13
わざと大きなノックをし、ゆっくりと扉を開けた。そしてそ知らぬ振りをして母に話しかける。
「失礼いたします。お母さん、お客様かしら?」
応接間の中を見渡せば母に向かって仁王立ちをしている女性が早苗だろう。彼女はジロリと目だけで私を見ると僅かに目を細め、頭から足の先までひとなめしている。私はその視線を搔い潜り早苗の娘の姿を探した。娘の方は壁に寄りかかって自分の長い髪をクルクルと指に巻き付けて澄ました顔で興味なさそうにしている。何を考えているのか、この瞬間では全く読めない。だが、先日無断で私の部屋に入って来た人物だと言う事は分かった。
私が見ていたのに気付いたのか、娘が私を見て口だけで笑った。その顔はあまり気持ちの良いものではなく一癖も二癖もありそうな感じがした。
「あら瑠璃、何でも無いのよ。この方々は直ぐに帰りますからね」
険しい表情の母だったが、こちらを振り向くといつもの優しい顔でそう言った。だが、母の足下を見れば投げられ無惨に原型を留めない程に破壊されたカップが目に入った。さっきの音はきっとこれらが破壊される音だったのだろう。スリッパを履いているが、このままでは踏んで怪我をしてしまうかもしれない。
「お母さん、大丈夫?」
近づきながらも母を割れたカップから遠ざける。
「大丈夫よ。この方々が帰られたら直ぐに片付けるから」
気丈にも母は私を安心させるように笑った。
そこへ言葉も荒々しく早苗が割って入る。
「あら何を言っているの藤花。幼い頃のようにあなたは私の言う事を聞いていればいいの。大人しくこの家からその娘ともども出て行けば万事上手くおさまるのよ」
早苗は年下の従姉妹である母に対して不遜にも命令口調だ。そして聞き分けの無い子にでも諭すように、何度言えばわかるの、と言わんばかりで無理矢理に話を進めて行く。
「どうしてそんな話になるんですか」
母の代わりに私がキッと早苗を睨みつけるが、早苗は面白そうに目を細めて私を見返すだけだ。私は父から聞いた話は口にせずに早苗に向かって理由を求めた。すると早苗はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに口を開く。
「一夫多妻ならまだしもこの国は一夫一婦制でしょ。元の鞘に戻すだけよ」
早苗の言っている意味が全く分からないと首を横に振ってみせる。
「あなたには寝耳に水でしょうけれど、もともと理一郎さんは私と結婚するはずだったの。ちょっとした事情があってそれが叶わなくなってしまって理一郎さんは仕方なく藤花と結婚したのよ。私は理一郎さんの心情を思うと心残りで仕方が無かったわ。だからようやく状況が許すようになって、こうやって長い間私の代わりを務めてくれた藤花に暇をやって、元の通りに私が理一郎さんと結婚することにしたの」
早苗は勝ち誇ったように言い切った。そして
「だから、あなたたちは用済みなの。後の事は私に任せて、早く身の振り方を考えた方が良いわ。まぁどうしても理一郎さんと離れたくないというのであれば、お手伝いとして置いて上げても良いけれど」
正直言って一方的な早苗の言い分に呆れてしまった。隣では母が気持ちを落ち着ける為か深い呼吸を繰り返している。きっとはらわたが煮えくり返っているのだろうと容易に想像できる。
私は母の心中を察し、わざと大きく溜め息をつき早苗に向かって口を開いた。
「おっしゃりたい事はわかりました。ですが、あなたの一方的な話だけを鵜呑みにする訳には参りません。父にも確認しなければ・・・」
「あら、理一郎さんには確認する必要なんて無いわ。あの時の状況を考えれば、我が家とこの家の関係を考えれば結婚しかなかったの。親同士が決めた見合いだったからこそ、理一郎さんがどう思っていようとも、相手が藤花でなくても理一郎さんは誰かと結婚したはずよ。私と理一郎さんが出会っていれば、私達はきっと互いに必要な存在として認識していたはずだわ。今ならやり直せるの。私達、仕事の上では良い関係を築いているのだから」
早苗の話に虚を衝かれた。先ほどの電話では父は早苗とは会った事が無いと言っていたはずだったから。
どちらが正しい事を言っているのか見極める為にも情報が欲しい。相手に悟られないように平静を保ちながら、なるべく多くの情報を得なければ、いいように丸め込まれてしまうかもしれないと思う。
「・・・どうしてそう言い切れるんですか」
苦々しい思いは、この際、腹の深く底に押し込めてひたっと早苗を見つめて質問をする。
