12
昼食はヘルシーなカネロニを食べ(蓮にはチーズたっぷりのサービスつき)、私と蓮はそれぞれの部屋に下がった。
・・・つもりだった。
「どうして蓮もここにいるの?」
「午前中に質問したと思うが、時々、ここに来ても良いかと。そうしたら瑠璃は、良いよと言ったではないか」
蓮の返答は今更何を言っているんだと言わんばかりだ。
「そ、そうよ言ったわ。時々って言ったわよ。時々って」
“時々”を強調して反論してみると、
「そうだ。その時々を最初に持って来ただけだ。だから私は最初お前と一緒に居て、その内、書斎に戻るつもりだ」
蓮の言い分に私の眉がピクリピクリと動いているが、まぁ、いいとしよう。
「はぁ・・・そういう事ね」
かくして私と蓮は一緒に私の部屋に居る。そして蓮はなぜかベッドに横になって、すっかり寛ぎモードだ。
「お昼寝をするの?」
「うーん、わからない」
「私、今から、箏の練習をしようと思うんだけど・・・」
「ああ構わないぞ」
「音、煩いわよ」
蓮は仰向けに寝ていた姿勢を、ごろりと横に向け肘枕をしながらこちらを見ている。
「ああ、構わない。たまには聞いてみたいしな」
「そう・・・。なら遠慮しないわよ」
蓮がそう言うならばとこの部屋の続き、箏の置いてある部屋へと移動した。そして立てかけてある箏を床に置き、袋から取り出して柱を立て調弦をしていく。調子は雲井調子だ。最初は自分の耳で合わせ、最後にスマホにダウンロードしたアプリで確認をする。今回は四と九の音がちょっとばかり外れていた。
最初はこの作業に時間を取られイライラしていたのだが、徐々に自分の耳で合わせられるようになり、少しばかりイライラから解放されてきた、・・・気がする。
準備を整えて、蓮の方を見ると面白そうにじーっとこちらを見ている。蓮の気が済むのなら、それでいいやと思い私は箏へと姿勢を向けた。
譜面を広げ爪をつけて、すっかりご無沙汰になった箏に向き合う。
久しぶりに目にした箏の姿に少し緊張を覚えるが、箏の方から早く弾いてという雰囲気も感じているから不思議だ。
ゆっくりと深く息を吸い呼吸を整えた。
弾き始めは極々ゆっくり。
このゆっくりとした速度がまた難しい。特にこの曲は昔々から、口頭で伝承されていたものだそうで明確なフレーズが無いそうだ。先生からは「この譜面の横線はただ便宜上書かれているだけ、気にしないように」という注意があった。
だが、幼い頃よりピアノを弾いて五線譜に馴染んでいる身としては、それが難しい事この上ない。
更に「口三味線で覚えるといいわよ」とアドバイスがあったが、こちらの方はさっぱりである。あはは。
でも、シャンとリャンとコロリン位は覚えた。まったく威張れた話ではないけれど。
・・・リャン ツテチコーロリン テン ツーンツトテンツテツンサーラリン テンチンツーンチツンテンツンチン トントン・・・
のっけら引っかかる。ヨ〜イの後、九の後押しとシャン、リテ ツーンツトトテシャ・・・
(ああああああ・・・。これがサボっていたツケなのね・・・)
見事なまでに下手糞極まりない。譜面と指が全然違う。
音も心無しかフラフラしている気がする。支えが上手く行かないのだろう。箏からも不満そうな雰囲気を感じて凹んでしまう。
もうこうなれば蓮の存在はすっかり頭から消えていて、ひたすら譜面を追い掛け、思うように言う事を聞かない左手と右手をスムーズに動くようになるまで覚えさせる作業に没頭する。
小一時間もやっていれば、毎度の事ながら着ているTシャツが汗だくになる。ただ座っているだけなのに、そうではないらしい。同じ教室で顔を合わせる人も「汗だくよー」と言っていたのを思い出す。
いい加減、正座をしている足もしんどくなってきて休憩を入れようと足を崩した。日頃から正座をしている訳でもないので、簡単に足が根を上げてしまう。
それにしても汗だくで気持ちが悪い。
