あっくん
あっくんのママは、すごく悩んでいました。
最近、あっくんが他の子と全然違うように見えてきたからです。
あっくんが生まれたばかりのころ、ママは、それまでうれしいことがたくさんあったけど、パパとの結婚もうれしかったけど、そんなことがどこかに飛んでいってしまうくらいうれしかったのです。ママは、目に入れても痛くないくらいかわいいという言葉がはじめて分かったのでした。ママにとってあっくんは世界一なのです。
もちろん、それは今でも変わりません。
でも、あっくんの3回目のたんじょうびをお祝いして、半年くらいたったころからそれは始まったのです。あっくんは、時おり、じっと何かを見つめて、ママが何度呼んでも、答えないことがあるのです。それが十日に一回、三日に一回、と増えてきて、一日に一回は、そんな風になるのです。ママは、あっくんが変な病気にかかったのではないかと気が気でありません。
――さいしょは、こんな感じでした。
「あっくん。お買いものいこっかー」
ママがあっくんを呼びます。
あっくんは、リビングの「あっくんスペース」に大好きなおもちゃの車で遊んでいました。さいきんは、パトカーが大好きなようです。ママが「パトカー好き?」と聞くと、あっくんは「パトカー好き!」と元気に答えます。
でも、あっくんは、パトカーをじっと見つめています。
「どうしたの? あっくん」
ママは、パトカーがこわれたのかと思って、あっくんの隣から話しかけます。
「パトカー、こわしちゃった?」
あっくんは、まったくぜんぜん、答えません。
「あっくん?」
ママは、急に不安になり、あっくんの肩を抱き寄せました。すると、あっくんは、ふと気づいたように、ママのお腹に抱きついてきます。
「ママ―」
ああ、いつものあっくんが戻ってきました。ママはひと安心です。あとは、元気で、よく食べ、よく笑い、よく泣く、いつものあっくんでした――
*
こんなことが今では毎日1回あるのです。さすがに心配になったママは、パパに相談してみました。パパもママの話を聞いて、すごく心配しましたが、パパの前ではいつものあっくんなのです。
「いつも、どんなときにそうなるの?」
パパが聞きます。今日は、テレビを消してテーブルで話をしています。あっくんは、もうすでに夢の中にいます。すやすやと気持ちよさそうです。
「そうねえ、いつもは、あっくんが朝のテレビを見て、『あっくんスペース』で遊んでいるうちに、掃除とか洗濯とかするのよ。それで、一段落してあっくんのとこに行ったら、そうなってることが多いわ」
ママがコーヒーを啜ります。これも二人が話しあうときのスタイルです。
「ママが一緒にいるときにはならないの?」
「確かに、なったことないわ」
「それで、どうやったらあっくんは気づくの?」
「最近分かってきたんだけど、触ったり、抱っこしたりすれば、気がつくの」
「気がつかないことはないんだね?」
「ええ。……でも、毎日よ。こんなことが増えたりしたら心配だわ」
パパは、ママの心配のしすぎだと思いましたが、ママの心配を放っておくわけにはいきません。ママの心配を放っておいたら、たいへんな目にあうことがわかっているのです。
「……僕は、……あっくんが考え事をするようになったと思うんだけど」
パパは恐る恐るという感じで、パパの考えを言います。パパはしんけんに考えた答えを言うときは、いつもこうなるのです。
「考え事? あっくんは、まだ3つよ」
ママは、思わず、少し大きな声を出してしまいます。大丈夫、あっくんはちゃんと夢の中です。
「君は、自分の3歳のころのことを覚えてる? 僕は覚えていない。だから、3つのときに、自分が考え事をしなかったとは言えない。もちろん、したともいえないけどね。……納得いかないみたいだね?」
「だって……」
「僕も、会社のおば様方に聞いてみるよ。まあ、『心配しすぎだ』とか『最近の若いもんは』とか言われるのがオチだけど」
「うん。お願いね」
ママは、パパがしんけんに話を聞いてくれたことで、少し気持ちを落ち着けることができました。
*
ママは、それからインターネットで調べたり、育児書をひもといたりしました。ママは、答えを見つけるまでなっとくできないたちなのです。でも、いっこうに答えは見つかりません。
今日は、休日です。あっくんはパパと一緒に公園に遊びに行きました。そろそろ冷たい風が吹いているのに、あっくんもパパもとても元気です。ママは、調べ物の疲れが出たのか、今日は一緒に行きませんでした。重い頭を落ち着けるため、ソファーに寝転びながら、パパに言われたことを考えていました。ふと、あっくんが、こんな風に時おり黙り込んでしまうようになる前のことを思い出したのです。
「ねえ、ママ?」