「私は色んなパーティで理一郎さんにはお会いしているの。かわいそうにいつも彼は一人だわ。奥さんはいないのかと心配するほどにね。社会的に高い立場にいる理一郎さんにとっては家で主婦しかしていない藤花より社交的な私の方が役に立つわ。理一郎さんにとって必要なのは、対外的に魅力ある私のような女性だと思うわよ」
母がひゅっと息を飲むのがわかった。そんな母の手を握り首を振ってみせる。母は泣き崩れるようなことはしないが内心穏やかでないだろうことは震える指先から伝わって来る。
確かに見た目では早苗は派手であか抜けている。だが、私にしてみればそれだけだ。毎日、ネクタイを結んでもらう際に見せる父の顔を知っている私としては、父の母への想いは揺るぎない物だと思っている。・・・そう、思いたい。
「それは父が判断して決める事です。あなたが決める事ではありません。それに父は母の事をとても大切にしているんです。それは娘である私が毎日顔を会わせているんですから、あなたより、父の事は分かっています」
そう私が言えば、早苗はキッと目を吊り上げて闘争心丸出しの状態でこちらに威嚇を向けてきた。
「私が藤花に劣るとでも? ふん、地味な女は地味に地面でも這いつくばっていればいいのよ。だから理一郎さんを私に戻して。あの人を幸せにできるのは私だけよ」
高圧的な態度であったかと思えば、今度は心情に訴えかけるような柔らかさを見せつける。そんな早苗の強かさは、表面上でも周囲の人々から見れば魅力的に見えるかもしれない。そういう技なのかもしれない。そしてその自信たっぷりな今の彼女を作っているものなのだろう。
そうやって、何もかも欲しいと思った物は何としても手に入れてきたのかもしれない。
こんな風に関わらなかったら、もしや私も騙されていたかもしれないと思う。
だけどそれとこれとは違う。そもそも父は早苗を知らないって言っていた。
父と早苗の言い分の食い違いはあるが、私がここで揺らいでいては母の立場も危うくなる。私は拳を握り父を信じる事にした。
「・・・父は受け入れませんよ。そもそも、あなたの存在すら知らなかったんですから」
「はん! 大人の事情に子どもがしゃしゃり出てくるんじゃないわ」
鼻じらんだように早苗はクイッと顎をしゃくって私から視線を外した。何か早苗を動揺させるような事はないのだろうかと内心焦っていると、視線の片隅に壁にもたれている娘の姿が見えた。彼女はいったいこの母親の言動をどう思っているのだろう・・・。
「あなた、ご自分の娘を否定するようなことを言っていると自覚されていないんですか。あなただって一度は他の男性の事を愛されていたでしょう? なのに、どうしてそれを否定するような事を言えるのか、私には理解できません」
言ってから早苗の娘の方を見ると、相変わらず彼女は興味なさそうに髪をいじっている。全く自分の母親を止める気がないようだ。どうしてそういう態度でいられるのか全く理解できない。多少、娘からの静止でもあればと思い発した言葉だったが、全く効果がなかったようだ。
それでもじっと娘の方を見ていれば、気付いたのか私に視線をよこした。そしてその目に何かよくない感情を宿して静かに口を開いた。
「ねぇ教えて。あの人はどこ?」
聞く人が聞けば甘い声だと思うだろうが、彼女の意図を考えれば私にはぞっとする声でしかない。
「あの人って誰ですか? 父だったら会社ですけど」
お昼寝を邪魔された時の事を思い出し、恐らく彼女の言うあの人というのは蓮の事だろうと直ぐに思いあたったがとぼける事にした。
「あなたのお父さんになんか興味は無いわ。あ、ごめんなさい、興味はあるけれど、男としてではないわ。母と結婚すればいいのに、とは思うけれど」
娘の方は淡々と興味なさそうに語るが、その答えを聞いて早苗が満面の笑みを浮かべた。
「里佳、分かっているわね。あなたの父親に相応しいのは理一郎さんなの」
里佳と言うか、と思ったがそれだけだ。肌の手入れは行き届いて髪も艶やかだが、ソレ以外の感想が出て来ない。
里佳は面倒くさそうに早苗を見たがそれは一瞬の事で、再び視線は私を捉えた。
「とぼけようって言うのは無理な話よ。あの車はあの人のでしょう? ここに来ているのでしょう? あの人に会わせて。あなたのような女はあの人には似合わないのよ。あの車にもね。どうせ、政略結婚だかなんだかできっとあの人も仕方なくあなたに付き合っているだけなんでしょう。私だったら満足させてあげあれるの。かわいそうだわ解放してあげなさいよ」
里佳の中では私は政略結婚で相手を縛り付けているという悪役認定されているようだ。自分でも知らず知らず奥歯を噛み締めてしまう。