シャワーを浴びようと思い立ち、ついでに、そーいえばとベッドへ目を向ければ、すっかり横になって眠っている蓮の姿が見えた。
(よくもまぁこの騒音の中で寝られるわね)
私は爪を外して、そっと蓮に近づいた。
可愛らしくも枕を腕に抱き、すーすーと寝息を立てている様子は、なぜか子猫が丸くなって寝ている姿を彷彿させ、思わずクスリと笑ってしまう。
見れば見るほどに綺麗な横顔、綺麗に整っている眉や睫毛、すっと筋の通った鼻梁、形の良い唇、どれも抜群のバランスである。でも、なんだかかわいいなぁと思いながら眺めていると、静かに蓮の目が開いた。ーーーそれは、いつも見る蓮の目と何か感じが違う気がした。
一瞬、背中がゾクリとする。
間を取らなければ、と本能で感じとったが、寝ている姿にすっかり気を許していたため咄嗟の行動が出来なかった。
寝ていたとは思えない程の素早い動きで、頭と体を固定され捕獲されてしまった。そしてそのままくるんとベッドに押し付けられ、私の体の上に蓮が覆い被る。
ここまでは瞬きをする間の出来事で、自分の視点がくるんと変わった事だけが唯一認識できたことだった。
「ちょ・・・、ま、まっ・・・んん」
抗議をしようと開けた口を容赦なく唇で塞がれ、蓮の不埒な手は遠慮なくTシャツの下に入って来て、下着を上にずらされてしまった。そして蓮はそのまま私の胸に顔を移動し皮膚を吸い上げた。
「・・・あぁ・・や・・・、やめ・・・て・・・やだ・・・」
慌てて蓮の頭や肩を必死で押し返そうとするがビクリともしない。生まれて初めて大人の男性の力の強さを実感した。女性としては腕力はある方だと思っていたのだけれど、私の必死の抵抗を全く意に介さず、黙々と己の本能に従っている蓮がまるで知らない人のようで怖い。
軽い熱中症を起こし蓮の家に泊まった時に裸で抱き合ってしまったことはあったが、こうやって触れられるのは初めてで、怖くてたまらない。恐怖で力が抜けそうになるが、でも諦めるのはまだ早い、そう思い力任せに髪の毛を引っ張ってたり、頭や肩をバシバシ叩いてみた。が、全く気にならないのか蓮は私の胸を好き勝手にしている。
「蓮、やめて・・・、お願い・・・、いやぁ・・・」
涙が溢れて来た。
思い切り、ぐーでポカポカと蓮の頭を叩くと、ようやく執拗な愛撫を止めてくれた・・・と思ったら、再び唇を塞がれ今度は蓮の手が私の胸を揉みしだきはじめる。
今、自分の身に降り掛かっている現実を直視したくなくて目を瞑りたくなったが、それでは反撃のしようも無いと思い、しっかり目を見開いて蓮を睨み据えた。
だが間近で見る蓮の目は、やっぱりいつもの蓮の目と違い、違和感を感じる。まるで感情が無いーーー。
「んーーーーー、んーーーーーー!」
声も出せず、濃厚なキスに呼吸が追いつかなくなり、必死で両手で蓮の頬を掴み押し上げた。ようやく蓮の顔が離れたその隙に、バチン! と渾身の力を込め、思い切り蓮の顔を叩いた。
ようやく蓮の動きが止まり一瞬の沈黙の後、ゆっくりと蓮の目が私をとらえた時、今度こそ観念する時かと思いきや、
「瑠璃? 何て格好だ?」
キョトンとした顔で蓮はそう言った。その表情は一瞬前の物とは全く異なり、私がよく知っているものだった。
「綺麗だな。本当に綺麗だ。それに、柔らかい。もっと触れても良い?」
私があっけにとられて答えられないでいると、蓮は調子に乗ってこんなことを言う。急にこみ上げて来た安堵感と、自分の今の格好を思い出し
「だ、駄目に決まっているでしょ!」
私の胸においてある蓮の手を思い切り叩き落とし、めくられたTシャツを下ろすとこれでもかと蓮を睨みつけた。だが、残念ながら全く効果がなかったようだ。
「どうしたんだそんなに睨んで・・・かわいいな瑠璃は。でも、これはどういう状況なんだろうか?」
はて? と首を傾げながら蓮がこの状況を考えているようだ。首を傾けた拍子に蓮のさらりと真っ直ぐな髪が顔にかかり色っぽい。
(まさか、寝ぼけていたってこと?)
