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意識と無意識の境界線 〜 Aktuala mondo  作者: 神子島
第二章
11/43

11

 翌日、朝早くに蓮がやってきた。丁度、出勤して来た佐奈(さな)サンが蓮を案内してくれたようだ。


 「おはよう瑠璃。お招きありがとう」


 「おやよう蓮。いらっしゃい。本当に朝食から食べるつもりなのね」


 朝の早い時間なのに蓮の服装や髪に乱れた所はひとつもなく、爽やかな笑顔で嬉しそうにしている。そんな彼の期待が嬉しくもあるが、少しばかり私には面映(おもはゆ)い。きっと微妙な顔をしているかも、とうまくコントロールできない表情でそう思う。


 「当たり前だ。瑠璃が私の為に作ってくれるというのに、何を置いても優先されるべきことだよ」


 このとおり蓮は至極当然と全く遠慮するつもりもないらしい。今更遠慮されても困るのだけれど。

 私たちがしばらく玄関で立ち話をしていたためか、母が玄関までやってきた。


 「おはよう蓮君。瑠璃、玄関での立ち話はそのくらいにして早く蓮君をご案内なさい。折角来てもらったのに冷めてしまうわよ」



 案内するつもりで蓮の持っている荷物を受け取ろうと手を伸ばしたが持たせてくれなかった。それよりも、と荷物を受け取ろうとした手をそのまま握られ、私は蓮と手を繋いだまま家族用のダイニングルームへと案内することになった。母も佐奈さんもいるのに蓮は全くペースを乱す事はないようだ。蓮が堂々としているため、拒否するのはかえって違う気がしてお望みのままにと手を握り返した。


 「ここに座って。朝はいつも和食なの。いいかしら?」


 「嬉しいよ。楽しみだ」


 我が家の朝の献立は父が朝はご飯でないと力が入らないというので、いつもご飯にお味噌汁、自家製のお漬け物と、主菜は大体焼き魚である。まぁ・・・至ってシンプルな献立である。


 蓮には少々少なめかなと思うが、ひとまずこれで様子見だ。ご飯だけは沢山炊いてあるし。


 佐用(さよ)サンが蓮と私の分のご飯をよそって持って来てくれた。


 「ありがとう佐用サン」


 差し出されたお盆から蓮用の大きめなお茶碗を取り蓮の前に置く。ちょっと小振りなのが私用だ。


 「これ全部瑠璃が作ったの?」


 土鍋で炊いたほかほかのご飯に、今だにジュージューと音を立て食欲をそそる薫りを放つ焼き魚、若芽とお豆腐のシンプルなお味噌汁に浅葱を散らし、キャベツと人参の彩りの綺麗なお漬け物など、次々と並べられるお皿を目で追っている蓮から質問をされる。


 「ええ。佐用サンと佐奈サンは通いで来てもらっているし、特別に大変じゃなければ家族用の料理は私がするのよ」


 「そうか。お弁当もおいしかったし、楽しみだな」


 何だか気恥ずかしい。ここで、エヘ、とか、アハ、なんて(おど)けられれば良かったのだが、どうも最近、そういった調子がおかしい。私はニコリと蓮に笑顔を向けるしかできない。


 私と蓮が話をしていると、母が朝食の支度を終えた佐用サンと佐奈サンに声を掛けた。


 「さぁ、佐用サンも佐奈サンも座って。みんなで頂きましょう」


 「全員で朝食をとられるんですか、賑やかで良いですね」


 我が家は蓮の家のように大きな家ではなく、そもそも父と母そして私の3人が基本で、毎日、朝から通ってくれている佐奈サンと佐用サンがいてくれなければきっと静かな朝食になってしまう。


 「二人は家族も同然なの。私の生まれた頃からうちに来ていただいているんです。ね、佐用サン、佐奈サン」


 「はい、そうですよ。お嬢様がお生まれになった時、縁あってこちらに雇っていただきました。こうして長らくお務めができて幸いでございます」


 「あのぉ・・・もうそろそろ、お嬢様って言うの止めて下さいな、大分、違和感を感じるの」


 家族以外の前でそう呼ばれるのには、かなり抵抗がある。ちらりと蓮を見れば面白そうに私を見ていた。


 「何をおっしゃいますか。私どもにとっては、いつまでもお嬢様です」


 「ご結婚なさったら考え直してもよろしゅうございますよ」


 赤ん坊の頃から私を知っている二人にとっては、いつまでもこの家の娘であるという意味でお嬢様と言う言葉を使うのだろうと思うが、流石に30歳近くなった今となっては少々恥ずかしくなってきた。家の歴史こそ、そこそこ古いかもしれないけれど一般的に名の知れている様な大層な家なわけではなく、幼い頃に同級生の前でそう呼ばれ「お嬢様だー」とからかわれるようになってからは、なお一層抵抗を感じてきた。