「私達の事を何も知らずに語るのは止めて」
目に力を込めてみるが、里佳は涼しい顔のままだ。
「恋愛は自由でしょう。私はあの人の事を好きになってしまったの。だから私にちょうだい。あなたの後っていうのはこの際我慢してあげるわ。だって、それがあったから私の魅力が増々感じられるのだから」
完全に私を見下して馬鹿にしている口調だ。私は自分の容姿のレベル云々なんて考えた事はない。私は私以外の何者でもないのだから、他の人と比べてどうこう言われる筋合いなんて無い。
「隠さないで連れて来て、その方が身のためよ」
「嫌。恋愛は自由ってあなたは言ったわ。そうよ私の恋愛も自由。だから嫌。絶対に教えない」
今度はギリっという音が里佳から聞こえた。歯を食いしばったのか、口が醜く歪んでいる。
「あなたの会社は知っているのよ。素直に従った方が良いと思うけれど? 変な噂が立って居られなくなるわよ」
狡猾にも既に私の周囲は調べて来ているようだ。抵抗する事を見越した上で弱点になりそうなところを効果的について来る。
「それがなんだっていうんですか? 知っているからどうするんですか?」
悔しさ紛れもあるが里佳の出方が分かればそれに越した事は無い。きっと私が落ちると思って優越感に浸っている里佳の口を開くには多少の苛立ちを紛れ込ませた口調で語る方が効果があるかもしれない。案の定、私の苛立ちを感じたのか、楽しそうに教えてくれる。
「噂ってね、真実かどうか撚りも面白いかどうかで決まる物なの。真面目くさって大人しそうな顔をしているあなたが、本当は簡単に誰それ構わず足を開くような女だって会社中に広まったら、居辛いんじゃないの?」
その様子を思い描いているのか里佳の顔に嫌らしい笑みが浮かんでいる。自信たっぷりなその様子ではきっとこの手の脅しを何度もやって来ているのかもしれないと思い至った。
「やるならやってみれば? 根も葉もない噂を真に受ける人間の炙り出しに丁度良いわ。むしろ、そんな噂に惑わされる人間を切り捨てられる良い機会だもの、思う存分にやってみればいい」
ようやく私の事を好きだといってくれる人に出会えて、半ば強引に付き合うことになったけれど、今の私の中に蓮への信頼が芽生えているこの時にこんな陳腐な脅しになんか負けていられない。私と蓮の事は、私と蓮以外の人が知っているわけないじゃない、そう考えれば里佳の中途半端な脅しに何か屈する方が滑稽だ。
私が反論するとは思わなかったのか、もしくは里佳の思惑通りに打ち拉がれた様子を見せない私に対してなのか、里佳の顔が悔しさを滲ませて引きつった。すました時の顔よりむしろこっちの顔の方が本来の里佳の顔ではないだろうかと思えるほどに似合っていると感じる。声がワントーン下がった。
「本当に痛い目に遭いたいようね。素直に言う事を聞けば良かったのに。この結果はあなたが自分で選んだの。恨むなら自分の事を恨みなさい」
「あなたの言っている意味が分からないわ。私に何の非があるっていうの? 私の彼に横恋慕を抱いてそれが上手く行かないからって逆恨みも甚だしい!」
負けじと腹に力を込めてそう言えば増々里佳の顔が歪んでいる。すでにすましていた顔が思い浮かばない。
「あなた、彼の名前も知らないのよね? うまく情報が集められなかったって事でしょ? 結局はそういうことなの。あなたの手には入らないってこと自覚したら?」
畳み掛けるようにして追い込めば、里佳は凶悪に歪んだ顔でこちらを睨みつけている。そして持っているバッグに手を突っ込むと中からナイフを取り出してこちらに向けた。
それを見た佐用さんはすぐさま前に出て私と母を背後に庇い、逃げるようにと声を掛けるがそれを里佳が大声で遮った。
「動いたらナイフを投げるわよ。どこにあたるか分からないんだから」
興奮しているせいか何なのか、クククっと喉で笑いながら私達の反応を楽しんでいるようだ。
「言ったでしょう? 素直に言う事を聞かないから、こうなっちゃうの。全部あんたのせいよ」
「止めなさい。いい大人がそんなものにしか頼れないなんて、恥ずかしくないの? 今収めれば大事にはしないでいてあげるわ。それをしまいなさい」
母が動じない様子で里佳に対し忠告を発するが聞くつもりがないようだ。ナイフを手にしている里佳を見て早苗も声を荒げる。
「あんたたち母娘が、素直に私達の言う事を聞けばいいのよ。里佳だってこれ以上の事はしないわ」
そう言う早苗の顔も里佳と同じように歪んで見える。