さっきまでの違和感が全く無くなっている。
寝起きの、この突然の行動ーーーあり得ない話ではないと思うが、私の意思をまるっと無視をした行動に対する怒りの方が上回り、悔しくて涙が溢れた。
「どういう状況って見て分からないの! 貴方が私をレイプしようとしたんでしょ!」
私はあらん限りの怒りを込めてそう怒りを言葉に乗せて蓮にぶつけた。
「レイプ? まさか! ・・・むしろ、瑠璃は私を抱きしめて合意してくれたのではないか?」
(合意? 私が抱きしめて?)
蓮の言っている意味が全く分からない。
「蓮、あなた、・・・どんな夢を見てたの?」
悔しさや恐怖もあり無茶苦茶に責めたい気持ちはあるが、蓮のあまりにも素な表情に、少し心を落ち着かせる。
「ふむ、あれは・・・夢だったのか?」
何かを思い出そうと宙に視線を漂わせ、蓮が話し始めた。
「お昼前にあった事なんだが、その・・・、瑠璃に私の気持ちを信じてもらえていなかった事が、何と言いば良いのか・・・、苦しさというか、苛立ちというか、悲しみというか、そういう気持ちがごちゃ混ぜになってしまったような感覚が、私の胸の中にあったのは事実だ。そして私のどんな行動が、瑠璃に信じてもらえない事に繋がるのかと考えていたんだ。・・・しばらくすると瑠璃が寝ている私の側にやってきて、謝りながら優しく私に優しくキスをしてくれたんだ。そして、瑠璃から仲直りと言って寝床に入って来た。だから私はこれは互いの意思を通じ合わせる為に必要な事だと考えて、その・・・気持ちに応えたいと思って・・・、早くそうなりたいたいとは常々思ってはいたし、やぶさかでないし・・・」
最後の方は、今のこの状況と夢の中の状況を比べたのだろう、蓮の話が段々と歯切れが悪くなっていく。
蓮の話を聞いていて、午前中の私の不用意な発言に対して、蓮の泣きそうな顔を思い出した。
あの後、すっかり元の顔を取り戻していたので立ち直っていたのだとばかり思っていたが、本人も気づかないところで深く深く傷ついていたのかもしれないことを思い知った。
(何てこと!・・・とすれば、この蓮の行動は私が起こさせてしまったものとも言えるんじゃないかしら)
少し飛躍した考えではあるが、原因があるから結果があるのだし・・・。
「蓮・・・ごめんなさい。きっと私が貴方をそこまで追い込んでしまったのね」
蓮は何も言わずにじっと私を見下ろしている。何か考えているようだ。
「そう言えば、着ているものが違う気がするな。・・・やはり夢だったのか。・・・すまない瑠璃、怖かっただろう」
私の上から降り優しく私を抱き起こすと、今度は心配そうに私の顔を覗き込み、頭や背中を撫でてくれる。その行動に私の涙腺が決壊しかかった。
「こわ、怖かったけど、私の、しら、知らない人みたいで、その事の方が、よっぽど怖かった」
蓮が眠りから覚めた時に感じた違和感を思い出し、襲われた事より、まるで蓮が知らない人になったようで、そちらの方がよほど怖かった。
「すまない。現実と夢があまりにも酷似していて区別がつかなかった」
いつもの知っている蓮の表情に、ようやく安心感を覚え私は涙が止まらなくなってしまった。蓮はそんな私を優しく抱きしめて、繰り返し「すまなかった」と吐息まじりに呟いている。私は喉に力が入り過ぎてうまく声が出せなくて、ただ首を横に振るしかできなかった。
ようやく涙も止まり呼吸も気持ちも落ち着いて来た。その間、蓮は私を抱きしめ背中や肩を優しく撫でていてくれた。同時に蓮の規則正しい鼓動と温もりが頬に伝わって来てとても心地良くてずっとここに居たいと思ってしまう。
(私の言葉で傷ついた心がここにある。でも、・・・それでも蓮は私を想ってくれるし、大切にしてくれている)
私の蓮に対する怒りの感情は形を潜め、代わって目が覚めた後の蓮の真摯な態度に対して、素直に今の気持ちを言葉にしようと思った。
