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意識と無意識の境界線 〜 Aktuala mondo  作者: 神子島
第三章
20/43

20

 この夏は人生初の出来事ばかりだった。

 仕事に生きようかどうしようかと思っていた時期、想像すらしなかった人生初の恋人が出来たかと思えば、あっという間に婚約までしてしまったのだ。まったく人生には何が待ち受けているのか分からない。


 自分でも自分自身のこととして認識するには、まだ何となく夢でも見ているんじゃないかと思うくらいに、ぽやぽやとした感覚になることもある。だが、不思議な事に蓮と出会ってからというもの、それまで自分自身の心の中にあったことすら分からなかった空虚感が、何となく少しずつ埋まっているという、そんな感覚がある。


 何と言えば良いのか、こう、シックリ来ると言うか・・・、その理由を探そうとするのだけれど、蓮に惹かれているからという位の理由しか挙げられない。その惹かれている理由も一体何なのか、出会ったばかりなのにどうしてこうもグイグイと惹き付けられるのか訳が分からない。これが、恋だとか愛だとか、理屈抜きだとか言うものなのだろうか。


 幾ら考えてもまだ自分が納得できる理由が挙げられない今日この頃なのだ。


 だが、あの指輪をした日ーーープロポーズされた日、更に大きな穴が埋まった気がした。それはつけたばかりの指輪を外されて初めて気がつくような、やはり認識していない穴だったけれど、改めて指輪を填めてもらった事で自分の細胞の隙間が埋まったようなそんな感覚になったのだ。


 あ、指輪と言えば、宝石商が来たその夜、父に母が好きだと言っていたエメラルドの話をしたら「よくやった!」と褒められた。父はきっと近々買いに行くことだろう。母にもサプライズのお裾分けだ。私、グッジョブ。


 そして夏期休暇最後の週末に両親とともに蓮の家に行き、ご両親ともご挨拶を済ませてしまった。以前竹崎さんが言っていたように、「はいはい」と二つ返事でアッサリと正式に婚約となり、あっという間に今年の夏期休暇の幕引きとなった。そしていつの間にか蓮はご両親からも半ば強引に私の家に入り浸る権利をもぎ取って、引き続き私の家で過ごしている。


 ただ結婚に関しては、どうやら蓮と蓮の父親との間で何か約束があるらしく、それを達成してからという何とも奇妙なやり取りはあったが、婚約を反古(ほご)にする事は絶対に無いから、と言う、蓮と蓮のご両親からの約束に、私の両親は安堵の表情を見せていた。ただ婚約発表はいつでも良いとの答えであったけれど、宝石商が来たあの日、私から見たら自己中過ぎる事を言う蓮とよーく話合い、少なくとも蓮が会社に馴染むまでは止めておこうということになった。


 なぜって、私の快適会社ライフを守る為に決まっているじゃないですか。私は地味子で通っているのに、婚約者が蓮ですよ。里佳や宝石商のお姉さんhを始め、蓮に会う人たちの反応を見るだけでも、会社の女性達がどういう反応を示すか簡単に想像できるじゃないですか。・・・怖すぎですよ。蓮が社内的な立ち位置を確率したらば立ち回りも上手くできるでしょうし、その間に私も腹がくくれるってもんです。



  *



 「蓮、ちょっといい?」


 明日から久々に出社という夜、書斎に居る蓮を尋ねた。扉から顔を出すと蓮は顔を上げて笑顔で手招きをして、私に直ぐに入って来るように促す。私がソファに腰掛けると蓮もすぐに隣にやってきて肩を抱かれた。


 「会いたかった、瑠璃」


 そう蓮は言っているが、決して感激的な対場面ではない。


 「さっき夕食を一緒に食べたでしょう」


 ジト目をしながら、むにっと蓮のほっぺたをつまむと「ナニをひゅる」と言いながらも目が嬉しそうにしている。

 実際こんなやりとりは日常茶飯事なので、既に二人だけの挨拶代わりになっている。なので蓮に流されないように、忘れないうちに用件を伝えようと肩に回されている両腕を掴むとそのまま膝の上におろした。


