5-18:繋がれゆく”意思”【Ⅱ】 ●
軽く、本当に軽く相手の頬を打てるくらいの位置を狙って。
ユズカは避けるだろうと思った。
だが、
「っ…!」
平手は、ユズカの頬を打った。
ユズカは避けなかった。
軽い、とは言っても女くらいならよろめくどころではすまない勢いだ。
当然、ユズカの華奢な身体は弾かれたように倒れ、床に打ちつけられる。
しかし、彼女は声1つあげずその身を起こしていく。
「どうして…避けなかった…?」
問いに対して、ユズカは顔をあげる。
打たれた左頬がわずかに赤くなっているが、それよりも気になったことがある。
表情だ。
……どうしてだ?
ユズカの表情は険しかった。
だが、それは理不尽な一発に対する怒りではない。
そこに立ち、なにをされようと決して屈しないという意思を秘めた強い眼差し。
「打ちたければいくらでも打ちなさい。斬りたければ斬ればいい。殴りたければ殴ればいい。それでも、あなたを死に場所にいかせることは絶対にさせない」
エクスは、重ねる。
ライネの姿を。
愛した人が見せた、何者にも屈せず、不条理に抗おうとする意思の姿を。
誰もが、自暴自棄になる未来。
滅びしかない未来。
その世界に生まれてなお、ライネは抗っていた。
人間として、絶対的な”力”に立ち向かった。
「ファナクティも殺させない」
「どうして、あいつの肩を持つ…!」
静かに怒気を込めて。
「ファナクティは…、私を助けてくれた。お母さんが亡くなったあの日、私の元に訪ねてきた。そして、隠さず、詫びもせず、言ったわ。”お前の母親は私が討った”って。私だって、初めは信じなかった。でも、あいつは持っていたのよ、母さんが最期に着ていったマフラーを、ボロボロになったそれを私に見せたのよ?」
そして、
「殺してくれって、言ったのよ? たかが、14歳の女の子に、自分を殺せって言ったのよ?」
でも、
「そんなことできるわけないじゃない。そう言ったら、ファナクティは黙って、ずっと面倒を見てくれた。私が1人で自立できるまで」
「どういうことだ…」
「ファナクティは、”神”の意思を代行する運命から逃れられない。でも、本来それは全ての人間に、いえ、森羅万象に当てはまるもの。私達が違うのは、ただ知っているか、そうでないのかの違いだけなのよ」
全ては運命に従っている。
未来から来た者はそれを知っているだけ。
知っているだけで、変えることはできない。
時間とは、そうやって形作られている。
始まりと終わりは決まっているのだから。
「彼が手を下すのは、過去に来て、時間の干渉を免れた者達だけ。そしてお母さんが、その最期の1人だった。でも、その子供だった私は過去で生まれ、この世界の一部としてすでに存在を許された。だから排除の対象から外れたのよ」
「ファナクティの意思でない、と言いたいのか…!」
「あなただってそう思いたいはずでしょう!?」
ユズカが声をあげた。
「誰も、悪くない。悪いことなんてない。”神”とやらだって、正しいことをしてる!」
そうだ。
「本当に悪があるのなら、それは私達よ。歴史を歪めようとしている、私達の存在そのものだけよ。歪めて、狂ったなら、その先を見届けることもできない。無責任に放り出すしかない。だって―――」
ユズカは、目を伏せた。
「私達は、いずれ死ぬのよ? 永遠に世界を見守ることなんてできない。後から続く人達に託すしかない。世界を永遠に見続ける”神”の方がよっぽど正しいのよ」
「人が…、全てが滅びる未来が、正しいと認めろと…?」
「”神”様はそう言っている」
ユズカは下をうつむいたまま、顔をあげない。
「私は、あなたを父親だなんてこれっぽっちも思わないわ。数ヶ月前に、突然現れて、それで何がを分かっているつもりになってるのよ。あなたにとってライネ=ウィネーフィクスがいなかったのは、数ヶ月のことでも、私は10年以上もお母さんのいない時間を過ごしてきた」
うつむいたユズカの顔から何かが落ちる。
雫だ。
それは、金属の床に落ちる。
1つ、2つ…と。
そして、彼女は声をあげ、顔をあげた。
「お母さんは、あなたを信じ続けてた! 私が生まれてからあなたの話をずっと聞かされてきた! だから、私は決めたのよ。お母さんの信じたお父さんを信じるんだって…!」
その足が、進んでくる。
詰め寄るように。
すがるように。
「ようやく会えたと思ったのに…。お母さんとの約束を果たせたと思ったのに…。どうして、あなたはそう自分勝手なのよ…。勝手に死のうとするのよ…」
ユズカの拳が、エクスの胸を打つ。
だが、その勢いは弱く、触れるようなもの。
エクスは胸に重みがあるのを感じた。
見下ろせば、ライネと同じ緑色の髪がある。
ユズカが、泣き顔を隠すように身を寄せてきている。
「あなたは、お母さんのために命を賭けたんでしょう…? お母さんのために命を捨ててもいいと思ったんでしょう…?」
言葉が、見透かされた言葉が、エクスの感情を温めていく。
感情が無から有へと取り戻されていく。
「私だって、そうよ…。私は、お母さんが大好きだった。”神”様に、世界に嫌われたって、私はずっと、大好きだった。あなただってそうでしょう…?」
だって、と
「シュテルン・ヒルトの格納庫で戦ったとき、迷わずお母さんを選んでくれた。私は、それが嬉しかった。世界なんかよりも、お母さんの方が大切だって言ってくれて、すごく…嬉しかった」
エクスは、目を伏せ、思い出す。
ライネは、生きようとしていた。
大義名分を掲げたあらゆる”死”を嫌った。
生まれ変わるなどと言いつつも、自分のままにで、生き続けるありのままの”生”を望んだ。
”生きてりゃいいことあるからね~。きっとだよ”
「…そうだな」
生きる。
それがライネが自分に望み続けたことだった。
戦ってもいい。
ただ、死ぬな。
死ねば、全てが終わり。
今、ここに生きて、立って、世界を感じていることが大切なのだ。
……逃げていたのは、現実を見ていなかったのは俺の方だ。
戦って、戦い続けて、いずれ果てる。
先も考えず、ただ目の前の死に殉じようとしていた。
それは、間違いだ。
人は、続いていく先を常に見ていかなければならないのに。
「…お前の言う通りだ」
エクスは、ユズカを抱き寄せた。
背に両手を回し、包むように、すがるように。
エクスよりも一回り小さく華奢な身体が、隠し切れない嗚咽で小さく動く。
小さく、脆く、儚い花のような存在。
ユズカは、抵抗しない。
そうされることを望んでいたかのように、抱きしめ返してくる。
「待たせた。本当に…、すまなかった」
エクスの手が、確かな感情を持ってユズカの頭をそっと撫でた。
待ち望まれたそれを、受け入れる
壊すこと、戦うことでしか人に報えないと思い続けていた戦士の手。
それは、今、1人の温もりを持った人間の手となった。
生きて、未来をつくる覚悟を持って。
”手を触れてあげて。子供は、優しさをくれる人がそばにいてくれるだけで、とても喜ぶんだから”
愛した人の遺志が、時を越えて2人を結ぶ。
失われなければならなかったわけではない。
失われてしまった人でしかない。
それでも、生きていくのだ。
「お帰り…、お父さん」
託された自分達は、ここに、この世界にいるのだから。