「このままで聞いて」
そう話しかけると、蓮は答える代わりに背中を優しく撫でてくれた。
「あのね、さっきの、あの行為なんだけど・・・」
そう切り出すと蓮の鼓動がドクンと大きく飛び跳ねるのが分かった。表情を見なくても、きっと苦しそうに歪んでいるのだろうと想像がつく。でも私が言いたい事は蓮を責める言葉ではないのだ。
「あれね、正直言うと、生理的な嫌悪感は感じなかったの。どちらかというと、怖かったのは、蓮が知らない人になったみたいだったことで、蓮に触れられるのは、・・・嫌じゃなかった」
今度はトクトクトクトクと鼓動が小刻みになり同時に蓮の呼吸も少し速くなった。呼吸をする度に蓮の胸の動きが大きくなるのを感じている。
「でも嫌な思いをさせたのは同じだ。私には瑠璃に触れる資格は、無いのかもしれない」
「ちがうわ・・・今は! その・・・今すぐは無理だけど、いつか、きっと応えられるようになると思うの、だ、から、・・・だから、も、もう少しだけ待って」
恥ずかしさのあまり顔から火が出そうだ。蓮の胸に顔をつけているからまだいいものの、自分から随分と突っ込んだ話をしている自覚はあるので、どうやって顔を上げていいのか、蓮の顔を見たら良いのか分からない。自然と蓮の服を掴んでいる手に力が入ってしまう。
「はう」
力強く抱きしめられた。息が出来ない程ではなかったけれど、蓮の気持ちを私に伝えようとするように、回された腕が力強く優しく私を抱きしめている。
「その気持ちだけで十分だ。瑠璃。無理にそうしなくてもいい。ゆっくりと進んで行こう。私達の、これからの方の時間が長いんだから」
労る様な優しい声が私の耳から体に入って来て、体の隅々まで愛おしいという気持ちで満たしてくれるように感じる。
(私もこんな風に蓮の事を満たしてあげられるのだろうか・・・)
未熟すぎる自分に嫌気がさす。
「蓮。ごめんね、いっぱい傷つけてごめんね」
「もうその事で謝る必要は無い。そのお陰で気付けた事もあるしな。・・・私は少しばかり感情が乏しい所があるから、大事な感情をまた経験できた。だが・・・、この感情はもう二度と経験したくはない」
蓮は何と前向きで優しい人だろう、この人と一緒に一生を歩んで行けたら、きっと素敵な事だろうなと初めて意識した瞬間だった。
いつまでも蓮の温もりに包まれていたくて自分から離れ難く思っていたら、思い出したように蓮が口を開いた。
「そう言えば、箏の練習はどうしたのだ?」
「あ、そう言えば・・・。練習で汗だくになったらシャワーを浴びようと思っていたところだったの。蓮を見たら何だかぐっすり寝ているから様子を見ようと思ってしばらく寝顔を見てたの。そしたら・・・そういうことになっちゃって・・・」
「そうだったのか。すまないな。ならば、私も一緒にシャワーを」
「蓮。舌の根も乾かないうちにそんな事を言うの? せっかく、貴方と一生一緒にいられたらって思ったのに!」
肩を持たれガバッと蓮から引き離され、目を見開いて、嬉しそうな蓮の顔と対面した。
「瑠璃、結婚してくれる気になったのか?」
「ちが、だから、前言撤回! まだよ。まだまだ全然足りないわよ、部屋に戻って来るまで一人で反省していなさい!」
蓮をベッドに押し倒し、後ろも振り返らずにさっさと部屋を後にした。
パパッと服を脱ぎ捨てシャワーを浴びる。私の未熟さを洗い流してくれるようでとても気持ちがいい。
頭からシャワーを浴びながら、ふと正面にある姿見に映し出された肌を見て驚いた。乳房の内側に赤い斑点が出来ていたのである。汗疹かと思い指で触れてみるが平たいままで、直に見てみると鬱血のようだ。どこかでぶつかったかしらと思うが、こんな所にぶつかる様なことはない。思い当たるのは、先ほどの事だ。強く吸われた時があった気がする。
(はぁ・・・何してくれちゃってるのよ。これって、キスマークってやつじゃないの?)