 何度となくその呼び方を止めて欲しいと言っているのだけれど、佐用サンも佐奈サンもなかなか止めてくれようとしない。父の職業柄、父の娘という意味で、お嬢様という言葉を使われる場合はまだいいのだけれど、よほどの特別な環境の人にしか使われない言葉だということが分かってからは、名前で呼んで欲しいとお願いし続けているのだがこの調子だと、まだまだ名前呼びは叶わないのだろう・・・もうしばらくは、我慢するしか無い。


 「二人にはね、本当に助かっているのよ。料理はこの子が趣味でやってくれるからいいんだけど、お掃除はね流石に人海戦術しかないから」


 しみじみと語る母にとっては、二人の存在は無くてはならないのである。

 佐用サンと佐奈サンがいてくれなければ、我が家は草ぼうぼうの蜘蛛の巣だらけになっていたかもしれない。母は専業主婦だが一人で毎日掃除するには流石に手に余るのだ。そう、この前片付けた蔵のような状態になってしまう危険性が非常に高い。


 「ところで、義父上(ちちうえ)は?」


 「もうすぐ起きて来ると思うわ。先に食べちゃいましょうよ」


 「そうはいかないだろう」


 ちょうどそんな話をしていた時に、父が「ネクタイが上手く結べない」と言いながら入って来た。私の知る限りでは、父が自分でネクタイを結んでいるのを見た事が無い。ほぼ毎日、母がネクタイを結んでいるのを見て来た。我が家の毎朝の恒例行事とも言える。


 「はいはい。仕方の無い人ね。・・・さ、できました」


 最後にネクタイの結び目をポンと軽く叩き、母が完了したことを告げる。これも毎朝見る光景だ。そして父はようやく朝ご飯を食べはじめるのだ。


 だが、父は本当にネクタイを結べないのだろうか?


 最近、そう思うようになって来た。これはある種の母への何かのアピールじゃないかと。注意して見るようになってから気づいたが、母がポンとネクタイの結び目を叩く時まで父は母の顔をじっと見つめている。母はそれに気づいていない様子で実に手際良くネクタイを結んでいるのだが、きっと新婚の頃からだとしたら・・・。うーむ。新婚の頃にはきっと今程スピーディに結ぶ事はできずに、齷齪(あくせく)しながら一生懸命に取り組んでいただろう。きっと、父は間近で母を見つめる機会をわざわざ作っていたのではないだろうか・・・。


 自分の両親でなかったらきっと微笑ましい光景として心象に描けるかもしれないのだけれど、こういうシチュエーションの場合、男側の下心は全く抜きにして考えられる事ではないからして、実に複雑である。


 もし出張に行った際、本当にネクタイが結べなかったら、その場合、誰に結んでもらっているのだろうか、などと余計な事を詮索する事になる。父だって立場上、出張やら付き合いやら、色々あるだろうし・・・。


 ・・・そういえば、仕事関係の話は聞いた事はあるが、付き合い云々については家庭の中では殆ど聞いた事が無い。母が尋ねないのでそういうものだと思っていたのだけれど、きっと尋ねれば答えてくれるかもしれないけれど、恐らく、父は意図して母の気持ちを乱す様なきっかけを家庭内に持ち込まないだけじゃないだろうかと、母にも悟られないようにネクタイ同様、日々頑張っているんじゃないだろうかと思うようになった。まぁ、私の居ない時に必要最低限の人間関係は話をしているのかもしれないのだけれど。


 それに・・・毎日、送迎してもらうのも、自分の潔白を証明するため、証人をしっかりと作っておくためなのか、とも。


 「うーむ、確信犯かも」


 「何が?」


 すっかり自分の考えに浸っていて蓮がいた事を失念していた。独り言を言ってしまったようで蓮の顔がひょっこりと目の前に現れて少々驚いた。大分免疫はついたかもしれないが、整い過ぎている顔は心の準備が必要だ。・・・怖いから。


