7-13:崩れゆく”世界”【Ⅱ】 ●
どこまでも白い空間に、アウニールはいた。
浮遊しているような感覚。
…ここ、は…
分からない。
だけど、どうしてか漠然とした不安があった。
自分は、誰だったのだろう。
そんな思考から始まるも、答えは出ない。
すると、声が聞こえた。
――イヴ。
聞き覚えがある、だけど、
……誰…?
ひどく、雑音の混じった声。
――泣イテ、イルノカ…
言われ、気づく。
自分の頬を一筋の涙が伝っていることを。
どうして、と思うも、答えはでない。
――怖イ、ノカ。
振り向くと、そこには球状にまとまった黒い霧が浮かんでいた。
大きさは、アウニールと同じくらい。
その中心には、赤い光がある。
――イヴ。
光が語りかけてくる。
それに対して、アウニールは言い知れない不安を覚えた。
不気味な温かみをもつそれは、自分のことを“イヴ”と呼ぶ。
……違う、私は…。
アウニール、と言おうとして、数歩、後ずさる。
すると、背後の何かにぶつかった。
振り返ると、
「…っ!」
恐怖した。
焼死体とでもいうべきものが、そこには立っていた。
全身焼けただれ、指は炭化して崩れ、顔があった部分も原型をとどめていない。
目があるはずの部分は空洞。
口には皮膚ではなく、歯だけが見える。
骸骨に、赤黒い肉がついているだけの存在だった。
――コレガ、本来ノ、ワタシ…。
また別の声がした。
いや、別の声ではない。
……私の、声…?
すると、黒い霧がスッと動く。
焼死体の隣まで漂い、寄るとそれを包むように広がっていく。
――ヨウヤク…会エタ…。オ前、ニ…
それは、まるで抱きしめるかのようだった。
愛おしい存在を、手放すまいと。
すると、焼死体の視線が動いた気がした。
顔にある2つの空洞の奥には、そこ知れない何かがあるようで、ひどく、恐ろしかった。
――イヴ…モウ、終ワラセル。全テ、全テ…
黒い霧がそう言った瞬間、アウニールの思考に何かが入り込んできた。
……なに、これ…。
知らない人々がいる。
手術用の白衣に身を包んだ男たちが。
“脳はまだ死んでいないな”
周囲には見たことのない巨大な機材は浮かんでいる。
……いや…。
男の1人がメスを持ち、寝台にあるアウニールの身体に近づいて来る。
“これより試作ナノマシンver.456の投与実験を開始する”
逃げだそうとする。
だが、身体が動かない。
メスが、ゆっくりと、胸部中央に差し込まれる。
激痛が奔り、反射的に身体が跳ね上がる。
“反射を確認。続行”
男たちは手を止めない。
アウニールの身体を、まるで実験動物を扱うかのように裂いていく。
叫ぼうとしても、声が出ない。
徐々に視界が暗くなっていく。
……いやだ…、やめて…!
暗闇に閉ざされても、激痛は続く。
何度も、何度も。
数えきれないほどの苦痛を受けてなお、続く。
――ソレガ、アノ世界デノ、オ前ノ記憶…
不死のナノマシン。
それは、本来生まれるはずのないもの。
前の世界で生み出され、持ちこまれた未知の技術。
空間を越え、時間を越え、未来から過去にもたらされることで初めて形づくられる奇跡にして、最悪の産物。
――人ノ夢…老イナイ身体、死ヌコトノナイ、身体。
不老不死。
人の夢であり、歪んだ欲。
生存本能がたどり着く、究極。
機械に追い詰められた者達が成そうとした、終末。
しかし、それは未来では形を持たず、この過去の世界へと引き継がれ、実体を得た。
――イヴ、選バレタンダ。俺タチハ…。
黒い霧が語りかけてくる。
――全テヲ、終ワラセル権利ガ、アル。
繰り返される気の遠くなるような苦痛の中で、アウニールの意識は朦朧としつつあった。
思考が保てなくなっていく。
その中にあって、ふと1人の名を思いだした。
記憶の片隅に、ある少年の顔と共に。
「ウィ、ル…、助け、て…」
覚えている。
彼は、いつも助けてくれた。
そばにいてくれた。
忘れることなく、ずっと。
――ウィル=シュタルク、ニ会イタイ、ノカ…?
黒い霧が問う。
アウニールは、迷いなく頷いた。
すると、ふと身体を蝕んでいた痛みが消え、動きに自由が戻る。
その場に、膝をつき、荒く呼吸をする中で、視線をあげる。
「ウィル…」
いつ間にそこにいたのか、横たわるウィルの存在があった。
「ウィル…、ウィルぅ…!」
足をもつれさせながらも、一番会いたかった者のもとへと向かう。
短くも、遠くなるような時間をかけて、その傍らにたどり着く。
だが、ウィルの身体に触れた瞬間、その身体がひび割れていく。
「いや…だめ…!」
ひび割れた個所から、ウィルの身体は砂のように崩れていく。
「まって…!」
アウニールは、崩れていくウィルを必死に繋ぎとめようとした。
砂をかき集め続ける。
だが、ウィルであった砂は、崩れた部分から空間に溶けるように消失していく。
「1人に、しないで…、ウィルぅっ!」
そして――、やがて全て崩れてなくなってしまった。
「う…うぅ…」
その場にへたり込み、手の中に残ったわずかな砂粒を見つめ。
だが、それも数秒の後になくなってしまう。
――死ヌノハ、怖イ、デショウ…?
怖い。
どうしようもなく、怖い。
――1人ハ、怖イダロウ…。
怖い。
何にも代えがたいくらい、怖い。
――ズット、ズット…1人…。
いやだ。
――皆ガ、死ナナイ世界ガアレバ…
――皆ガ、同ジヨウニ生キラレル世界がアレバ…
きっと、もう怖くない。
――ナラ、手伝ウ。
黒い霧が、ウィルが存在していた場所に漂ってくる。
そこから、1つの光が生まれた。
白い球状の光源。
その周囲には、虹色を帯びた細い光が幾本も取り巻いている。
見る者に温かさを感じさせる光だ。
「これ、は…」
まるで、ウィルが残してくれたかのような錯覚を覚えた。
――取レ。ソウスレバ、モウ何モ怖ガラナクテイイ…。
そう言って、黒い霧は溶けるように消えていった。
背後にいたはずの、焼死体もいつの間にか姿を消している。
その場には、虹色の光とアウニールだけが残された。
「……ぁ」
アウニールが、手をかざすと光の方から寄って来た。
温かいそれを、胸の前に寄せると、
――アウニール。
声が聞こえた。
望んでいた少年の声。
そして、笑顔が脳裏によぎる。
「ウィル…、ずっと、一緒に…」
アウニールは、温かい光を抱きしめる。
すると、光がアウニールの中へと取り込まれた。
安堵を得て、少女の意識は、穏やかな眠りへと向かっていった。
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巨大浮遊要塞“インフェリアル”は、この日、起動する。
“サーヴェイション”という頭脳を得て、その意志を現実へともたらす。
世界の滅び。
人類の歴史の終わり。
その始まりの瞬間は、静かに幕を開ける。