本や話くらいには聞いた事はあるが、現物を見るのは初めてだ。幸いにもよほどの事が無い限り他人には見られない場所だけに消えるまで服で隠しておけるが、こんなものが私の体に付く日が来るとは思いもしなかった。
(寝ぼけていて、こんなことが出来るんだ。もしかして慣れているのかしら?)
そう思った瞬間、ドクンと一つ大きく胸が鳴った。
(何? 嫌、この感情、嫌い。やだやだやだ。知りたくない!)
不快な感情に取り付かれそうになり、慌ててシャワーの温度を水にして頭から被り、必死でその不快な感情から逃れようと試みる。
(無心に。何も、何も考えたくない!)
その努力の甲斐があってか、しばらくすると頭がスッキリとなり落ち着いた。体は冷えたけれど、反動で今度はカーッと体中が熱くなった。
このままこのキスマークを見ていればきっとまた同じ感情に捕われると感じ、鏡を見ずに手早く浴室を出た。
身支度を整えて、まずはキッチンへと向かった。そこには珍しく佐用サン達の姿が無くて何となくホッとする。見られる事は無いと分かっていても、きっと今の私だったら自分から墓穴を掘りそうだった。生まれてから今日までずっと私の事を見てくれている人達だからこそ微妙な変化にはきっと直ぐに気がつくだろう。
気を取り直し、冷蔵庫に入れておいたおやつの様子を見て、良い感じに冷やされているのを確認する。それはまた後でということで、私と蓮の分の飲み物を作る事にした。
中庭で少しばかりハーブを育てているので勝手口から出て香りの良いミントを沢山摘んできた。そして適当なコップに水を入れ、ミントをそのまま挿しておく。
ガラスのピッチャーにエルダーフラワーコーディアルを入れ氷と炭酸水を注ぎ、摘んで来たばかりのミントをサッと水洗いし、ポンと軽く叩いた後その中に突っ込んだ。見ればキッチンの片隅にレモンもあるので、ざくっと半分に切って果汁を注ぎ入れ全体をかき混ぜて簡単に出来あがった。
母と佐奈サン、佐用サン分は後でまた作ればいいので、今回は蓮と私用だ。ピッチャーとグラスを持ち私は自室へと戻った。
蓮がいる事を知っているので一応ノックをして入る。するとベッドには蓮の姿は無く、なぜか蓮は箏の前で正座をして項垂れていた。
「蓮? どうしたの?」
声を掛けると少し涙目な顔がこちらを向いた。
「どうしたの? 大丈夫?」
手に持っていた物をテーブルに置き、蓮の側に駆け寄り顔を覗き込むと、ふわっと蓮の表情が緩んだ。その顔に手を添え「大丈夫?」と聞けば、「大丈夫。少しばかり反省会をしていただけだ」との答えが返って来た。
(ちょこんと箏の前に座って一人反省会ねぇ・・・)
思わずクスリと笑いが出てしまった。いつまでも蓮が気にする事じゃないと思い、
「さっきの事は、あなただけが悪いんじゃないわ。原因を作った私にも責任があるの、だから一人で抱え込まないで」
「・・・だが、怖がる瑠璃を無理矢理手篭めにしようとした事には変わりはない。この場合、傷つくのは女性側だけだからな。危うく瑠璃の信頼も、瑠璃自身も失う所だったと思うと恐ろしくなった」
蓮はどこまでも私に優しく、自分に非があると言う。けれども、その気持ちだけでもう十分だ。私の望む関係は対等でありたいのだから、どちらかがずっと自分を貶めたままでいるのは嫌だ。
「もう、止めましょう。私達はこうやって向かい合って話ができる関係だし、今後、互いを傷つけないようにすればいいんじゃないかしら」
「そうだな。では、・・・仲直りのキスをしようか」
ニコリと笑う蓮の視線が、チラリと箏を方を見た様な気がするが、私も仲直りのキスは妙案だと思った。だから、いつまでも正座をしている蓮の手を引きソファに座らせ、私も横に座った。
蓮を見上げて視線があった事を確認し、そのまま目を閉じれば間をおかずに蓮の唇が私の唇を優しく包み込んむ。それはまるで「ごめんね」と言っているかのように、優しく何度も私の唇を食む。その優しく繰り返されるキスはとても心地よく蓮の思いが伝わって来るようだ。
