜひそう願いますよ、私もその方が引継しやすいですから」


 私は手を止めずに視線をちらりと榎本さんに向けて答えた。すると榎本さんは私の隣に椅子を持って来てモニターをのぞき込む。


 「ははぁ引継書ねー。そうよね10月ってもうすぐだもんね」


 「昨日から始めたんですけど、仕事の合間になんてとてもじゃないけど無理って分かったんですよ。だからこの時間にちまちま書き溜めようと思って」


 「そうかそうか。偉いぞ」


 榎本さんはそう言って私の頭をポンポンと軽く叩いた。


 「あ! そうだ。そうですよね。うん、そうしよう」


 榎本さんにポンポンとされたことで思い出した。


 「何よ急に、どうしたの?」


 「環境が変わるし、ついでに自分も変わろうかと。この前、榎本さんがおっしゃったように」


 そう言って眼鏡を外し、カチューシャで前髪を上げてみた。それを見た榎本さんがウンウンと頷いている。


 「おお、いいねぇ。有言実行か。うん、野田はやっぱりその方がいいよ。8%増しで凛々しく見える」


 「少なっ! まぁ別に凛々しく見えなくてもいいんですけど・・・。あれから言われた事を考えてみたんです。確かに顔を隠す事でワンクッション人との間に壁をつくってるんだなって。こうすると眼鏡の縁も気になりませんし視界も良好です。10月からこれでいきます!」


 そう言ってニパッと笑ってみせると、「10月からかいっ」とのツッコミはあったものの自然と榎本さんも柔らかい笑顔になって、心無しかいつもよりも存在を近く感じられた。私から(さら)け出せば相手にも伝わるんのかもしれないと改めて思った。


 結局、榎本さんは始業直前までいて、気がついた時にはすっかりおしゃべりで時間をつぶしてしまった。


 (全然進まなかった・・・)


 目論みがすっかり外れ、一行も進んでいない引継書にがっかりと肩を落とした。



  ***



 (今日は一体、何の日なの?)


 始業開始後、平穏な時間が過ぎて行った。月末月初でもなく、急ぎの仕事がある訳でなくまったりと午前中は過ぎて行ったのだ。だが嵐は突然やって来た。それは、午後に入ってからスグに起こった。苦情とまではいかないまでも、お客様からの問合せや不満など、ちょっと受けたくない電話が入って来るようになったのだ。しかも、その内容はうちの課では無いものばかり。


 「里見さん、どういうことなんでしょうか」


 たまたま不幸にも電話に出てしまった人達から不満が上がるようになった。


 「電話出たヤツの情報を回してくれ」


 そう言う事でまとめてみると・・・、


 「また、滝本のところのかよ・・・勘弁してくれ」


 里見さんは別の担当マネージャの滝本さんのところへ行き状況の説明を求めた。それによると、里見さんグループの電話番号が、問い合わせたくなるような内容の文章の問合せ先として併記されていたため、こういう事態になったということが判明した。完全なるケアレスミスか、はたまた嫌がらせか。


 「不幸中の幸いというか、30件くらいらしい」


 溜め息まじりで里見さんは、「あと数件くらいか」とリストを見ながら呟いている。みんな、あの電話がまだ来るのか、とげんなりとしている。


 (これは、電話の押し付け合いかしらねぇ)


 あと数件ならば、ひとり一件にも満たない。ま、ハズレを引いちゃったと思って諦めるしか無いだろう。・・・して、その内の3件をめでたく引き当てた私は息切れを起こしてしまった。もう、立ち上がる気力も無いとはこの事だ。くじ運の悪さにうんざりする。


 (どうして、何故、一体どういうことよ)


 様子を見に来たのかダイレクターの安達さんが里見さんの所に来ていて、私が3件目の電話の対応が終り電話を置いた時「お疲れさん」と労いの声をかけてくれた。そして「ちょっと休んで来ると良い」との言葉を受け、私は素直にそれに従った。


 顔を洗おうとタオルの入ったポーチを持ち、ふらふらとトイレへ向かった。


 「あ、カチューシャを忘れたわ」


 顔を洗おうと思ってやってきたのに、髪を留めるカチューシャを机の中に忘れてしまった。取りに戻るのも面倒なので、眼鏡をカチューシャ代わりに出来るかなと思い、試しにやってみた。上手い具合に太めのフレームはしっかりと前髪を留めおいてくれる。


 パシャパシャと顔を濡らす水がとても気持ちいい。


 (こういう時、ノーメークだと便利よねー)


 決して自分のズボラぶりを自慢したい訳ではなく、元から化粧はしないのだ。全くしない訳ではない。時々、することはある。が、年に数回程度、家族ぐるみのお付き合いをしている相手との会食など、特別な場合に限られる。さすがにTPOに合わせないといけないからだ。