 「あ、ううん何でも無いの。お父さん、今日から蓮が」


 慌てて取り繕いの笑顔を見せ、すぐに父に話をふった。


 「ああ、分かってる。蓮君、遠慮はなしだ。こちらはお礼のつもりなのだからな。思う存分堪能すれば良い」


 「ありがとうございます。私の希望を叶えて下さって」


 父は手を振り振り、首を振り振りこれ以上のお礼の言葉は要らないと言っている。


 「それよりも三食おやつ夜食つきならば、仕事は持って来たのだろうから、私の書斎を使うと良い。特に秘密にする様なものはないから好きなようにしてくれて構わんよ。それこそ自宅と思って寛いでくれ」


 「ありがとうございます。では遠慮なく使わせていただきます」


 蓮の言葉に機嫌良く頷くと「いただきます」と父の一声で朝食が始まった。





 朝食が済むと父は迎えの車に乗って会社へと向かった。出かける前に、今日も母にしっかり帰宅時間を伝えていたのを聞き逃さなかった。きっとこれも、父の努力の一環なのだろう。


 父の乗った車が門を出て行くのを見送り、蓮を書斎へと案内するためにダイニングへ戻った。


 「蓮、書斎へ案内するわ」


 そう言うとすぐさま蓮が手を出して来た。握って案内しろということだろう。ある意味もう条件反射というか、蓮のしつこさの賜物というか、違和感無く蓮の手を握り廊下を歩いて行った。


 「ここよ、どうぞ。ちょっと古いけど、気にしないでね」


 それ程広いとは言えない父の書斎は、仕事用の机と椅子、そして古めかしいソファセットだけだ。普通なら本棚があるけれどそれは隣の部屋にある。というのも、読書家でもある父の蔵書は多く、わざわざ専用の書庫を増築しなければならなかった。でなければ本の重みでここの床が抜けていた事だろう。


 「この机を使って。電源はここね。ネットワーク云々は・・」


 「それは大丈夫。自分の回線があるから」


 「うん。じゃ、もう大丈夫ね、お昼が出来たらまた呼びにくるわ、ごゆっくり」


 方向転換をして書斎を出ようとしたその時、なぜか羽交い締めにされた。この新しい展開に私は瞬間、出遅れてしまった。


 「瑠璃は何をして過ごすんだ?」


 羽交い締めにされた状態で、わざわざ蓮は私の耳元で囁くように予定を尋ねる。


 「えええ? この体勢で聞くの? えっと、午前中はね、今日一日のご飯の下ごしらえをするのよ。午後は、最近箏の練習をさぼっていたら、練習をしようと思っているの」


 蔵の片付けを言い訳に最近は全く箏に触れていなくて、罪悪感が沸き起こってきていた。部屋に置いてある箏が、どういうわけか日々存在感を増している気がしてならない。


 「そうか。それはどこで?」


 言いながら蓮の片方の腕が私のお腹にまわる。右手はまだ羽交い締めのままだ。何をされるのか分からず、思わずお腹に力を入れて身構える。


 「自分の部屋でよ」


 「ココでは出来ないか?」


 そしてまるでダンスでターンをするように、クルリと回される。素早く手を持ち替え私の右手と蓮の左手が繋がり、回された反動で仰け反ってしまった私の体を蓮の右手が私の腰を支えている。斬新な展開に私の心臓はバクバクだ。


 「ここで? うーん、広さも十分あるし出来ない事は無いけど、意外と音が(うるさ)いわよ。うまく出来ない所は何回も同じところを繰り返すし、特に今練習している曲はテンポなんてないから、聞いているだけなら雑音にしかならないと思うわ。それに集中しないと弾けないし」


 仰け反りむき出しになっている喉元をペロリと舐められた。やーめーてー! 足がふらついているのにー!