いつもなら私は受け身のままなのだが、私からも気持ちを伝えたくて、蓮の首に手を回し、私もゆっくりと唇を動かして蓮の動きに合わせていく。
(大好きよ、蓮)
この思いには偽りは無い。
今ではもう素直に言える。
さっきシャワーを浴びながら感じた事などすっかり消え去っていた。
いつの間にか私は蓮の腕の中で眠っていたようだ。横抱きにされ優しく抱かれているこの心地良さにももうすっかり馴染んで、顔を上げれば蓮の優しい顔が見えるこの状況を楽しめるようになっている。
人間って慣れるもんだなと改めて思った。
(はっ! 慣れは最も危険だわ。注意しなきゃ)
ブンブンと頭を振り気持ちを引き締める。
「瑠璃?」
首をブンブン振っている私を不思議そうな顔で蓮が見ている。
「何でも無いの。あっと、えっと、違う、えっとね、この腕の中の心地良さに慣れすぎるのも良くないなって思ったの。それと、馴れ合いも気をつけないとね」
何でも無いと誤摩化すのはなるべくしたくなかった。素直な気持ちを蓮に伝えられるようになる為には、日々の積み重ねが必要だ。ーーーそう、父のように。
「そうか? 私は可能であればずっとここに閉じ込めておきたいのだが。まぁ馴れ合いについては、そうだな。いつまでも初々しい瑠璃も良いもんだ」
ふふふと穏やかに笑う蓮はとても素敵に見える。実際に素敵なんですけどね。
「ちょっと、違うでしょ。もう、分かってるくせに。あなたの優しさに慣れ過ぎて、あるべき姿を見失うのは怖いわ。やっぱり日々の努力は大事よ。ーーー父みたいにね」
「義父上も何か努力されているのか? そうだな。私も気をつけよう。愛想を尽かされないようにな」
私が降りたいと言うと、おでこにチュッとキスをされ蓮の横に座らされた。
流石に喉が渇いたなと思い、持って来た飲み物を見れば、テーブルに置きっぱなしのピッチャーにはびっしりと結露が付いていて、水たまりが出来ている。布巾で結露を拭き、少しばかり炭酸の抜けたジュースをコップに注いだ。
喉を流れるジュースが心地よい。よっぽど喉が渇いていたのか、二人ともあっという間に飲み干してしまった。
直前の記憶をたぐれば、恥ずかしながらキスばかりしていたのですっかり喉が渇いていたのだ。仕方が無い。
「美味しいな。もう一杯欲しい」
「気に入ってくれた? エルダーフラワーコーディアルに、炭酸水とレモジュースとミントを入れてみたの。他のコーディアルもあるけど、うちでは夏場はこれをよく飲むのよ」
「ああ、気に入った。いいなこれは。瑠璃の作るものは私にとっては美味しいものばかりだ。安心するよ」
お褒め言葉とほんの少しレモンの味の利いたキスをもらった。
*
その後、何となく心地よく流れる雰囲気のまま二人で過ごしていたところ、突然、カシャーン、と何かが割れる大きな音が聞こえた。
窓が割れたのかと思いとっさに外を見るがよくわからない。静かに廊下側の扉を開け、様子を窺うと何やら言い争う声が聞こえて来る。蓮と顔を見合わせ、行ってみる事にした。
足音を立てないように静かに廊下を歩いて行けば、どうやら玄関に近い応接間で人の声がする。少しばかり空いている扉から様子を窺うと、母と母を庇うようにして立っている佐用サンの姿が見えた。
「お引き取り下さい。何度来られても答えは同じです」
母は相手に対して低く静かな物言いをしている。これはもの凄く怒っている時の声だ。残念ながら相手方の様子までは見れず、どうしようかと戸惑っていれば、背後から佐奈サンがやって来て手招をするので音を立てないようにして後を付いて行った。
キッチンに入り、佐奈サンは声を潜めて状況を説明してくれた。
「以前、来られた奥様の従姉妹がまた親子でお見えです」
そう言われてあの時に感じた嫌な感じを思い出した。
「何をしに来たの?」
「どうやら酷い言いがかりのようで、一方的に奥様とお嬢様にこの家を出て行くように言っているようです」
「何ですって? どう言う事なのかしら」
この家と土地は父方のものだ。いくら母の従姉妹とはいえ、そんなことを言う権利は全く無い。
「お父さんには?」