 「あー、気持ちいい」


 顔を水で洗った後、ゴシゴシとタオルで顔を拭けば気分も一新される(はず)


 だが今日は顔を洗っている途中で、何人かトイレに入って来た気配があった。パウダールームを併設しているトイレは、何かと女子の集まる場所になる。パウダールームは手を洗う場所を通り抜けていく必要があるのだが、今、入って来たグループのうち、ひとりが足を止めたようだ。


 「あーら、そのゴツい眼鏡は、ふふふ、野田さんじゃなーい?」


 (げ、橘さん達だったのか)


 面倒な人に会ったなと内心うんざりしながら、ザブザブ顔を洗い続ける。


 「良いわねぇ日頃からメイクしない人って。楽でいいでしょうね? ほーんと羨ましいわぁ」


 (嘘ばっかり。全然そう思ってない癖に)


 橘さんは滝本さんの課の人で、仕事の上では全く関係がない無い訳ではないのだが、性格的な問題であまり関わりがない。ま、これは私から見た橘さんの印象であって、橘さんはそうは思っていないかもしれないけれど。

 正直に言えば、会えば何かしら厭味を言って来るから苦手なのだ。しかも、人によってあからさまに態度が変わるので、どれを信じていいのか良くわからないというのもある。


 できるなら会いたくなかった人と会ってしまい、気分が急降下し始める。だけど、このままずっと顔を洗い続ける訳にもいかず、適当な所で顔を上げ、タオルを顔に当てゴシゴシ拭く。


 「こんにちは橘さん。気持ち良いわよ、あなたもいかが?」


 半分タオルで顔を隠しながらそう返す。


 「気分転換? 忙しかったの? 里見さんがこっちにいらっしゃってたわ。そちらで何か問題でもあったのかしらね。っといっても私には関係ないけれど」


 橘さんは、ほほほと優雅に笑っているけれど、うちが忙しくなったのは橘さんのところが発端なんですけどね、関係ないわけないと思うんですけどね、と思うけれど済んだ事なので、それに、滝本さんと里見さんの間で何かしら解決しているのなら、私が言う必要は無い。


 「ええ、まあ。それで安達さんに休憩して来なさいと言われたの」


 ペンペンとタオルをはたき、畳みながら橘さんに顔を向ける。


 「へ、へぇ・・・。そんな顔してたんだ」


 橘さんが若干引き気味だ。そんなに私、不機嫌な顔しているかしらね。感情が表情に出ているとすれば問題な(また何か言われかねない)ので、「では失礼」と短く挨拶をしてあわただしくトイレを後にした。


 だが折角、ダイレクター自ら休憩して来いと言ってくれた手前、顔を洗っただけで帰るのももったいない気がするので社内のカフェに行く事にした。あそこならソファもあるししっかり休憩が出来るのだ。


 カウンターで珈琲を受け取り適当な場所を見つけて腰を落ち着けた。幸いにも人が少なくて、ほっと一息だ。思った以上に気力を削がれていたようで、珈琲を一口飲んだ後は、ソファに身を沈み込ませ目を瞑る。


 「あの、席、ご一緒しても良いですか?」


 急に至近距離で話しかけられて、驚いて目を開けると側に男性の顔があった。閑散としているから席は沢山あるのにと思うが、まぁ同じ会社の人間だし無下に対応して今後の会社ライフでどう関わり合うか分からないし「どうぞ」と答えた。


 男性はホッとした顔をして、私のはす向かいの席に座り、愛想良くニコリと笑って会釈をする。


 「あの。私、事業推進部の小早川(こばやかわ)(わたる)と言います。失礼ですけど、お名前をお聞きしても良いですか?」


 はす向かいに座る男性が丁寧に名乗りながら話しかけて来た。同席しているから、何か話さないと気まずいと思ったのだろうか、気を遣ってくれたようだ。


 「私は国内営業推進の野田瑠璃です。よろしく」


 「野田、瑠璃さん。いいお名前ですね」


 「有難うございます。私も気に入っているんです」


 父と母がつけてくれた名前を褒められ、疲れていた気分が大分浮上し思わず笑顔になる。褒めてくれた小早川さんに向かって笑顔でお礼を言った。その後は大人らしく危なげない話題で場を繋ぐ。

 どうやら小早川さんも気分転換にやってきたそうで「すぐに戻らないといけなくて残念」と言っていた。


 「野田さん、また今度」


 「はい、小早川さんも、お仕事頑張って下さい」


 小早川さんはこの後は会議が待っているそうで、溜め息を吐きながら渋々と戻って行った。何度も振り返りながら戻って行く姿は、なんとも言えない哀愁を漂わせていて元気づける為にも手を振ってあげた。


 「あー、私も戻らなきゃだわ」


 安達さんの言葉もあったけれど、さすがにそろそろ戻る頃合だろうと、よっと重い腰を上げた。



  ***



 「ただいま戻りました」


 里見さんに挨拶をして自席に着く。何かを読んでいる里見さんはモニターから目を離すことなく「おう、お疲れ」と答えてくれる。どうやらあの騒動は落ち着いたようで、皆一様に静かに自分の仕事に取り組んでいるようだ。私も電話対応の直前までやっていた仕事に取りかかる。


 「の、野田さん?」


 何故か疑問形で声を掛けられる。顔を向けると同僚の柿本さんがいた。


 「はい。どうしました?」


 クルリと椅子を回転させて柿本さんに向き直り、次の言葉を待った。


 「あ、いや、えっと、えっとー、さ、さっきは電話、お疲れ様」


 わざわざ労いにきてくれたのだろうか?