 「そうか。瑠璃の練習の邪魔になってしまうのもいけないな。ならば、時々、そっちに行っても良いか?」


 強制的に体勢を整えられ向かう姿勢になり左の頬に軽くキスをされる。柔らかいその感触に思わず息を飲む。


 「練習を見に来るの? 恥ずかしいな。でも、蓮も気分転換が必要よね。いいわよ、私も時々ここに様子を見にくるわ」


 「ああ、そうしてくれ。同じ屋根の下にいるのに顔が見れないのは寂しいからな」


 言いながら蓮は今度は私の右頬にキスをする。思わず頬が緩む。


 「分かったわ。時々おやつとお茶を差し入れします」


 「ん、頼む」


 最後はしっかりと口づけをされ、いつも通りでようやく安心した。


 「瑠璃はもう少し腰回りに肉がついてもいいな」


 蓮の(すね)を思い切り蹴りやり書斎を後にした。






 キッチンへ戻り、お昼までの間に今日一日分の食材を仕込みにかかる。自分の得意料理をピックアップし、飽きないように組み合わせてメニューを決めた。


 佐奈(さな)サンが食材を買い足してくれていたお陰で、問題なく下準備ができる。


 今晩のメニューで下ごしらえが必要なものをノートに書き出し、時間配分を考える。父の帰宅時間も聞いていたのでそれに合わせるくらいでいいかもしれないなと思いながら、材料をあれこれと選び出した。


 そして今日のお昼の準備に取りかかる。

 立派なブロッコリーがあったので、茹でる為にお水をはった鍋を火にかける。その間にブロッコリーを適当にザクザクと切る。今日はひよこ豆も入れようと思い立ち缶詰から水切りをする。


 「おほほ。お嬢様は、まるでお嫁様のようですね」


 お手伝いをしてくれながら佐用(さよ)サンが話しかけて来た。危うく笊に出したひよこ豆がこぼれそうになる。


 「お、お嫁様って、まだ、そんな話にはなってません。みんな、気が早すぎます」


 喋りながらも手はしっかりと動かす。お湯が沸いたのを確認し塩を少し入れブロッコリーを投入する。細かく切ったのでこれで3〜4分でゆであがるだろう。


 「喜ばしい事ですから。もちろん私どももです。せ・・コホ・・蓮様はお優しく、頼りがいのあるお方のようですし、ぜひとも婿殿にお考えになってもよろしうございますよ」


 やはりもうすぐ30歳というのは、こうも結婚結婚と言われるのだろうかと思い知った気がした。親の期待が重いのよ、と他の会社へ行った友人が言っていたのを思い出す。


 「・・・考えておきます。今の所、そういう意味で気に入ってくれる人って蓮だけだもの」


 自慢ではないけれどこの年になるまで彼氏なんて居たためしがない。比較しようにもできないのだ。


 「まぁお嬢様。そのような言い方は、せ、コホン、蓮様にも失礼でございましょう? ご存じないと思いますが、これまで数々のお見合い話が持ち込まれていたのですよ」


 初めて聞く話に思わずパサータを全部琺瑯のバットに出してしまった。本当は半分で良かったのに・・・・。小さなバットだったら溢れていたかもしれない。


 「えええええええええ? 何それ! 全然知りませんでした」


 「はい。当然です。旦那様と奥様が全てお断りになっていたのです」


 「ど、どうして父と母は断ったの?」


 話を続けながら、気を取り直して入れ過ぎたパサータを別のボールに移し、バットに残したパサータにワインビネガーと塩、ブラックペッパーを入れかき混ぜる。


 「まぁ言うなれば、お眼鏡にかなわなかった、と申しますか、・・・難しゅうございますね」


 次にベシャメルソースを作る為にフライパンを温めバターを入れる。そして手際良く小麦粉をふるい入れ練りつつ炒めていく。話しながらの料理はいつもの事で、さっきのショッキングな事から直ぐに気を取り直すことができた。頃合いを見てミルクを少しずつ入れながら玉にならないように伸ばして行く。


 「ひとりっこだから条件が厳しかったのかしら?」


 スープストックを少しずつ入れ、塩こしょう、月桂樹の葉を割り入れ焦げないように注意しながら少し煮込む。途中、2種類のチーズをおろしいれる。やはりおろしたてのチーズの香りはたまらない。少しスプーンにとり味を見ていつもの味になっているのを確認し火を止めた。


 「それもございますでしょうね。でも、お嬢様のお気持ちも大切になさりたかったのでは無いでしょうか。ほほほ」


 茹で上がったブロッコリーを湯きりし、再び鍋に戻す。そこにひよこ豆も放り込み、荒く潰していく。そしてスープストックで煮込みながら、ほんの少しだけ塩と胡椒で味付けをする。これでフィリングができた。まだまだ熱いので触れられる位の温度に下がるまで放置する。