 「あのね蓮。確認しておきたい事があるの」


 私の真剣な気持ちを伝えるために少し高い位置にある蓮の目を見上げれば、蓮も倣って表情を引き締める。それを確認して恐る恐る言葉にした。


 「実は休みに入る前に会社の先輩と約束をしてしまったの。その・・・恋人の話をするって」


 「別にいいぞ。何か問題か?」


 「え? だって公表しないって決めたじゃない」


 あっさりと了承されて拍子抜けてしてしまった。


 「瑠璃が約束を実行しても良いと思う人なのだろう? でなければ、幾ら約束をしたと言っても瑠璃なら何とでも切り抜けるだろうし、わざわざ私に断りを入れに来たのは信用するに値する相手だからだ、違うか?」


 「さすがね。そう。色々癖はある人だけれど良い人なの。だから嘘はつきたくないの」


 「本当は私こそ周囲に大声で言いたいところなんだが、公表しない事にしたのは、私がちゃんと瑠璃の夫として生活できる基盤を築けていないからだ。いくら家の名前があったとしても、それでは瑠璃を本当の意味で幸せにはできぬ。・・・それに親しい友人としてなら問題ないだろう。むしろ、助けてくれる人物になるかもしれん」


 (あ、蓮の中ではそういう理由になったのね・・・)


 アバウトな婚約発表引き延ばし理由を、蓮なりの理由で納得してくれていた訳だ。


 「ええ、ええ、そうね。きっと。助けてくれると思うわ。ありがとう」


 凄い。いくら直前までふざけていても、ちゃんと私の事を見て信用してくれているんだと嬉しくなった。思わず蓮の首に抱きついてお礼を言うくらいに嬉しかった。蓮も優しく私の背中を撫でてくれ、折角なのでしばらくその余韻に浸っていた。


 「ところで、その先輩というのは女か?」


 「え? ええ、そうよ。榎本さんっていうの」


 「そうか」


 答える蓮はどこかホッとした声だ。


 「どうしたの? もし男の人だったら?」


 「男だったら瑠璃が口をきくのも嫌だ」


 打って変わって苦い物でも噛み潰したような声がする。折角、感動していたのに・・・もう・・・。蓮の焼き餅は常に私につきまとっているのねと、心の中で溜め息をつきながら、再び蓮と距離を取り向き直る。


 「世の中には男と女しかいないの。そんなの無理よ」


 「・・・やはり男どもは早めに排除するべきか」


 蓮は私の言う事に全く耳を貸すつもりは無いようだ。ならば・・・


 「なによ。会社でハーレムでも作るつもり? 蓮だったらみんな喜んでハーレムの仲間入りするんじゃない。そうなったら、私はあなたとは別れるからお好きにどうぞ」


 そう言って立ち上がろうとすると、蓮は慌てて私の手を掴み行かせまいとする。


 「違う! 私は瑠璃しか要らない。くそっ。上手く行かないもんだな。瑠璃を得る為には男どもの介入にも多少は目を瞑らなきゃならんとは!」


 蓮の頭の中では一体どういう展開になっているんだろうか・・・。蓮のこの反応にいささか食傷ぎみだが、私は気を取り直して座り直した。


 「あ・の・ね。会社で男だ女だなんて言ってたら仕事にならないでしょ」


 「そうだ・・・。いっそのこと瑠璃が会社を辞めて家に居てくれれば・・・」


 「蓮? それ以上言ったら嫌いになるわよ」


 今度こそ蓮の発言に呆れ果てた。睨みつけながら、その整っている顔の中心にそびえ立つ鼻をギュッと握ってやった。

 もう・・・。

 本気で言っていんだか、ただ、私と言葉遊びをしたいだけなのか分からないけれど、会社では勘弁して欲しい。


 「冗談だ冗談。その、榎本という先輩だか、私が入社したら紹介してくれるんだろう?」


 「ええ、もちろん」



 *



 「おはようございます」


 誰もいないオフィスで挨拶をすれば、休み前の自分に戻った気がして気分が引き締まる。週明けの月曜日にいつもしているように机の上を掃除し、メールを読みながら今週一週間の簡単なスケジュールを立てていく。

