14
結局、父と蓮の会話の半分も理解できないまま夜になってしまった。一つだけ理解したのは今夜は蓮がここへ泊まると言うことだけだった。母はまだ目が覚めないと佐奈サンが言っていた。
私は、といえば、夕食を作っている。何かしていないと昼間の出来事を思い出してしまい少しだけ怖くなるのだ。
これまで生きて来た中で、幸いにも、と言えるのか、大声で怒鳴り散らされた経験が無く過ごして来た。父や母に叱られる時には、懇々と諭されるように、思考がそれほど早くない私がじっくりと自分の頭でなぜ叱られているのかを考えられるように静かな声で対応してくれていた。
今回初めてダイレクトに至近距離でヒステリックな罵声や怒号を経験して、全くそういった免疫の無い私の心が折れそうになっている。あちら側の一方的な言いがかりだと分かっているけれど、あの時の事を思い出すだけで心が重くなって来て自然と溜め息が多くなっていた。
「はぁ・・・」
「瑠璃? 手が止まっている。私が代わろう、貸しなさい」
早々に手が止まってしまった私の代わりに蓮が料理の手伝いをしてくれている。作業用のアイランド型のカウンターのスツールに座らされ、エプロンを外され代わりに蓮がつけ、包丁と材料を前に私の指示を待っている。
この人は本当に器用で私の言う通り思った通りに料理が出来て行くのだ。まるで私の考えている事が全部分かっているような錯覚を覚える。
「もぅ、天は二物を与えず、なんて言うけど、絶対にそうじゃないわよね。三物以上与えられている人がここにいるんだもの」
ここで見て指示を出せと言われスツールに座らされている私の隣で、長身のためにサイズの合わないキッチンの作業台に座りながら作業する蓮を見ていれば、容姿、頭脳、手先の器用さ、人柄、家柄、社会的立場などなど、羨ましいことこの上ない。
私は何だか悔しくなり後で何か悪戯でもしてやろうかと考えている。脳内でグルグルとああでもない、こうでもないと妄想していれば何となく気分が浮上して来る気がする。
材料の下準備が終り、蓮は壁に向かって造り付けられているコンロに移動して材料を火にかけ始めた。前回蓮の家でやってみせたのを覚えているのか、色んなハーブを使って味付けをしているようだ。どんなブレンドになっているのか、こちらからは手元が見えないので分からないけれど、漂って来る香りからすると、とても楽しみである。
「瑠璃、味見をして」
小皿にスープを入れて蓮が持って来てくれた。受け取ろうと手を伸ばすと蓮が自分の口に含んでしまった。何をするんだろうと見ていれば口移しでスープが入って来て、突然すぎて味も分からずにゴクリと飲んでしまった。
「れ、蓮。どこでそんなこと覚えたの? あなた、もしかして他に付き合っている人でもいるの?」
昼間、シャワーを浴びた時に感じたあの嫌悪感を思い出した。同時にズンとした心臓の重みも感じる。
「違う! そんなんじゃない! ちょっと瑠璃をビックリさせようとしただけだ。瑠璃の前にも後にも誰もいない!」
私の質問に蓮が焦った様子を見せている。先ほどの威厳のある態度とまるきり違う印象がとても好ましく思えるが、蓮の発した言葉に私は驚いた。
「え? 聞き間違い? あなた誰ともお付き合いした事無いの?」
「・・・無い。瑠璃以外、要らない」
嫉妬というわけではなく、単純に驚いただけなのだが、蓮は必死の様子だ。
「いえ、そういうんじゃなくて、私と出会う前よ。本当に無いの?」
全く信じられない言葉に語気を強めてしまう。
「無いよ。そんなに軽薄そうに見えるか?」
えー・・・っと、ある意味かなり難しい質問にしばらく考えることに専念する。どう答えたものか、見た目だけで答えるのか、中身を考慮して答えるべきか・・・。
「・・・」
「瑠璃。もう一度聞く。私はそんなに軽薄そうに見えるのか?」
今度は超至近距離で蓮は私の顔を覗き込み、半ば強制的に聞きたい言葉を喋らせようとしている。