さいきん、あっくんは、これが口ぐせのようです。だいたい、「あれは何?」「これはどうしてなの?」「あれはどうなるの?」と続きます。ママは、その度にできる限り、ちゃんと答えようとしていますが、どうしても忙しいときやいらいらしているときがあります。そんなときには「どうしてだろうね?」と言ってしまうこともあるのです。
「なあに? あっくん、どうしたの?」
今日はママの機嫌は良いようです。
「ミーちゃん、来ないね」
さみしそうにあっくんが言います。
ミーちゃんというのは、あっくんがハイハイできるようになったころから、庭に餌をもらいに来ていたノラの三毛猫です。たいてい、猫は子どもの高い声が嫌いで、すぐに逃げていくのですが、どうしてか、ミーちゃんは、あっくんが近づいても逃げようとせず、むしろ、「さあ、撫でろ」とばかりにあっくんの前で寝転がる不思議な猫でした。
「そうね。猫は気まぐれだから、また、ふらっと来るわよ」
ママは、ノラ猫というものはそういうものだと思っていました。
「気まぐれって何?」
「そうねぇ、『今日は機嫌が良いからこっちにいこうか。今日は機嫌が悪いから、寝て過ごそうか』ってミーちゃんは考えてるということよ」
「ふうん。ミエおばちゃんみたい」
ママは、思わず噴き出します。ミエおばちゃんというのは、ママの妹のことです。あっくんが、ママの妹の事情を詳しく知っているはずはありませんが、確かに猫みたいな妹なのです。
次の日も、その次の日も、ミーちゃんは来ませんでした。お昼ご飯の後、お昼寝までの間、あっくんはじっと庭を見つめています。
ママは、知っていました。猫は、突然のお別れをするものなのだと。そして、気づいていました。お別れの瞬間を見せないようにする気高い生き物だと。
「ミーちゃん、引っ越したのかもしれないね」
「引っ越し?」
「遠くに行っちゃったのかも……」
「うん……」
あっくんは座ったママのお腹に抱きつきます。あっくんは、静かに、そう、静かに泣きました。そうして、いつしかお昼寝をしていました。
ママが気がつくと、日が傾いて、真っ赤なくらいの夕焼けがベランダに映っていました。どうやらママは、夕方まで眠ってしまったようです。ふだんならあわてて残った家事を片付けるのですが、今日は不思議と晴れやかな気分でした。あっくんが時おり黙り込む理由が分かった気がしたからです。
別に何かが解決したのではありません。でも、心のモヤモヤがストンと落ちた気がしたのでした。
*
楽しいクリスマスが終わり、パパとママとあっくんは、パパとママのふるさとにやってきました。
「ママ! パパ! 白い!」
ふるさとに入り、目が覚めたあっくんの第一声がこれでした。とにかくどこを見ても一面の雪化粧です。東京に住むあっくんたちは、なかなかふるさとに帰ることができません。前に帰った時には、あっくんはまだハイハイもできない時だったので、初めて見る景色にあっくんは大興奮です。
車が目指しているのは、村で一番奥にあるおうち。そこに、ママのおばあちゃんが住んでいるのです。もともと、あっくんのママのママ、つまりおばあちゃんも住んでいた家なのだそうです。あっくんのおばあちゃんのきょうだいは亡くなっていて、今はおばあちゃんがおっきなおばあちゃんのお世話をしながら暮らしているのです。
「うわー おっきなおうち」
あっくんが叫びます。あっくんの家が何個分でしょうか。あっくんは口が空いたままです。玄関に小柄な老婦人が立っていて、笑顔で手を振っています。
「おっきなおばあちゃん、こんにちわ!」
あっくんが元気よくあいさつします。
「こんにちわ。よく来たねえ。寒かったでしょ、早く入りなさい」
おっきなおばあちゃんは、笑顔で顔をしわくちゃにしながら言います。
「おっきなおばあちゃんって、パパよりちっさいね」
あっくんがそう言うと、おっきなおばあちゃんが豪快な声で笑いました。
あっくんは、古い家の中をたんけんしました。屋根裏部屋やそこにあるほこりだらけの桐の箱、不思議な臭いのするきれいな着物、すべてがあっくんを魅了しました。お昼ご飯はあっくんの大好きなお寿司でした。あっくんの話すことやすること一つ一つに、皆が笑ったりほめたりします。あっくんは照れてしまいました。
お昼ご飯が終わると、またあっくんは広い家の中をたんけんします。そして、あっくんは2階のいちばん奥の部屋にたどり着きました。
ふすまを開けると、そこは、たくさんの写真が飾られている小さな部屋でした。
他の部屋は、ほこりの臭いがしましたが、ここは、独特の香り、さっきの着物の臭いに近い香りがします。壁の上の方に、白黒の写真がたくさんあります。あっくんは、ボーっと写真を眺めます。固い顔をしたおじいさんから、あっくんよりも少しお兄さんくらいの子どもまできれいに並んでいるなとあっくんは思いました。
「こんなところにいたのかい」
あっくんが振り返ると、そこには笑顔のおっきなおばあちゃんがいました。
