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夏色グラビティ  作者: 平木明日香
EP1. 明日、君と別れる前に
4/4

第2話 名前のない朝



 ◇



 まぶたが重かった。


 重いっていうより、何枚も濡れた布を重ねて、その上から手で押さえつけられているみたいな感じだった。目を開けようとしてもそこに意識が届くまでに時間がかかるし、やっと少しだけ開いたと思ったら視界の奥が白く滲んでいて、どこを見ているのか自分でもよくわからない。頭の中もぼんやりしていて、眠いのか痛いのか、そもそもまだ夢の途中なのか、そのへんの境目が曖昧だった。


 白い。


 最初にわかったのは、それだけだった。


 天井が白くて、光も白くて、視界の端にあるカーテンみたいなものも白い。鼻の奥には消毒液っぽい匂いが刺さっていて、乾いた空気の中にどこか機械の熱っぽい匂いが混じっていた。病院だ、と理解するまでに、少し時間がかかった。


 病院。


 そこでようやく、頭の奥に沈んでいた記憶が、泥の中から引き上げられるみたいに浮かんできた。


 夜行バス。高速道路。傾く車体。誰かの悲鳴。さやかの名前を呼ぼうとしたこと。うまく声が出なかったこと。目の前が赤くなって、そのまま意識が切れたこと。


 息が詰まった。


 胸が苦しくなって、反射的に起き上がろうとした。けれど身体は思ったように動かなくて、腹のあたりに変な力が入り、喉の奥で浅い呼吸だけが何度も引っかかった。頭の中では一気にいろんなことがつながったのに、身体だけがついてこない。その気持ち悪さが、逆に恐怖をはっきりさせる。


 事故。


 俺、どうなった。


 さやかは。


 手を動かそうとした。シーツの上に出ていた自分の腕を見て、そこで、何かがおかしいと気づいた。


 細い。


 白くて、骨ばっていなくて、指先まで妙に整っている。手の甲の感じも、爪の形も、自分の見慣れたものじゃない。野球部で日焼けして、バットを振って、ボールを投げて、それなりに節も張っているはずの俺の手とは、まるで違っていた。


 一瞬、頭の中が止まった。


 違う。そんなわけない。事故のあとで変に見えてるだけだろ。点滴のせいとか、薬のせいとか、そういうやつかもしれない。そんなふうに無理やり説明を探そうとしたけど、胸の鼓動だけは先に正直になっていて、嫌なくらい速くなっていく。


 俺はその手で自分の喉に触れた。


 喉仏の感じがない。首筋が細い。皮膚の感触が、自分のものじゃない。


「……っ」


 息と一緒に漏れた声が、高かった。


 高いというより、細い。自分の耳に返ってくる響きが、いつもの俺のものじゃない。聞き慣れているのに、自分から出るはずのない声だった。


「……なに……これ……」


 掠れたその声に、自分で寒気がした。


 視線を必死で動かすと、ベッドの横にある小さな棚の上に、銀色のポットと紙コップ、それから鏡代わりになるガラスの扉が見えた。そこに、ぼんやりと人の顔が映っていた。


 そこに映っていたのは、俺じゃなかった。


 ………嘘だろ?


 青白い顔色。少し乾いた唇。長さの揃った前髪。見慣れているはずの目元なのに、今そこにある表情は、俺が今までもう何度も見てきたさやかの顔と少しだけ違って見えた。混乱して、怯えて、信じられないものを見ている顔をしていた。それがガラスに映っていて、しかもその顔の中にいるのが自分だと理解した瞬間、胃の奥がひっくり返るみたいな感覚が走った。


「さやか……?」


 思わず口に出す。


 出てきた声は、やっぱりさやかのものだった。


 意味がわからなかった。


 目の前の世界のほうが間違っているとしか思えないのに、匂いも光も、シーツのざらついた感触も、喉の渇きも、全部がやけに現実だった。夢ならもっとふわふわしていてほしいし、悪い冗談ならどこかに笑える余地があるはずなのに、そのどっちでもない。頭の中だけが現実に追いつけていなかった。


 そのとき、視界の端で誰かが動いた。


 俺は反射的にそっちを向いた。


 病室のベッドの隣、カーテンの向こう側にもう一つベッドがあって、そこに誰かが横たわっていた。全身に包帯。腕は固定され、顔もほとんど白いギプスみたいなもので覆われていて、素顔なんかほとんど見えない。心電図のモニターが一定の間隔で音を鳴らしていて、その単調なリズムだけが妙に冷静だった。