この二人の表情はどことなく似通っているが、それは親子というだけでなく、目に見えない何かに操られているかのように感じる。力任せに自分達の話を押し通すことだけだし、一体、どうなっているのか少しでも早苗と里佳の表情から何かが読み取れないか見つめるが気持ちが悪いと思うだけだった。
ナイフを手に持っているせいか里佳は絶対的に優位に立ったと思っているようだ。3人で固まっている私達を面白がるようにジロジロと眺めている。
「ふふ、いい気味ね。さっきまでの勢いはどうしたのかしら? ねぇ、あなた、どうやってあんな良い男を捕まえたの? 大人しそうな顔をしてヤル事やってるんでしょう? あなたような人、体で誑し込む以外なさそうだものね。かわいそうだけど所詮それだけでしょう? 私の方が絶対に良いはずなんだから。試してみればきっと彼もそう思うはずよ」
違う! と思わず叫びたくなったが、それを母が私の腕を握って止める。ハッとなって母を見れば小さく首を振って挑発に乗ってはだめだと制止される。真剣な母の目を見ていれば少しずつ落ち着を取り戻す事が出来、コクンとうなずいて母に了解と伝えた。
「試す試さないって何をです? そもそも、彼は瑠璃以外は見えていないの。誰がどう横やりを入れようとも無理よ。彼もそう言う人ではありませんから」
悪しからず、と母は私の代わりに訂正をしてくれた。
「ふん、娘が娘なら母親も母親ね。大体ぱっとしない藤花が、私に張り合おうというのが無理なのと同じように里佳にその娘が張り合っても無理よ。見て分からないの?」
早苗は完全に私達を見下している。
確かに見た目の派手さなら負けているが、藤花の美しさはそれだけで評価されるものではない。凛とした強さも併せ持つ気高さがある。兄弟はいないけれど甘やかさずに厳しく育ててくれ、愛情もたっぷりと注いでくれた。母は私の誇りだ。
「何を張り合うっていうの? 人それぞれだわ。見た目だけ飾り立てても中身がどうしようもなければ意味はないもの。人の生き様にこそ美しさが現れるのよ。それがわからないあなた達に母の事を悪し様に言う資格なんてない」
私は母と佐用サンをやんわりと後ろへ下げ、一人早苗に対峙した。
「だいたいあなたの言っている事、おかしいって思わないの? 30年も前の話を今更持ち出してきて、勝手に解釈を付け加えて一方的な言いがかりで余所の家へ乗り込んで、声高に叫んで、それでまかり通るとでも思っているの? よく考えなくてもおかしい事だと分かるはずでしょう? そもそも大人であればこんな浅はかな行動はしないわ。いくら母の従姉妹だからって許されるものじゃない。あなたのご実家はこの事をどう思っていらっしゃるの? 従姉妹だからこちらから問い合わせてみてもいいかしらね?」
そう言ってやれば、早苗はクワッと目を目を見開き里佳からナイフを取り上げると私めがけて切り掛かって来た。
「お嬢様!」
「瑠璃!」
私にだって多少の武術の心得はある。こういう時の為の対応も小さな頃から度々練習をさせられている。だから素人である早苗のへなちょこな攻撃くらいなら躱せると考え敢えて挑発をしたのだ。
早苗の足の動き手の動きをしっかりと見据え、ナイフを持つ手を躱す為に構えた。
(見えた!)
ナイフを避けようとした時、背後から強い力で体を引かれ大きく後ろへ倒れ込んだ。同時に「ギャ」という声と共に早苗がその場に崩れ込み、持っていたナイフが誰かの足で母と佐用サンのいる方へと蹴りやられた。
咄嗟に見れば私の体を抱きすくめているのは蓮だった。驚きで声が出せずにいると、蓮はぎゅっと腕に力を入れて私を抱きしめてくれた。
「もう大丈夫だ、瑠璃は私が守る。・・・もう少しだけ辛抱してくれ」
私は勝手に体が震え、ただただ頷いて蓮に縋った。
「瑠璃に危害を加えるなど許さない」
蓮の迫力に早苗と里佳はその場から動く事ができない。だが、強かな里佳は直ぐに我に返ると目を煌めかせて蓮を見つめた。
「あなたよ。ああ、やっと会えた。ねぇそんなぱっとしない女より私にした方がいいわ」
これまで聞いたどの声よりも甘ったるい甘える声で里佳が蓮に言い寄りはじめる。
不愉快そうに蓮は里佳に視線を向けるが声は出す事は無い。それを肯定ととったのか里佳は更に言葉を続けた。
「そんな女、一時の気の迷いよ。あなたは知らないでしょうけど、その女は相手は誰だっていいの。あなたは騙されているの。私ならばあなたの横にいても見劣りなんかしないわ。ご友人にも自慢できるわよ」
里佳からはさっきまでの凶悪な表情は消え失せ、同性でも見惚れるような綺麗な笑顔で語るが既に表面だけと知っている私にとっては気持ち悪い事この上ない。