「おっきなおばあちゃん、この人たちは誰?」
おっきなおばあちゃんは、ストーブをつけると、畳に腰をおろし、あっくんを膝の上に座らせました。おっきなおばあちゃんからも、不思議な臭いがします。
「あの左の人が、私の夫。あっくんのおっきなおじいちゃん」
「おっきなおじいちゃん、こんにちわ!」
おっきなおばあちゃんは、目を細めて、あっくんの頭を撫でます。あっくんは、ママやパパに頭を撫でられるのと違う心地よさを感じました。おっきなおばあちゃんは、写真の人を一人一人紹介していきました。
「そして一番右が……」
おっきなおばあちゃんが、あっくんより少しお兄さんくらいの子どもの写真を見て、少し黙ってしまいました。あっくんを抱く手が少し震えていました。
「……この子はね、とってもいい子だったんだよ」
おっきなおばあちゃんは、静かに話し始めました。
おっきなおばあちゃんは、おっきなおじいちゃんが死んでしまった後、おっきなおじいちゃんが遺したものを守るためにがんばりました。おっきなおじいちゃんのやっていた仕事を継いで、だから女はダメだと言うような人たちに負けないようにとにかくお金をかせぎました。たくさんたくさん稼ぎました。でも、そうするうちに、おっきなおばあちゃんの家族はバラバラになってしまいました。
3人いたおばあちゃんのお兄さんたちは、次々と村を出てしまいました。優しくなくなったおっきなおばあちゃんに反発したのでした。そして、おばあちゃんの一番上のお兄さんは、病気で死んでしまい、二番目のお兄さんも、事故で死んでしまったそうです。おっきなおばあちゃんは、悲しみを忘れようと、さらに仕事をがんばりました。働いて働いて働いて、働きました。
そんなとき、3番目のお兄さんが、ふと村に戻ってきました。いつの間にか、結婚して、孫ができていたのです。おっきなおばあちゃんは、息子の結婚も知らせてもらえなかったことを恥ずかしいと思いました。でも、孫を自分の手で抱いた時、何かが吹っ切れました。おっきなおばあちゃんは、人としての大切なものを取り戻したのでした。
この写真の人は、その孫なのだそうです。この男の子は、生まれつき心臓が悪く、何回も手術を受けないといけなかったそうです。この子は、おっきなおばあちゃんにとても懐いてくれました。とてもとても優しい、心のきれいな子でした。自分がつらい思いをしているのに、それ以上に他の子どもを勇気づけるような子でした。おっきなおばあちゃんは、この子のために、たくさんのお金を出して手術を受けさせました。でも、10歳の時に死んでしまったそうです。
おっきなおばあちゃんは、もう逃げたりしませんでした。この子がやっていたように、難しい病気に苦しむ子どもを助ける仕事をするようになりました。村の子どもも誰よりも可愛がるようになったのでした。
おっきなおばあちゃんは話を終えると、鼻をすすりました。
「あっくんね、ミーちゃんがいなくってね」
あっくんはおっきなおばあちゃんに話しかけます。
「ミーちゃんは、三毛猫でね。いなくなって……」
おっきなおばあちゃんは、うんうんと聞いてくれます。
「それで、死んじゃったかもって思って。死んじゃったら、もう誰にも会えなくなるって……」
あっくんはいつしか涙声になっています。
「真っ暗でね。もう……パパにも……ママに……も」
あっくんは泣き出してしまいました。おっきなおばあちゃんがよしよしと言いながら、あっくんを揺らします。ひとしきりあっくんはおっきなおばあちゃんに抱きついて泣きました。
「あっくん、おっきなおばあちゃんはね。今まで、大事な人がたくさん先に死んじゃったの」
あっくんは、おっきなおばあちゃんに抱きつきながら声を聞きます。
「死んだら、天国に行けるって言うでしょ? おっきなおばあちゃんはね、あんまり信じていないの。あの子がね、言ったの」
「あのいちばん右の子?」
「そう。『おばあちゃんありがとう。次は元気になって、また生まれてくるよ』って、死んじゃう前に、はっきりそう言ったの。だから、おっきなおばあちゃんは、それを信じてるのよ……」
おっきなおばあちゃんの優しい声に、泣き疲れたあっくんは、だんだん夢の中に入って行きました。
*
お正月が過ぎ、パパは眠そうな顔で車を運転しています。
「おっきなおばあちゃん、最後びっくりした顔してたけど、なんでだろう?」
「あっくんがおっきなおばあちゃんに何か耳打ちしたみたいだけど」
「あっくんは?」
「健やかに眠ってるわ」
ママは後部座席のチャイルドシートを覗きこみます。ママはあっくんの寝顔を見て微笑みました。
車は、雪のトンネルを抜けて走っていきます。国道に続く道に入ると、ふるさとが見えなくなってしまいました。
「また、明日から日常が始まるな」
健やかに眠るあっくんとママを見て、パパはそんな独り言を言いました。