 日本国内でのやり取りは特に大きく動いてはいなかったが、海外で色々と動きがあったようだ。ま、あまり関係ないけど。直接関係のないものは読み飛ばし次々に目を通して行く。


 「ん? 全社向けね、何かしら」


 一通のメールに目がとまった。

 それは全社員宛に書かれているメールで、正式な文章なので形式に則って堅苦しく書いてあるが、平たく言えば、組織変更するので自分のやりたいことがあったら企画書を書いて応募しよう、みたいな事を書いてある。採用されたら自動的に異動になるようだ。


 少し面倒なのが、概要と本論は別々の言語で書くという指示だが、言語については特に決まりは無いようなので得意な言語で良いのだろう。締切は少し短くて二週間後だ。日頃から何か課題を考えている人は書けるかもしれないけれど、一から考えるのであれば、この期間はかなり難しいかもしれない。でもこの会社は単に大きいだけではなく、優秀な社員は沢山いるし、積極的な人達も多いのできっと応募者多数になるかもしれない、だが、何にせよアクションを起こさなければ何も始まらないし、何より面白そうなので前向きに検討することにした。


 「あら、面白そうね。それ、野田は応募するの?」


 声と同時に急に人の気配が湧いて出た。全く気配を感じなかったので驚いたが、私の隣で一緒にメールを読んでいる榎本さんがいた。


 「ええええええええ榎本さんっ!」


 「はぁい、元気そうね。休み楽しかった?」


 私の反応が面白かったのか、榎本さんはご機嫌な様子でヒラヒラ手を振っている。


 「あ、はい。お久しぶりです。榎本さんこそお元気そうですね」


 ぱっと見ただけではよくわからなったが、休み前とは比べ物にならない程にお肌が艶艶(つやつや)だ。


 「どうしたんですか、心無しかもの凄くお肌の調子がいいようですけど、なにか良い事でもあったんですか?」


 「あら、気付いてくれた? ふふん」と何やら含み笑いをしているあたり、やはりとても機嫌がいいようだ。「まーねー」と言っているけれど詳しくは教えてくれないようだ。ならば、答えてくれないのなら仕方が無いので、今はそれに触れないようにメールの話題に戻す。


 「どうです? 榎本さんも応募されてみては」


 「あー、パス。今の部署それなりに気に入ってるし、今更面倒くさいし。もし、あんたが異動になったら、このポジションを私に譲ってくれる?」


 「そうなったら里見さんと一緒ですねー。そーですかー。里見さんとうまくいったんですねー」


 「あ、馬鹿。こら。声に出すな」


 一応誰もいない事を確認して言っているので聞かれる心配はないが、この榎本さんの反応を見れば、ひょっとするとひょっとして里見さんと休み中に何かあったのだろうか。


 「ふむ。おめでとうございます?」


 「何で疑問形なのよ。そこは肯定でしょうが」


 「ってことは、まさか本当に付き合う事に?」


 うっふっふ〜んと気色の悪い笑いを浮かべ、榎本さんらしからぬ反応を示す。本当にあの榎本さんなんだろうかと頭をひねるが、恋愛は常人(じょうじん)を日常より3割増でオカシクすると言うし、何よりも本人が幸せそうなので、素直におめでとうございますと言っておく。けれども、次に榎本さんの発した言葉は