「政略結婚で仕方のない事なら、それは母が野田理一郎氏と結婚すればいいことだわ。そうでしょう? さぁ、選択肢は一つに絞られたわ」
手を取りなさいと里佳が蓮に手を差し伸べる。
「そうだな、一つだな。あいにく・・・醜いのは嫌いでな」
蓮がそう言えば里佳が勝ったと笑みを濃くした。
「そうでしょう?」
「ああ、だから、失せろ。二度と私の前にその醜い姿を晒すな」
別段声を荒げている訳ではないが、蓮が良く通る凛とした声で里佳に向かって醜いと言い捨てれば、言われた意味が分からないのか里佳は愕然となっている様子だ。
「み、醜いって、、、私に使う言葉じゃないわ! その女の方がよっぽど醜いじゃないの!」
「お前の目は節穴か。ついでに性根も腐り切っているようだな。お前のような女を側に置いてみろ、私の信頼が一瞬で失墜する」
これまでにない蓮の刺々しい言葉に私も驚きを隠せない。
里佳の顔は怒りの為か真っ白と言ってくらいに色が消え、小刻みに体が震えているのが見える。
「蓮」
私はこれ以上、蓮に矢面に立って欲しくなくて、掠れてしまったが蓮の名を呼び、蓮の腕の中に捕われている私は、ギュッと蓮の服を握りしめた。私の考えが分かったのか蓮は腕に力を込め抱きしめてくれた。
「瑠璃が気にする事は無い。君を守るのは夫となる私の役目だ。本来ならばこんな悪意になど晒したくはなかった、すまない」
蓮は里佳に対して向けた恐ろしい程の無感情な表情から柔らかい笑みに変え私に微笑んでくれる。そして優しく額に口づけをひとつくれた。たったこれだけのことなのに私の緊張がゆっくりと解けて行くのが分かる。
その私達の様子を見ていた里佳は悔しそうに唇を噛みながらも、眼光は鋭く睨みつけて来た。そして
「今に後悔するわよ。どんな事になったって知らないんだから!」
そう言って早苗を一人残し応接間から飛び出して行こうとした。だが、扉まで行った里佳はその足を止める事になった。佐奈サンが立ちはだかっていたからだ。
「出しません。奥様とお嬢様に危害を加えようとした犯罪者を野放しにする程、甘くはありません」
そう言うとさっきまでつけていたエプロンで、里佳に声を上げる暇も与えずさっと動きを封じた。その流れるような動作に全く無駄は無く、ただのエプロンだというのに、完全に里佳は動けなくなってしまった。
「里佳! ・・・あんた! なにするんだ!」
娘の里佳が身柄を拘束された事で早苗はようやく現状を理解したようだ。
「藤花! 直ぐに解放させなさい! こんなことをして許さないわよ!」
ぎゃーぎゃーと叫びながら早苗が今にも母に掴み掛かろうとしていた時、里佳が出て行こうとしていた扉とは反対の扉から父の姿が現れた。盛夏であるこの時期に、三つ揃いのスーツをピシッと着こなし背筋も真っ直ぐに堂々と立っている。そして静かな物言いで声を出した。
「何の権利があってそんな事を言えるのか、甚だ疑問なんだがな。佐々木さん」
「あなた!」
「お父さん!」
父は私達に視線を合わせるとニコッと頷いてみせ、ゆっくりと中に入って来た。
「あなたは一体何なんですか? 佐々木さん。他人の家に土足で踏み込む様な真似をして」
「り、理一郎さん、これは、訳があって」
早苗は今までの勢いはどこへやら、急にしおらしくなり、とても同一人物とは思えない。きっと、会社に居ると思っていた父が急に現れたのを見て驚いているのだろう。
「あなたが藤花の従姉妹だったんですか。・・・知りませんでしたよ」
はぁっと溜め息をついた父は、どうやら早苗の事を知っていたようだ。
「あなた・・・?」
おずおずと母が父に声を掛けると、父は足早に母の元へと歩み寄り母の腰に手を回した。
「藤花、まず君に言わなければならない事がある。この人とは以前、会社の付き合いで行われたパーティで時々顔を会わせていた。だが、私の知っているのは“佐々木伸一という人の奥さん”という事だけだ」
疑う訳ではないようだが母はきつく口を結んで頷く事もせず、父の言葉に耳を傾けている。その様子を注意深く見つめながら父はそっと息を吐き出した。父のことだ、母の中に渦巻く感情を理解しようとしているのだろう。
「だから今回、君の従姉妹としてここにいるこの人を、佐々木さんの奥さんと結びつけるのは難しかった。今、顔を見てようやく理解したよ。・・・それに30年前は君以外の人とは会ってはいない」
ハッと母が父の顔を見上げた。その目には少し揺らめいた色が見て取れるが、その当時の事を知っている母は父の言っている事が正しいと確信を持ったようにも思える。
母の変化をみてとった父が小さく頷いて母にふわりと笑ってみせ、更に言葉を重ねた。