「はい、たったいま連絡を入れましたが会議中とのことで取り次いでいただけませんでした」
「スマホには?」
「留守電は残しましたが・・・」
困った様な顔をする佐奈サンの表情に、まだ直接話していない事が分かった。
「まだ実際にはお父さんの耳には入ってないってことね。分かったわ。私が連絡してみる」
部屋に戻り自分のスマホから父に直接連絡を入れてみると、タイミングが良かったのか、丁度出てくれた。
『どうした? いま、佐奈サンの留守電を聞いたが、どうなってる?』
「ごめんなさい。私も詳細までは分かってないの。でも、お母さんがもの凄い剣幕で相手に帰るように言っているわ」
『そうか。相手が何て言っているのかは?』
「私とお母さんにこの家から出て行くように言っていると佐奈サンが言ってた」
『なに? 本当か? くそっ』
電話の向こうで、父らしくない舌打ちの音も聞こえて来た。
「お父さん、もしかしてあの人達の事、知っているの?」
『ああ、調べてみたんだが、どうやら僕の最初のお見合いの相手だったようだよ』
思ってもみなかった答えに一瞬あっけにとられる。
「で、でも、だからって一体何の関係があるの?」
『そこまでは分からない。でも、お父さんはお母さん以外の人とお見合いはしていないんだ。早苗と言ったかな、藤花の従姉妹は。その早苗って人は僕と藤花がお見合いする前に結婚したはずなんだ』
今更だが、藤花というのは、私の母の名前である。ちなみに父の名前は理一郎という。
「お父さん、帰って来られる?」
『ああ、すぐに帰る。少しばかり調整がいるが、今日のところは大した内容じゃないから直ぐに戻る。瑠璃、悪いが藤花についていてやってくれ』
「わかったわ。なるべく早く帰って来てね」
『ああ分かった直ぐに帰る。瑠璃、いいかい、何があっても君たちを手放す事は無いからな』
最後のこの父の言葉は信じても大丈夫と、心強いと思った。いつも家にいる時には柔和な表情を崩さない父が、今頃、会社でどんな顔をしているのだろうと想像してみたが、怒った顔など見た事無いので出来なかった。
父との電話を終え私は再びキッチンに戻った。佐奈サンに様子を聞くと、まだあの二人は帰らないで居座っているようだ。
そして時々、最初に出したティーカップのセットが、罵声と共に母の従姉妹側の手によって叩き付けられ割られているというのを聞いた。
「ありがとう佐奈サン。お父さんには直接伝えたわ。直ぐに戻って来てくれるって」
そう言うと佐奈サンは明らかにホッとしたようだ。でも次の瞬間には再び顔を引き締め直した。
「お嬢様、お嬢様はお出にならない方が宜しいと思います。あの者どもは何をしでかすか分かりません」
佐奈サンの言う事は尤もだと思う。私もウンと頷き返したが、私には私の役目がある。
「ありがとう佐奈サン。でも、お父さんが戻るまでお母さん一人で対応してもらうのはちょっと厳しいかも。相手がしたたかであればある程、ね。あっちも親子できているのならば、ここは私も行ってくるわ。大丈夫よ、心配しないで。会社でもクレーム対応はお手の物なの。だから佐奈サンは、ここに居て、状況を見て危険そうなら警察に電話を」
心配そうな顔で私を見ている佐奈サンを安心させるように言葉を並べる。恐らくどんなに言葉を並べた所で、芯から佐奈サンの不安は去らないはずだ。でも佐奈サンは頷いてくれた。
「お嬢様・・・。はい」
「瑠璃。私も行こう」
すかさず蓮も一緒に行くと言ってくれたが私は首を振った。
「いいえ、蓮。あなたこそ姿を見せない方がいいわ。これは身内で処理しなければならない問題だもの。相手の真意もまだ分からないし、今は貴方を巻き込む訳にはいかないわ」
「わかった。でも、無理はするな。私は扉のすぐ外に居るから、何かあったら直ぐに呼べ、いいな」
眉を寄せ険しい表情で蓮は私を心配してくれている。そんな蓮に、力強く頷いて笑顔を向ける。
「ありがとう、心強いわ。じゃ、お母さんの応援に行ってくるわね」
蓮と佐奈サンに後を託して、私は応接間へと急いだ。