 「まだよ。全然。全然進展しないの〜。食事には行ったんだけどね・・・はぁああああああああ」


 途端に表情を崩して泣きついて来た。そろそろ面倒くさいなと思っていたところ、


 「それよりさ〜、野・田・さん? あなたの方も聞きたいわねぇ、約束したしぃ」


 あ・・・。できれば榎本さんから切り出されなければ自分から話題にはすまいと思っていたけれど、もしかすると、それを言いたいが為、己の身を切った前振りだったのか。さすがだ榎本さん。そこまでして聞きたいのか、他人の恋愛なのに・・・熱すぎる。


 「えーっと、一応先方にも許可をいただきましたのでお話しいたしますが、社内では無理です」


 「わーったわよ。じゃ、早速飲みに行くわよ」


 「嫌ですよ。今日、月曜じゃないですか」


 「なーに言っているのよ。週末は彼と会うんでしょう? なら平日しか無いじゃん。だったらいつだっていいわけでしょうが」


 「だって榎本さん、お酒が入ると絡むんですもん嫌ですよ」


 「あんたね、仮にも先輩に向かって言うかー。わーった、じゃ、食事だけで」


 「・・・本当に食事だけですよ」


 「やりい。じゃ、後で連絡するわー」


 きっとこれも榎本さんの戦略で、大好物のお酒を飲まない代わりに食事を付き合えという譲歩作戦だろう。そうだと分かっていても、会話は止められない・・・はぁっと大きく溜め息をつく。休み明け早々にどっと疲れを感じて机に突っ伏してしまった。


 榎本さんが立ち去った後、次々に同フロアの人達が出社してきたので挨拶をしながら気分を切り替える努力をした。そして忘れてはならない蓮へ今日は遅くなるという事と、ご飯は食べて来ますからと伝えて欲しいと言う事をメールした。すると直ぐに「了解」と返信が届いた。



  *



 「えええええええ? 婚約?」


 「ちょーっと、榎本さん、声が大きい!」


 約束した通り私と榎本さんは会社から少し離れたところに食事に来ていた。それほど広くない店内で、しかも落ち着いた雰囲気のお店での榎本さんの突然の大声に、慌てて制止する。一応、榎本さんもヤバいという意識はあったのか、自分で両手で口を押さえてキョロキョロと周囲を伺っている。

 幸いにも週明けの月曜日にいるお客さんは私達だけで、チラリとギャルソン君達がこちらを見ていたけれど、まぁ特に影響はないようで、ホッと胸を撫で下ろす。


 だがすぐに気を取り直したのか、若干小声で、捲し立てるように榎本さんが質問を繰り出した。


 「で、何でそういう急展開? もしかして、赤ちゃんができたとか?」


 「ち、違います! まだ全くそういう展開にはなっていませんのでご安心下さい」


 大慌てで私が訂正すると、なぁんだと、口を尖らせて凄くつまらなそうにしている。一体なにを期待していたんだこの人は。


 「さすがに内容は言えないんですけど、うちの家の事でちょっとごたごたしたんですよ。それで、心配してくれて、対外的にただの恋人というぼんやりした位置付けでなく、自分が出て行っても問題ない位置に居たいって」


 「それだけで婚約ねぇ。よっぽどその人、あんたの事を気に入ってるのね」


 「はぁ、お陰様で・・・」


 「ちょっと何よ。もうちょっと嬉しそうにしなさいよ。普通、自分で納得した婚約って嬉しいもんじゃないの」


 「はい。嬉しくない訳じゃないんですけど、いえ、意外と嬉しいって気持ちはあるんですよ、これでも。でも、実はこの続きがあって」


 そう言うと、キラっと榎本さんの目が輝いた。そして早く続きを話せと、鼻息荒く催促している。


 「彼、10月からうちの会社に入社するんです」


 「へ? 中途採用?」


 「はい」


 「ふーん、で、何か心配事? うちの会社は別に社内恋愛禁止してないでしょ。むしろ、結婚してもそのまま仕事している人達多いし。あ、わかった。彼、かっこいいんでしょ。だから心配なんだ」