「縁があったのは藤花だけだ。私達は運命のつながりがあるんだよ。それに君がどう思っていようと、僕は君さえいてくれたら僕は幸せだと思えたから、勝手なんだけど強引に結婚を進めたんだ」
最後に、ごめん、と父は口ごもりながら母に謝っていた。
「何を謝る必要があるの? 私もあなたの事はすぐに気に入っていたのよ。お見合いをしたばかりで直ぐに結婚ってことになった時には驚いたけれど、私も嬉しかったのよ」
今度は母がフフフと笑って気持ちを吐き出した。
「藤花」
父は私達の存在をまるっと無視して母を抱きしめた。
ま、私も同じような状態なんですけどね。
私のいる場所からは父の表情は分からないが、母の言葉でホッとしているに違いない。
ゆっくりと顔を上げた父は母を早苗から庇うように背後に隠すと、日頃、家では決して見せない鋭い視線で早苗に向かって言い放つ。
「・・・というわけで、佐々木さん。私があなたと結婚する確率は最初からゼロでした。当然離婚もありませんからあなたとの関係はこれまで通り、付き合いの無い遠い親戚という事だけです」
「り、理一郎さん。嘘よ、だって、私はいつだってあなたを見ていたわ。あなただって、微笑んでくれたじゃない」
「当たり前でしょう。取引先の会社に関係のある奥さんだ、目が合えば笑顔で挨拶くらいするでしょう。・・・それに、あなたに私の名前を呼ぶ許可を出した覚えは無い」
縋り付くように父に声を掛ける早苗を冷たく突き放す。
「佐々木さん、あなた、一方的に離婚届を置いて出て来られたようですが、まだ離婚は成立していませんよ。・・・安心なさい。戻るところはあります。あなたの旦那様は辛抱強くお待ちです。こういう下らない事は止めて帰ってあげなさい」
そっけなく父は早苗の現状を口にした。それに慌てたのは早苗の方だった。最初の高圧的だった態度はどこへやら全てを父に知られていると理解したようで、父を見る目が一層揺らいでいる。
「な、何を言っているの? そもそも、あの結婚が間違いだったのよ。私は騙されていただけなの」
「違うでしょう? あなた方は駆け落ち同然の行動をなさったそうじゃないですか。それは間違いではないはずです。二人で納得したからこそ、そうなさったのでしょう。ならば最後まで貫かれた方が美談ですよ」
「だから、それが騙されていたの。まさか・・・すっかりお金がなくなるとは思ってなかったのよ」
後半の言葉は聞き取れるかどうかのか細いものだった。だが父にはしっかりと聞こえていたようだ。
「お金の問題ですか? 今回はそれが目的ですか? あなたの旦那様は実に立派な方ですよ。勤めていた会社が倒産しても、再就職なさって頑張っておられるではありませんか。それを騙されたと言うのですかあなたは。真面目に働いて家族を養おうと頑張っている方に、よくもそんな事が言える」
正直言って父からもたらされる情報に驚きを隠せない。
この早苗に対しては、もったいないくらいの旦那様のようだし、むしろ離婚を突きつけるなら旦那様の方からじゃないかしらと思う。
「仕方ないでしょう。お金がないと生きてはいけませんもの」
父の言葉に悪びれた様子も見せずに早苗は開き直ってしまった。
「ならば、なぜあなたは働かないんですか。夫婦助け合ってこそでしょう」
「なぜ働かないといけないの? 夫が働いていれば、その間、妻は家の事をするんですよ」
「ならばこんなところで油を売らず、そうなさい。家に居てあなたの旦那様に、おかえりと言ってあげれば良い。実に良いものですよ」
父は自分達の毎日のやり取りを思い出しているのか、目元に薄ら皺が寄っている。後ろから母がそっと父の腕に自分の腕を絡め、側に寄り添った。
「・・・嫌よ。あそこは私のいるべき家じゃないわ。あんなの・・・家とは言えない」
早苗の顔が引きつっている。かなり嫌がっているようだ。
「一戸建てじゃなくても家族がいる場所が家でしょう」
「そんなの綺麗事だわ!」
「だから私に乗り換えると? お断りですよそんな人。それに、もし仮にあのお見合いの日に藤花以外の人が現れた場合、直ぐに断るつもりでしたから。私が久賀家からのお見合いを受けたのは、藤花に会える可能性があったからです」
「理一郎さん」
母がそっと父の名前を呟いた。それを聞いた父は少し照れくさそうにしていたが、とても嬉しそうだ。
「藤花。僕はずっと前から君の事を知っていて、妻にするなら君しか居ないと思っていた。だからお見合いの席で君が現れた時、直ぐに動いたんだ。仲人を連日せっついて君のご両親に今直ぐにでも結婚させて欲しいってね」