 「父も母も気に入ってくれているようには思えるけれど、蓮は条件をクリアしたということかしら?」


 早く熱が冷めるように木べらで鍋をかき混ぜながら、最近、蓮に対して優しくなった母の顔を思い浮かべてみた。最初に挨拶をした時の険のある表情は最近は見せていないなと。

 予熱のためオーブンをあたため始める。


 「然様でございますね。私が申し上げるのも()()がましいのですが、お嬢様の旦那様としては申し分ない、いいえ、これ以上の方はいらっしゃらないと思います」


 胸を張って答える佐用サンに、どうしてこうも蓮を()すのか疑問に思った。


 「ねぇ、佐用サン。佐用サンは蓮の事、知っていたの?」


 「あ、いいえ。まぁ、神威(しんい)のお名前は常識として存じておりましたが、蓮様個人のことは特に。ただ、旦那様と奥様のご様子を窺っておりますと自然とそう思えるのです」


 「そうかしら?」


 ブロッコリーの熱が程よくとれたのでカネロニを取り出し、中に詰め、パサータの入っているバットに並べて沈めていく。


 「そうです。それに、お嬢様もまんざらではございませんでしょ? 今朝も、蓮様が美味しいとおっしゃる度に、嬉しそうに頬を緩めていらっしゃったではありませんか」


 「そ、それは、褒められたら誰でもそうなります」


 褒められ慣れていない立場としては、ちょっとの事でもつい過剰反応してしまうのだ。これでも頑張ってポーカーフェイスを気取ってみたのだけれど、佐用サンにはバレていたのね。


 「ふふふ。本当に嬉しそうに微笑まれていましたので、つい、もうご夫婦とおっしゃっても問題ないかと錯覚するほどでございましたよ」


 夫婦という言葉に過剰反応する心臓が憎い。思わずカネロニを床に落とし割ってしまった。激しく打ち付ける心臓に止まってと思う。このままこのドクンドクンが止まらないと私は身が持たない。それを抑える為にも、気持ちを強く持つ為にもつい反抗的な事を言ってしまう。


 「わ、私としては、もう少し考える時間が欲しいの。だってついこの間まで全く知らない人だったのよ」


 「然様でございますね。ただ流されるより、都度、立ち止まって考える事の出来るお嬢様は、大したものだと思います」


 恥ずかしくてカネロニを詰める作業に没頭している振りをしてみせる。でも、きっと佐用さんにはお見通しなんだろうなと思いながら。


 「神威の名前を出されたら、殆どのお方は二つ返事をなさると思いますよ。ですが、奥様もそうですが、そういった事に惑わされずにいらっしゃるのは本当に素晴らしい事だと思います」


 「佐用サン・・・いえ、それこそ勘違いです。私は単純に石橋を叩いているだけです。それに大丈夫だと確認した後でも渡らない事も多いんです」


 腹を括る事を覚えるまでは、石橋を叩いて大丈夫だと思っても渡らない事が多かった。基本的に恐がりなのだ。それは十分自覚している。


 「大いに悩まれて結構ですわ。今しか悩む時間はございませんから。それに、それ程までに蓮様を大事にされたいという気持ちの表れでもありましょう。ほほほ」


 私は卑怯にも蓮の気持ちを確信した上で仮定法で聞いてみる。


 「じゃぁ、待ってもらっている間に、蓮が浮気をしたら?」


 「ありません! それは断じてありません!」


 もの凄い剣幕で佐用サンは即答した。その様子に一瞬手を止めてしまったが、気持ちを落ち着ける為にも作業を続ける。

 カネロニがバットに一杯になったので、さっき作ったベシャメルソースを上からそっと流し入れすっかり見えなくなるように表面をならしながら、チラリと佐用サンに視線を送る。


 「言い切れるの?」


 「はい、言い切れます。お二人は出会うべくして出会われたのです。蓮様も随分と長い間、伴侶を探し求めていらっしゃったと伺っております。ようやく出会えた方を裏切る様な事はなさいません」