 さすがの榎本さん。あっさりと核を付いて来る。


 「はぁ、多分、いえ、きっとモテるんだろうなとは思っているんでそれは別にいいんですよ」


 「・・・いいんだ。ってか、かっこいいって否定しないんだ」


 「はい。それよりその逆が心配で」


 「逆?」


 「もの凄く、やきもちを焼くんです・・・」


 短期間に何度も蓮の異常なまでのキレっぷりを目の当たりにしているので、この先の色んな場面が簡単に想像でき、ちょっとばかり頭痛がする。


 「ほう、じゃ、さしあたり、三木にあんたの素顔見せちゃ駄目だね」


 「うー・・・そういうんじゃなくて、普通に会話をするだけできっと駄目なんだと思うんですよ」


 「は? 何? まじで?」


 「はい」


 「まじか・・・。でもさ会社なんだし、流石にその辺は大丈夫なんじゃない? うちって結構でかい会社でしょ。同じビルでもそうそう会う事ないかもしんないじゃん」


 「そうだといいなと思ってます」


 私と榎本さんがいるビルだけでも50階はあるし、各フロアもそれなりに広いし、人数もその分多いから自分から会いに行ったりしない限りそうそうすれ違うことも無いと思うけれど・・・、完全に無いとは言い切れないあたりが不安をぬぐい去れない理由だ。


 「ねー、写真ないの写真。見せてよー」


 「無くはないですけど」


 「大丈夫だって。取ったりしないわよ。私は里見さん一筋なんだから」


 「いや、その点はよく分かっていますから大丈夫だと思っています」


 「じゃ、いいじゃん。ほーら、もったいぶらずに見せる!」


 ほらほらと手を出して催促する榎本さんは、本日最高の盛り上がりを見せている。私はスマホを取り出し画像を表示させて渡した。


 「・・・どうぞ」


 「・・・」


 榎本さんが沈黙すること数秒・・・徐々に顔つきが厳しくなる。


 「な、何この人。こんな人いるの? これ人間?」


 開口一番、黄色い声を出さないのは、長年、里見さんに片思いをしている榎本さんらしい。


 「はい、正真正銘生身の人間です」


 そう言うと榎本さんは眉根を寄せ、そこに深々と皺を寄せ顔を歪ませている。本当の皺にならないといいけれど、と思う。


 「あちゃー・・・やばいわね」


 「なにがです?」


 「あんた、恋愛とか全然興味なさそうな顔して、いつの間にこんな究極のハイスペックを捕まえてんのよ」


 「知りませんよ。声かけて来たのあっちからですし。最初は私も断ったんです・・・面倒くさいし。でもどうしてもって言うから私もその気になっちゃって・・・現在に至る、です」


 「はぁ・・・。まぁ婚約者だもんね。あんた達二人が(しっか)りしていれば大丈夫だとは思うけど、うちの女の子達、絶対に狙いに行くわよ。良くも悪くも上昇志向強い子が多いからね」


 「・・・はい、きっとそうだろうと思います」


 「覚悟はしてるんだ。で、名前は?」


 「名前ですか。聞きますかそれ」


 「それ以外の個人的な情報は、まだなんにも聞いてないんだけど?」


 「ですよねー」


 「そこも何か問題あんの?」


 「むしろ、そこが問題と言うか」


 のらりくらりとしている私の受け答えに、榎本さんはいい加減にジレジレしているのが見ていて分かる。わかってる。スパッと答えた方が良いって事くらい。でも、宝石商の人も目が落ちそうになってたし、蓮の名前の影響が計り知れないので怖いのだ。