「あー。だからお見合い1ヶ月後に結婚だったわけね」
思わず口に出してしまったが、納得した。
(お父さんは頑張った訳ね。幾らなんでもお見合いの後、一ヶ月で結婚っていうのは双方の強い意志がないと難しかったんじゃないのかなって思ってたのよね。ということは、案外、泣いて縋ったというのは本当の事なのかもしれないわ。お母さんを見ればこんな状況だけどお父さんを見る目が愛しさで溢れているし、・・・こんな事を言われてときめかない人なんて居ないわよね)
私は両親のドラマチックな馴れ初めを、どこか他人事のように思い描く。
「そうだ。誰にも渡したくなかったからね。お陰でこんなに可愛い娘にも恵まれた。そういうわけで佐々木さん、あなた方がどんな理由を持って来ても私は藤花以外の人とは結婚はしません」
父は母をしっかりと抱きしめて、現実を突きつけるように佐々木親子に見せつけた。
「認めないわ! だって、最初に理一郎さんとお見合いするはずだったのは、この私よ!」
尚も言い張る早苗がかわいそうになって来た。どこまでも自分勝手で、贅沢に慣れ過ぎて現実を受け入れられない哀れな人・・・。
「久賀家の中ではそうだったかもしれませんが、私には知らされていなかった。でも、あなたがお見合いを蹴った時、次の年齢だった藤花に話が行くのは順当でしょう。お陰で私は大満足でしたけどね」
いつもネクタイを結んでもらう時、穏やかな笑顔で母を見ているのは決して私の見間違いじゃなかったようだ。ここまで来て、ようやく、父はずっと以前から小さな努力を積み重ねて母の信頼を勝ち得ているんだなと確信した。私はそんな両親の娘である事を誇りに感じ、自然と笑みがこぼれる。
「そうそう佐々木さん、勝手に他人の戸籍をいじろうとしたのは良くありませんね。どうやら私と藤花を書類上離婚させようとしていたようですが出来なかったでしょう? 閲覧もできなかったはずですし。我が家の戸籍をいじるには少々手間がかかるんですよ。これ以降、藤花を名乗って離婚届を出そうなんて馬鹿な真似は止めなさい。今後は近づく事すら出来なくなりますけどね」
父の言葉にぎょっとした。ニュースでは勝手に戸籍がいじられていた、なんて話を聞いた事があったが、実際に自分達のものをいじられそうになっていたなんて恐ろしすぎて父の顔を見つめてしまった。
「心配しなくても大丈夫だよ。そう言う事もあろうかと、色々手を回しているから」
父は私と母を交互に見て安心させるように優しい笑みを浮かべている。
一方で早苗は唇を噛みワナワナと震え始めた。自分の悪事が父に筒抜けだった事が相当痛手だったのかもしれない。
「どうして私だけこんな目に遭わなきゃいけなのよ! 私だってもっと幸せになりたいのよ。そう思うのは当然でしょ!? ふん。美しい家族愛なんて吐き気がする。こんな茶番、終わらせてやるわ。」
早苗は投げつけて割ったカップの一部を拾い、再び母へ襲いかかろうとした。
その瞬間、佐用サンが飛び出して、佐奈サンと同じようにつけていたはずのエプロンで早苗の動きを封じそのまま床に引き倒した。そして華麗な手刀で早苗の意識を落としてしまった。ものの何秒もかかっていない早業で私より遥か年上の佐用サンにまさかこんな特技があったとは、ずっと一緒に居たにもかかわらず、この時初めて知った。
「大丈夫ですか?」
早苗の意識が落ちた事を確認した佐用サンが、クルリと振り向きなおりいつもの優しい表情でこちらを気遣ってくれた。
あっけにとられてはいたが、いつもの佐用サンだと感じると自然と笑みが浮かんで頷いてみせた。
里佳もいつの間にか佐奈サンが意識を失わせてしまったようだ。
母はどうやら気を失ってしまったようで、父が抱き抱えている。この場で意識があるのは、私と蓮、父、佐用サン、佐奈サンだった。
父は母をベッドに寝かせると言って応接間を出て行った。お世話をする為に佐奈サンが一緒に付いて行く。
私も少々足下が覚束無い感覚だ。緊張の糸が途切れたのか、自分の体のコントロールが利かない。ゆっくりと足の力が抜け体が落ちて行く感覚にとらわれ慌てて踏ん張ろうとするが上手く行かなかった。そのまま崩れ落ちそうになるのを蓮がしっかりと支えてくれた。
「あ、あ、あり、が、と」
こう言うのが精一杯だった。
そして蓮の温もりを認識した途端、一気に涙が零れ落ちてしまった。流れ始めた涙は止められず、蓮に縋り付くのだけが精一杯で自分でコントロールできなくなっている。
「もう大丈夫だ。何も心配する事は無いから」
嗚咽まじりに泣き叫ぶ私を蓮はずっと優しく包んでいてくれた。