「み、み、みえま、せん」
「そうだろう。私は真面目なんだ」
私の回答に蓮は非常に満足そうだ。口が綺麗な弧を描いている。
「はぁ・・・」
お付き合いをしている今では蓮の真面目さは十分理解しているが、初めて会った時の事を思い浮かべれば、きっと先入観でこの人絶対に遊んでる、と答えているに違いない。だって放っておかれないタイプの人間だと思うから。
この後、入社してきた時の周囲の反応も気になるけれど、きっととても例外な人以外は蓮に纏わり付いて来るはずである。現に、里佳は一目見ただけで蓮に強い執着をしてたのだし。
10月の蓮の入社の時の事を思い少しばかり気が重くなる。
「竹崎や余暉にも聞いてみると良い、私がいかに真面目な男かと言うのを証言してくれるだろうから。ーーー私が一生側にいたいのは瑠璃だけだ」
ああもう、この人はーーー。
私の欲しい時に欲しい言葉をくれる。きっと、昼間の出来事がトラウマになりそうな事にも気付いているのかもしれないけれど、蓮の言葉はそんな状況の私の支えに十分になるってことを分かっているみたいだ。蓮の事を心から信じたいと、そう思えるようになった。
「ありがとう蓮。あなたの言葉は今の私にとってどんな食べ物よりも、栄養になるわ」
私はコンと蓮の肩に頭を預けた。
「ところで、あの二人は?」
もう名前も出すのも嫌だが気になってしまうので、父と一緒に対応してくれた蓮に様子を聞いてみると、どうやら応援を呼んでくれたらしい。
どう言う訳か、あの二人はまだ眠ったままだと言う。その間、竹崎サンと余暉サンが来てくれ見張りをしてくれるそうだ。どうりで蓮の作るご飯の量が多い気がしていた。
「いつの間に・・・。ありがとう蓮、色々本当に。何から何まで」
「気にするな。私はもうこの家の人達は家族だと思っているから。でもこれは私が勝手に思っている事だ、気にしなくて良い。けれどもいずれは本当にそうなりたいと思っている、これだけは覚えておいて」
「・・・うん、あ、ありがとう」
蓮は壁を向き鍋をかき混ぜながら、とても重要な事をさらりと言っている。思わず聞き逃してしまいそうになったが、聞き様によっては、とても嬉しい事を言ってくれている。
(どうしよう、嬉しい。蓮がとてもかっこ良く感じる。でも、顔合わせられない、恥ずかしい)
蓮が後ろを向いていてくれて助かった。でなければ、年甲斐も無く締まりのない顔を見せてしまっていただろうから。
「っちーっす。あれ? どうしたよ瑠璃ちゃん。赤い顔してニヤニヤしちゃってさ」
「よ、余暉サン! 急に現れて変な事言わないで下さい!」
前触れも無く余暉サンがキッチンに入って来て、見事なまでに余計な事を言ってくれた。慌てて顔を伏せるも蓮が振り向く雰囲気は感じない。ほっとしてそろりと視線だけを上げ蓮の背中を見る。
「ふーん。何かいい雰囲気じゃない? もう子づくり始めたとか? ・・・っで! ・・・何をするんですか蓮様!」
非常に良い音と余暉サンがつんのめるのが同時で、顔を上げ涙目で余暉サンが蓮に訴えるのが少し経ってからだった。
「余暉、口を慎め。瑠璃に下品な事を言うのは許さない。そんな口はこれでも詰めておけ」
きっとこのまま外を歩いたら余暉サンは確実に通報されるだろう。口から赤い汁が垂れ落ち、かなり危険な人物に見える。現に、キッチンに入って来た佐奈サンが里佳を縛った時の様な技で余暉サンをグルグルに縛り上げていた。
「若造、お嬢様の前でその小汚い顔を見せるでない」
モゴモゴと慌てて口の中の物を飲み込み余暉サンが弁解する。
「ちょ、佐奈サン、やめてよー。これはトマト! トマトのジュースなのこれ。蓮様に無理矢理食わされたの!」
今度はキッと佐奈サンが蓮を見れば涼しい顔で蓮がちょっと肩を竦めた。
「余暉が、瑠璃に下品な事を言ったのでな。口を封じただけだ」
再び余暉サンに鋭い視線を向けた佐奈サンが取った行動といえば、グルグルに縛られた余暉サンを軽々と担ぎ上げて外へ放り出していた。