 「何よ、もう。入社しちゃったら嫌でも知る事になるんだし、今言うのも代わんないじゃん。それより、この写真を見ても私は里見さん一筋だって思うから大丈夫だって」


 「はい。彼を見て態度が変わらなかったの、母と榎本さんだけです」


 「じゃ、いいじゃない。名前は?」


 覚悟を決めた。


 「神威(しんい)蓮さんです」


 「へ、へー・・・。なんだ、全然珍しくもないじゃない。うちの会社の上層部にもいるじゃんその名前・・・って、えええええええ!?」


 「・・・はい」


 「はぁぁぁ!? まじで?」


 「マジです」


 たっぷりと無言の時間が過ぎる。


 「・・・マジか・・・。どうすんの? あんた、まじで」


 「いや、どうするも何も双方の両親の挨拶も済んで正式に婚約しちゃったしー」


 「おいおい。野田さん。他人事みたいに言っているけど」


 「う・・・。正直。不安でどうしたらいいか分かりません」


 じんわりと眦が濡れるのが分かる。そっとハンカチで拭っていると


 「だーもう泣くな! 泣いたって始まらん。ってかあんたでも泣くのね」


 「何だと思ってたんですか私のこと。私だって血も涙もあります」


 思わずペンっとテーブルを叩いてしまった。


 「でもさ、話を聞く限りでは、し、神威さんはあんた一筋なんだから堂々としてればいいわよ。ってか、それしかない」


 「私、無事に会社生活、送れますかね?」


 「大丈夫よー。きっとね。きっと。ほら私もいるし、いつもどおりに振る舞っていれば周りだってそう言うもんかって思うわよ。堂々としてなさい堂々と」


 元気づける為か、榎本さんがカラカラと笑って和ましてくれる。


 「う、榎本さんっ。初めて榎本さんのこと尊敬できる気がします」


 「あんたね! そうだ! あんた、逆に素顔を晒しなさい。地味子よりいじめられにくいわよ」


 「やっぱりいじめられるの前提ですかー」


 第三者の榎本さんから見ても、そうなるんだなと冷静に見ている自分がいる。


 「あのさ、見方を変えてさ、これは変化の時期なんだよ。良い意味で、あんたもその武装をそろそろ解除した方がいいと思うよ。そんなのを間に挟んで、周囲と一歩距離を保っているのってあんまり意味が無いと思うんだ。それよりも正々堂々、素の自分で周囲を納得させな」