私がようやく落ち着きを取り戻した頃、父も戻って来た。佐奈サンが母に付いていてくれると言う。
「瑠璃」
「お父さん」
「怖いめにあわせてしまったな、すまない。でもよく頑張ってくれた。蓮君もありがとう」
「お父さん、間に合ってくれて良かった。本当に良かった。怖かった」
私はもう不安な気持ちを隠すつもりは無く、素直に気持ちを言葉にした。
「すまないな。こんなに早くこいつらが動くとは思ってなかった。完全に私の読み間違いだ」
父から苦渋の色が見て取れる。苦々しいしく横たわる二人を睨みつけるその表情には母を傷つけた怒りも含まれているのだろう。
「お父さんは悪くないわ。悪いのはこの人達よ。勝手な事ばっかり言って!」
「ああ、そうだな。まったく虫唾が走るよ。こんな奴らが藤花と同じ血が流れているかと思うと」
父は非常に不愉快そうな表情を隠しもせず倒れている二人を睨みつけている。見た事も無いその表情にちょっとだけ怖いと思った。
「お父さん・・・。この二人、どうするの?」
「さて、どうしようかね。困ったね」
父も困ったように苦笑いをしてみせるが、どうやら腹の底では何かを考えている気がする。
でも下手に警察沙汰にすれば母が傷つくかもしれない。社長という肩書きを持つ家のスキャンダルは一時の間でも大衆紙の格好のネタとしては十分だろう。
「僕はね世間一般的な正義よりも藤花と瑠璃を守る方を選ぶ事にしているんだ」
母へは決して見せないだろう薄い笑いを浮かべて父が感情のこもらない声で言う。
「まさか、お父さん・・・」
「ん? 瑠璃は、怖いかい?」
私は父が具体的に何を考えているのかは分からない。ただ、母と私を名誉を汚すような不祥事から守るには・・・まさか・・・。
「義父上、この一件は私に任せて下さいませんか」
父を問いつめようとした時、今まで黙っていた蓮が口を挟んだ。
「君に?」
「はい。考えがあります。要はこの二人の意識の向かう先を変えさせれば良いのですよ」
「・・・なるほど」
二人の会話についていけない。頭の中のクエスチョンマークが徐々に増えて行くばかりだ。
「何がなるほどなの? お父さん。それはこの二人をどこかで更生させるってこと?」
必死で二人の話について行こうと質問するが、父はかえって物悲しそうな顔をして私を見ている。
「似たようなものかな・・・。瑠璃は・・・、まだ覚醒はしていないのだろう? 私がやるから気にしなくても良い」
「確かにあなたには可能でしょう。でも、“瑠璃”も出来ますよ、ここは父娘で一緒にされてみては?」
蓮の言葉に父が目をみはった。
「大丈夫、、、なのですか? 本当に?」
「ええ、最近、あなたとは会った事はなかったかな。かなりの力ですよ。なぜ覚醒しないのかが不思議なくらいです」
「・・・。蓮君、君は、“瑠璃”をコントロールできますか?」
「ええ出来ます、いつも一緒にいますからね傾向と対策両方任せて下さい。時々、ほんの時々ですが、勝手に手伝いをしていますよ。あんまり手を出すと怒られる時もあるくらいですよ」
「そうか・・・」
何か父が考え込むようにじっと私を見つめている。
「今のこの子に向かって言っても分からないだろうが・・・」
「いいえ。魂の根底では理解しているはずなんです。その証拠に、きちんと覚えています、あちらでの“瑠璃”は」
蓮の言葉に父はうなずいている。その表情には悲観的な感じは無く、むしろこれから始まる何かに対する期待があるように思える。
「・・・そうなのか。瑠璃、今の君には理解できないかもしれないが、聞いてくれ。私達はこの二人の記憶を操作する」
父が何を言い出したのか全く見当がつかない。驚きすぎて放心状態で何も考えられない。
「お、お父さん? 何を言っているの。記憶を操作するって、そんなハイテクノロジーな技術を一介の私達ができるわけないじゃない」
「瑠璃、黙って義父上の話を聞いて」
言い返す私を蓮が強制的に黙らせる。後ろからお腹に腕を回され、もう一方の手で口を塞がれた。両手で口元の手をどかそうとしてみるが外せない。
「藤花の為だ、瑠璃。協力してくれ。私は藤花をこれ以上傷つけたくない。勿論お前の事もだ。二人は私の宝物なのだから。ーーーこいつらさえ私達の事を覚えていなければ、これ以上のごたごたは起きないだろう。一緒にやってくれないか」
父も蓮も何を言っているのか、さっぱり分からない。
二人の記憶を操作するなんてそんな簡単な事のように言われても・・・。
あちらの“わたし”って何の事よ?
聞きたい事は沢山あるが、今のこの状況では質問する事は難しそうだった。