 佐用(さよ)サンはしっかりと私の目を見て大きく頷いてくれた。私は蓮の浮気を絶対に無いと言い切ってくれた事に安心を覚え気が大きくなり、ついまた余計な事を口走る。


 「でも、男の人って、女の人と違うっていうじゃない? 現に会社でも友人達の話でも、色々と、その、好ましくない話が聞こえてくるわ」


 聞きたくない話ほど耳に入って来る事もある。特に、更衣室での明け透けな女性同士の会話には思わず「それ本当の話なの?」と詰め寄りたくなるような、過激な恋愛の話もある。もし、自分がその当事者だったら絶対に嫌だなぁとは思うが、どこか遠い存在や物語の中のお話くらいにしか感じていなかった。だが、蓮とお付き合いを始めてから、嫌でもその事を自分の事に置き換えてしまう時がある。現実問題としてきっと認識してしまったのだ。それが、とても怖いと思う事もある。


 「もし、仮にですよ、仮に、蓮様が他の女性に触れられたのならば、その時は、運命の人ではなかったと言う迄です。それくらいの小さな器の人間だったんだとお思いなさいませ。下半身でしか物を考えられない下劣な人だと」


 仮にという前置きに割には、かなり容赦のない物言いの佐用サンにちょっと戸惑う。いつも穏やかな物言いの佐用サンでもこういう言い方をする事もあるんだなと、長い付き合いの中で初めて知った。


 「さ、佐用サン? 言葉が・・。その・・」


 「これは失礼いたしました。コホン。浮気、不倫、色々言葉はございますが、要は本能に引きずられ、人としての理性を失い、前後の見境の無く、先々まで事の次第を見通せなかった、危機管理の出来ない、下衆野郎にお嬢様をお任せする訳には参りません」


 「佐用サン、全然言葉が治ってないのだけれど・・・むしろ・・・」


 「お嬢様! お嬢様のお味方は多ございます。お気をしっかり保たれませ。私どもはずっとお嬢様のおそばにおりますから」


 佐用サンの握っているローズマリーが程よく握りつぶされて独特の良い香りが広がる。本来ならば大量のローズマリーをザクザクと刻んで匂いを出すのだけれど、その作業は必要ないかもしれない。


 「は、はい。ありがとうございます。でも、蓮は大丈夫ですよ、きっと」


 オーブンの余熱が終わった音がし、私はミトンをつけてバットを天板の上に乗せ、オーブンの中に入れた。


 「男は皆、(けだもの)でございます」


 佐用サンは最後にキッパリと言い捨てた。


 「聞き捨てならん。私は誓って他の女になど触れはしない」


 いつの間にキッチンへ来ていたのか、蓮が声を荒げて否と言っている。でもその顔はとても悲しそうに見えた。


 「蓮!」


 「瑠璃。本当だ、本当に・・・私は・・・」


 珍しく蓮の顔が今にも泣きそうに見える。この表情で涙が浮かんでいない方がおかしいかもしれない。慌てて蓮の頬を両手で包み込み、謝罪の言葉を口にする。


 「わかってるわ。ごめんなさい。私が、もし蓮が浮気をしたらなんて、あり得ない事をわざわざ話題にしたの。佐用サンは悪くないの。むしろ、佐用サンは、あなたがそんな事する事は絶対に無いって言ってくれてたの」


 「そうなのか?」


 「そうよ。それをわざわざ私がかき混ぜてしまったの。本当は分かってる。まだ短い付き合いだけれど蓮の誠実さは誰よりも分かっているつもり。本当にごめんなさい、また私の不用意な言葉で蓮を傷つけてしまって」


 何をやってるんだろう私、蓮には優しくしてもらうばかりで、自分は蓮の事を傷つけてばかりいる気がする。


 「瑠璃。あんまり言ってくれるな。義父上(ちちうえ)義母上(ははうえ)に約束した事を反故にしてしまいそうになる。私は誠実でありたい。特に瑠璃に対しては」


 蓮は真っ直ぐに私を見つめて訴えかけて来る。私は蓮に対して、自分のとった言動をとても恥ずかしく思った。相手の事をどうこう言う前に、自分の軽はずみな言葉でこうも簡単に蓮を傷つけてしまうなんて!