「ふん若造が。お嬢様がお優しい事を良い事につけあがるんじゃない。しばらくそこで頭を冷やしておれ」
佐奈サンの言葉に蓮はお玉を片手にウンウンと頷いている。私は、あっと言う間の出来事に成す術も無くただ見ているだけだった。
夏だし風邪をひいたりはしないわよね・・・。
「お嬢様、お嬢様」
佐奈サンの呼びかけて我に返る。
「はい、どうしました? 佐奈サン」
「奥様がお目覚めになりましたよ」
とても嬉しい知らせを佐奈サンが持って来てくれた。蓮を見れば笑顔で頷いて、行っておいでと言ってくれた。私は居ても立っても居られずに両親の寝室へと駆け出した。
勢いのあまり廊下を走って来たが両親の部屋の少し前から静静と歩いて行く。下手に廊下を走ると怒られるからだ。そして、目覚めたばかりの母を気遣い小さめにノックをした。
「はい」
中から父の声がした。
「瑠璃です」
「お入り」
直ぐに中に入る許可がでた。
両親専用のリビングを抜け寝室へと向かうと、母は体を起こしてベッドの上で座っていた。少し表情が辛そうだが、顔色は大分良いようだ。
「お母さん、気分はどお?」
「もう大丈夫。瑠璃、こっちへ」
母に手を差し伸べられてベッドの脇へと立った。すると、母は私の手をゆっくりと引っ張り私はそのまま抱きしめられた。久しぶりの母の温もりと匂いを感じて私も母の背中に手を回した。
「ごめんなさいね、不甲斐ない母親で。あの時、あなたが襲われそうになってしまったとき、目の前が真っ暗になってしまったの。本当なら私があなたを庇わないといけないのに、ごめんなさい」
弱々しく母が謝罪の言葉を口にする。
「お母さんは悪くないわ。だから謝る必要は無いの。私がそうしたかっただけよ」
「いいえ、それでもよ。それでも・・・」
「お母さん、もう終わった事だわ。蓮のお陰で私はどこも何ともないし、お母さんも目が覚めたし、明日から普通の生活に戻れるわ。そうでしょ?」
「ええ、そうね。今晩一晩、ぐっすり眠ればきっと大丈夫ね」
私は母と抱き合ったまま微笑み合った。するとそんな私達をさらに包み込む大きな温もりがあった。
「お父さん」
「僕も仲間に入りたいな。君たちを独り占めできる特権は僕だけなんだから」
「あなた」
私は母と父の両方の温もりを感じてとても心が凪ぐのを感じた。小さな頃はよく父と母の間に割り込んで行ったのに、いつの間にかそれをしなくなっていた。久々の両親の温もりに心から安心できた。
「お父さん、お母さん。私、お父さんとお母さんの子どもで良かったって思ってるの。だから私、このままここに居ちゃ駄目?」
「それは、蓮君とは結婚しないってこと?」
「そうじゃ、ないんだけど・・・」
「瑠璃、もちろんこの家は君に継いで欲しいと思っているよ。だからそう言う意味ではここに居ても構わない。だけど、違う意味ではね、君には酷な話を言うんだけどね、僕たちにとって君は一番じゃないんだ。決して一番にはなれないんだよ。僕は二人とも大事なんだけど、藤花が一番で、瑠璃が二番目。なぜかわかるかい? 瑠璃にも一番が現れるんだ、一番は・・・」
「蓮?」
「そうだな、一番は瑠璃の旦那様になる人だよ」
「そうねお父さんの言う通りね。蓮君の事をしっかりと見て上げなさい」
「瑠璃が望めばここに居ても良いけど、僕たちは先に逝くんだ。その事は忘れないように」
「そんなこと、言わないで。まだ先の話よ」
「そうかな、いつ何が起こるか分からないんだよ。だからこそ、瑠璃には早く一番の人を見つけて欲しいと思ってる。君を一人にしないでいてくれる人をね。それに君は僕たちの子どもとして生まれて来たんだけど、天からの預かりものでもあるんだよ。近いうちに僕たちの手を離れて渡すことになるだろう。だから君にはしっかりと自覚して欲しい」
父のこの言葉は何か素敵な比喩かと思っていたけれど、比喩でも何でも無かった事は、後になってから分かる事だった。