 ビシッと指をこちらに向けて言い切った榎本さんは実に男らしい。


 「・・・榎本さんが、凄くまともなことを言っている気がする」


 「茶化すな。ってか、ちょっとー、すみませーん」


 「はい、お呼びでしょうか」


 榎本さんのお呼びでギャルソン君が一人やってきた。


 「お仕事中にごめんなさいね。でも、ちょっと協力してくれない? この子、パッと見てどんな印象を持つ?」


 「ちょっと、ちょっと榎本さん。それって失礼じゃないですか、・・・主に私に」


 わざわざ仕事中の人を呼び出して、いきなりなにを言い出すんだと榎本さんを制すが逆に切り替えされる。


 「違うわよ。あんたは、私が幾ら言っても聞かないじゃない。ここは全く状況を知らない第三者の意見が大事なの」


 榎本さんの迫力に私は黙るしかなくて、もう好きなようにさせてみようと諦めた。榎本さんは待たせているギャルソン君に向き直ると、


 「ねぇ、あなたのような仕事をしている人って、第一印象って大事でしょう?」


 「はい。お客様のおっしゃる通りです。・・・ですが、身綺麗にされていらっしゃれば、問題はないと思いますが」


 ギャルソン君はちらりとこちらを見て、私を気遣いながら丁寧に答えている。ギャルソン君の答えは模範解答だ。合格。


 「じゃ、これは」


 ステルス機能を発揮した榎本さんはいつの間にか私の隣に来ていて、以前会社でしたような早業で、私の前髪を持ち上げ眼鏡を外してみせた。


 「はう・・・」


 何か強烈な物でも見たのか驚愕の表情を浮かべてギャルソン君が一歩後ろへ下がった。


 「榎本さん。眼鏡返して下さい」


 「おだまり。ね、どう? この子って随分印象が違うでしょう? 初対面でどっちがとっつきやすい?」


 「・・・」


 にこにこと榎本さんがご機嫌でたずねるが、ギャルソン君は黙ったままだ。


 「無反応ですよ榎本さん。どっちだって変わんないんです、ほら眼鏡」


 「無反応じゃなくて固まってんじゃないの? あのー、すみませーん、おーい、もどってこーい」


 ゆさゆさと榎本さんがギャルソン君の腕を引っ張っている。


 「っは! も、ももももも、申し訳ありません」


 覚醒した途端、もの凄い勢いでギャルソン君が腰を折る。


 「いやいや謝らなくて良いから。ね、どっちの方がいい? ちょっと、ちゃんと見てる? ちゃんと見て感想をお願いね」


 「は、は、は、はい」


 かわいそうに、榎本さんにもてあそばれてギャルソン君は顔が真っ赤になっている。だが、ここはすでに榎本さんの独壇場で、こういう茶番をとっとと終わらせるには気の済むようにさせるのが一番いい。私は内心でギャルソン君に手を合わせつつ、溜め息をつきつつも榎本さんの好きなようにさせる。


 「こっちと、・・・こっち。さ、どっちが好き?」


 榎本さんは器用に私の前髪と眼鏡を両手で操りながらギャルソン君に尋ねる。


 「・・・えっと、やっぱり、答えなきゃいけませんか?」


 若干涙目になっているのを見ると、何だかギャルソン君がかわいそうになってきた。


 「もう止めましょうよ、かわいそうですよ。あんまり揶揄(からか)わないであげて下さい、明らかにお仕事の邪魔してますし」


 ここで榎本さんからギャルソン君を庇えるのは私しか居ない。私は榎本さんに前髪を上げられたままなので、若干身動きが取りにくいのだが、視線だけを向けて、スミマセンと謝る。


 「い、いえ。ぼ、僕は、な・・・無しの方が・・・す、す、す、好きです!」


 そう答えると、とうとうギャルソン君は両手で顔を覆ってしまった。そんなギャルソン君の反応を見て、榎本さんは(いた)く満足そうだ。


 「ほらねやっぱり。第三者から見ても眼鏡無しの方が良いということが証明されました。はい、そこの君、ご協力どうもありがとう。もういいわ」


 満足する答えを貰えたようで、榎本さんはピラピラと手を振ってギャルソン君を解放した。


 「どうもすみません。変なことに付き合わせちゃって。どうぞ全部忘れて下さい」


 とんだ茶番に付き合わせて申し訳ない気持ちで深々と頭を下げる。


 「い、いえ、僕、忘れません! 忘れられません! し、失礼しました!」


 勢いよくお辞儀をするとギャルソン君はパタパタと走ってお仕事へ戻って行った。


 「もう、榎本さんってば止めて下さいよ。知らない人を巻き込むの」


 「・・・あんたね、誰の為だと思ってるの」


 「私の為ですね。ありがとうございます。参考にさせていただきます」


 「全然思ってないわね」


 「思ってますって。確かに環境を変えるのも良いのかもしれません。自分を変えるのも。否が応でも蓮が入社して来たら変わらないといけませんものね」


 「そうそう。その意気よ。正々堂々と胸をはっていなさい。そして三木をちゃんと振って上げなさい。見つからない相手を永遠に探し続けるの、かわいそうでしょ。彼にも前を向いてもらわなきゃ。それに神威さんが入って来てからじゃ面倒な事になるかもしれないからね」


 「・・・はい。そうします」


 その日、私は榎本さんに様々なアドバイスを貰いながら、やはりある程度の覚悟をする必要があるということを再確認したのだった。

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