プロローグ 賢者の旅立ち
世界とはどれだけ広いのだろうか
我々は自身が見る事、触れる事、聞く事でしか世界を知る事はできない
人は世界を観測する、故に世界は在るのではないだろうか
それは突如現れ、どんな世界から来たのかは誰にも分からない
それが何の為に、何の目的で、何を求めたのかは分からない
しかし、それはこの世界を虚無で飲み込もうとした
我々はそれを魔王と呼ぶ
魔王は我々を絶望の淵へと追いやった
しかし、救いの光も、また外の世界から来た
二人の少年は、かつて別の世界で勇者と呼ばれた存在だった
勇者たちは、私達の世界の惨劇を聞くと、手を差し伸べてくれた
異世界から来た二人の勇者
後に聖なる乙女と呼ばれる事になる、我が幼少の頃からの友人
そして偉大なる賢者と呼ばれる事になる、この非力な我
四人は魔王が引き起こす悲劇を止めるために立ち上がった
魔王を前にして、我らの希望が絶望に変わって行くのが感じられる
勇者の凄まじい剣技も、我の魔法も役に立たなかった
何度何度も魔王を倒そうとも、魔王は簡単に復活するのだ
まるで霧を剣で斬るかのようだった
それを見ていた聖なる乙女は、小さな体で魔王を抱きしめ、祈った
彼女の歌に我らが茫然と聞き酔いしれていると
彼女は神々しい光を浴び、我はその眩しさに目を手で覆った
手の上からでも感じる光の洪水が治まった後、我が視線を向けると
あれ程、強大だった魔王の姿が消えていた
聖なる乙女と共に……
一人の青年がペンを置く。いや、その青年は12歳ほどであったが、その独特な雰囲気は少年ではなかった。
鴉の羽の様な黒髪。日の光を浴びた事が無いかのような白い肌。絵具をそのまま塗りたくったような濃くて暗い緑色の瞳は、まるで虚無を宿しているかのような強くも陰鬱な光を灯している。服装は闇夜の色のローブをその身に纏い、胸にはロケットを下げている。
部屋は書籍の山と中央の魔法陣で埋め尽くされ、本が日の光で痛めつけられるのを嫌っているのか、カーテンは閉め切られ、部屋は薄暗い。
机を立った彼は、部屋の中央を占める魔法陣の中心に座した。
彼は目を閉じ、精神を集中させる。一見すると彼は冷静であるかのように見えるが、彼の額には薄く汗が滲んでいる。
彼はとても緊張している、魔王と戦った時と同じぐらい、もしかするとそれ以上かもしれない。
彼は、自分がどうなるかも分からない。失敗して死ぬのか、死より残酷な運命を辿るのか……
しかし、自分がどうなろうとも、諦めて引き返すなど出来ない。決して失ってはならない物を取り戻すために……
彼は自分の心を鎮めようと、目を閉じたまま深呼吸をする。
そんな中でふと思う。なぜ自分はあの戦いについて書き記したのか? あんな陳腐な物語、歌詠み達が世界中に吹聴しているだろう……
彼は口を歪めて苦笑し、首を振る。
自分がこの世界から永遠に消えてしまうかも知れない事に、彼は自分でも思っていた以上に怯えているのかもしれない。
この世界から自分が消えてしまうとしても、この世界に自分が存在していた証を残したかったのかもしれない。
「フッ、まるで縄張り意識を持った犬みたいだ。」
そんな事を呟く自分にまた苦笑する。
ようやく心の準備が整ったのか、彼は立ち上がって魔法の準備をする。どうやら彼の苦笑は彼の恐怖を和らげるのに役立ったらしい。
魔法陣の中心に立った彼は、静かに目を閉じた。
「アンナ、もう一度君に会う。絶対……」
彼はその口から歌を紡ぎ出した。
魔法とは心からの祈りだ。
切実な思い、真実の願いが込められた歌が、この世に軌跡をもたらす。
彼は歌う。
求めて歌う。
大切なものを取り戻すために……
歌い続けるごとに、魔法陣の輝きが増して行く。
その輝きは、いつしか、部屋を真っ白に染めた。
部屋が光の洪水に包まれた後、部屋に少年は居なかった。