 「うん。ごめん。嫌な思いをさせてしまってゴメンナサイ。言い訳にしかならないんだけど、私を好きになってくれる人に初めて出会って、不安と嬉しいのとがごちゃまぜで浮かれ過ぎてるの」


 「嬉しい? 本当に?」


 少しだけ蓮の表情が柔らかくなった気がした。


 「ええ、嬉しいの。でも同時に不安になるの。だって、時々痛い発言をしていても、どこからどう見ても貴方は素敵なんだもの。もし、何かが起こってしまったら、私、きっと、プライドとか無くなって、蓮の足下に縋ってしまうかもしれないって思う事もあるの」


 うすうす自分の中で燻り始めていたモノをようやく認識した。

 蓮は優しい。優しくて私の事をいつも一番に考えてくれて、なのに私はそんな蓮を疑う様な言動をするのかーーー。


 「私が瑠璃を不安にさせているのか?」


 「違うわ。私が勝手に不安になっているだけ。あなたの責任じゃないわ」


 私たちが騒いでいるのを聞きつけたのか母が佐奈(さな)サンと一緒に入って来た。


 「おほほほ。若いっていいわね。ねぇ、佐用(さよ)サン、佐奈(さな)サン」


 「はい、奥様」


 「お、おかあさん!」


 「瑠璃、感動的な場面で水を差すようで申し訳ないのだけれど、蓮君の顔、ミトンをつけたままでは絵にならなくてよ」


 言われてみれば、どんなに慌て過ぎていたのかミトンをつけたままだった。ワタワタとミトンを外してみた所で、再び蓮の頬を包む勇気はなかった。代わりにそっと蓮の手を握った。


 「その不安というのは貴女が幸せだと感じているからよ。恋する者にとっては幸せと不安は表裏一体。でも、何でも軽はずみに口に出して良いものではないわ。蓮君、瑠璃の心を掴んだようね。おめでとう。ーーーでもね、これだけは知っていて。これから瑠璃は幸せと不安をずっと持ち続けることになるの。バランスが取れている間はいいけれど、不安が増してしまえばコントロールできなくなるかもしれない。その不安は貴方にしか解消できなくてよ。あなたの責任はとても大きいの」


 母はこの私たちの状況を楽しむかのように軽やかに言葉にしているが、その目は決して笑ってはいない。


 「ーーー義母上(ははうえ)。はい、瑠璃の心が欲しいと望んだのは私です。責任は私にあります。瑠璃、不安なったら直ぐに私を呼べ。仕事は私がいなくても回る。だが、瑠璃は私がいなければ壊れてしまう。それは決して私の望むところではないし、瑠璃が笑顔でいてくれなければ私は悲しいし、自分を許せない」


 ああ、またーーー。蓮は本当にぶれない。何があっても私を一番と言ってくれる。


 「はい。でも、なるべく邪魔にならないように気をつける・・・」


 「だから! それが駄目だと言ってる。不安に感じた事は直ぐに私に、直接言うのだ。人伝(ひとづて)になんか聞きたくない。素直に私を頼ってくれ瑠璃、お願いだ。私が瑠璃の側にいるのはその為だ」


 私の両手を握り指先に口づけをしながら、真っ直ぐに蓮は私を見つめている。だが、私は他の事に気を取られてしまった。

 蓮の最後の言葉に聞き覚えがあるように感じる・・・。


 「蓮・・・。その言葉、前にも・・・」


 何だろう・・・。どこかで、聞いた事がある様な・・・。

 いつだったか、どこでだったかと自分の中で思案に沈んでいれば、蓮と佐用サン達の心配そうな声が聞こえて来た。


 「瑠璃?」


 「お嬢様?」


 「あ、ううん、何でも無いわ。ごめんなさい、ちょっと最近、色々と経験した事無い事ばかりで、頭が混乱しちゃう時があるの」


 急展開しはじめた自分の人生に戸惑っているのは確かだ。まさか、こんなにも一途に私の事を想ってくれる人が現れるとは、つい最近まで考えた事も無かった。蓮の想いをどう受け止めていいのか戸惑いつつも、見切り発車のような形で付き合い始め、ようやく心と頭が並びつつある今、余計な事ばかり考えて不安にかられる時もあるが、めったに夢は見ないけれど、いつも起きた時に感じる満たされた感覚を、こうして起きている間に感じられる事ができるようになるなんて思ってもみなかった。


 心配そうにこちらを見ている蓮に笑顔で返し、“分かった、大丈夫”という意味も込めて大きく頷いてみせれば、蓮の目元が漸く(ゆる)んだのを見た。

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