 「いいえ。私だけじゃありませんでしたし、皆さんも、柿本さんも対応されていたじゃないですか。それじゃ柿本さんにも。お疲れさまでした」


 そう言って頭を下げる。その勢いで何かが下に落っこちた。見た事のある眼鏡が柿本さんの足下に転がっている。すっかり忘れていたが、顔を洗った時、眼鏡で髪を留めたまま、そのまま出て来てしまっていた。

 元々視力は悪くなく、この眼鏡は青色光線なるものを遮るためだけに使っていたもので、会社以外では眼鏡はしていないということもあり、全く違和感を感じなくて気付いていなかった。


 (・・・あはは? 素顔全開で歩いていたの? さっきの橘さんも、小早川さんも素顔全開で?)


 10月から晒そうと、気持ち的にはそう思っていたのに、思わぬ事故でフライングをしてしまったようだ。顔を上げると、ぱさりとおりた前髪がチラチラ視界に入るようになる。

 あらーと思っていた所、眼鏡は柿本さんが拾ってくれた。


 「ありがとうございます。あははははは・・・」


 最早、笑って誤摩化すしかなくて、お礼を言うと直ぐに眼鏡を装着した。目の前に立つ柿本さんの顔が何とも言えない表情をしている。私達の間に流れる雰囲気も何だか微妙だ。


 「おい。柿本。なにぼーっと突っ立ってやがる。暇ならちょっと来い」


 たまたま、ひとり立っていた柿本さんが目立ったのか、仕事をふる為に里見さんが呼んだ。私の所に来たのは、労いを言う為だけだったので、それほど忙しくしていた訳じゃないだろうし、まぁちょうど良かったのだろう。私も再び続きに手を付けるべくデスクに向き直った。

 タタタタとキーボードを叩き続け、ようやく形になった。承認を得る為にマネージャー宛にメールをする。ルートに乗ってしまえば、ミスや見直しで戻って来ない限り、最終決裁まで行ってくれるはずである。心の中で無事を祈りながら、次のメールを開く。


 「野田さん。ちょっといいかな」


 よっぽどの急ぎでない限り、わざわざ私の所まで来る人は実はいない。殆どの用件はメールで済むし、社外に出ている人も多いからだ。どうしたんだろうと顔を上げるとまた別の人が立っている。


 「どうしましたか? 何か急ぎの用件が?」


 心して訊ねると、関口さんはきっちりと視線を合わせて来る。こういう展開は心臓に悪いドキドキする事が待っている事が多い。次の展開を待つべく、私も見つめ返すと、不意に視線を外されてしまった。そして、そこからは視線を合わせる事も無く、実は、メールを送ったので見て欲しいという内容だった。私は関口さんのメールを開きさっと目を通す。


 (・・・特に変わった所は無いわ。これは急ぎでもないし、いつもの処理で済むのではないかしら?)


 「関口さん、このメールがどうかしましたか?」


 「あ、いや、その、いつもメール送りっ放しだし、その、一度、ベクトルを合わせる意味でも、こうやって顔を突き合わせてみた方がいいかなと」


 「という事は、何か特に問題があるわけではないのですね? 良かった」


 何か大きな変更とか、何やら面倒な事になっているのかもしれないと内心、戦々恐々していたけれど、関口さんの言葉に感心感心と思い、私も手順などの方法も含めて改めて確認をする。一連の確認を終えると関口さんは「よろしく」と言いながら自席へと戻って行った。


 (折角来てくれたし、先にやっちゃいましょう)


 こういう時、心証って大事だなと思う。関口さんのメールは到着順からしたら9番目だったのだけれど、来てくれた事でぐっと優先順位が上がったのだ。割と難しくない内容でスイスイと終わる。


 「野ぉ田ぁさん」


 「はい?」


 本当に珍しい。

 こんなに立て続けに人が来るのは、一体何があったというのか。


 結局、定時までに人が入れ替わり立ち替わりやって来た。しかし、その全てがことごとく急ぎのものではなく、なんとなく会話をして終わるのだ。


 同僚達の変化に戸惑いつつも、忙しい訳でなく、滅多に無い事なので定時までその対応をして過ごした。

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