 見えないのに、わかった。


 あれは俺の体だ。


 そう思った瞬間、身体の中を氷水が流れたみたいに冷たくなった。


「……嘘、だろ……」


 口に出した言葉は弱くて、聞こえた声はさやかのままだった。


 俺はさやかの身体にいる。


 俺の身体は、そこにある。


 じゃあ、さやかはどこにいる。


 その問いが浮かんだとたん、呼吸がまた浅くなった。病室の中が急に狭く感じる。白いカーテンも、窓も、心電図の音も、全部が俺を追い詰めるみたいに近づいてきて、頭の芯がくらくらした。


「……さやか?」


 呼んでみる。自分の口から、自分の彼女の名前が、自分の彼女の声で出る。意味不明すぎて、気持ち悪さが限界だった。


 返事はなかった。


 当たり前だ。病室には俺しかいない。いや、俺しかいないって言い方ももう変だ。俺はここにいるのに、ここには俺の身体もある。なのにその中身が空っぽみたいに眠っていて、さやかはどこにもいない。


「おい……どこだよ……さやか……」


 シーツの上に置いた手が震える。自分のものじゃない指先が小刻みに揺れているのを見るだけで、頭がおかしくなりそうだった。


 もう一度、今度は少し強めに呼んだ。


「さやか」


 やっぱり何も返ってこない。


 病室の空気だけがしんとしている。廊下の向こうで誰かの足音がして、遠くでカートの車輪が床を転がる音がした。こんなに普通に時間が流れているのに、俺の周りだけ世界の仕組みがおかしくなっている感じがした。


「さやか!!」


 声を張り上げたつもりだった。


 高い声が病室に跳ね返る。けれど、それでどうにかなるわけじゃない。カーテンは動かないし、隣のベッドの俺も起きない。誰かが駆け込んでくる気配もない。


 頭の中で、ありえない考えがどんどん形になっていく。


 俺がさやかの身体に入ってる。


 俺の身体は眠ってる。


 さやかの意識は、どこにも見えない。


 それってつまり、どういうことだ。


「……ふざけんなよ……」


 誰に向かって言ってるのか自分でもわからなかった。事故にか、神様みたいなものにか、この意味不明な現実そのものにか、とにかく何かを殴りつけたいくらい腹が立った。けど、握りしめた指は細くて、力を入れてもシーツがちょっと寄るだけだった。


 俺はベッドの端に手をついて、ゆっくり身体を起こした。


 その動作ひとつが変だった。重心の位置が違う。腕の長さも、脚の感覚も、腰の軽さも、自分の身体で毎日当たり前にやっていた動きと全然噛み合わない。借り物のパーツを適当にくっつけて、無理やり立たされてるみたいな不快さがあった。


 足を床に下ろす。冷たい。スリッパの位置を探そうとしても、距離感がおかしい。視線と身体がずれる。立ち上がった瞬間、くらっとして壁に手をついた。その手がまた、さやかの手だった。


 見慣れてるのに、自分のものじゃない。


 今はそれを気にしてる場合じゃないのに、視界に入るたび脳が拒否する。


 点滴の管がつながっているのに気づき、雑に腕を持ち上げて、絡まないようにしながらドアのほうへ向かった。ナースコールを押すより、直接聞きに行くほうが早いと思った。聞かなきゃいけない。医者か看護師なら、事故でどうなったのか知ってるはずだ。さやかがどこにいるのか、俺の身体がどういう状態なのか、説明できる人間が絶対にいるはずだ。


 病室のドアを開けると、廊下の白さがさらに目に痛かった。


 すぐ近くのナースステーションにいた看護師が、俺を見るなり顔色を変えた。


「あっ、高月さん! まだ安静にしていないと――」


 高月さん。


 その呼び方に、胸の奥がきつく縮んだ。


 違う。俺はさやかじゃない。いや、見た目はそうなんだろうけど、中身は俺だ。杉浦進也だ。そういう説明を一からしなきゃいけないのかと思うだけで頭が痛くなった。


「事故のことを知りたいんです」


 自分でも驚くくらい必死な声が出た。高い声なのに、中身だけが焦っていて、そのアンバランスさがますます気持ち悪い。


 看護師は困ったように目を瞬かせた。


「え……?」


「バスの事故です。一緒にいた俺は……? 杉浦進也は、どこにいるんですか」


 言いながら、自分の名前を他人みたいに口にしていることが妙に変だった。看護師からすれば、事故で重傷を負った彼氏の安否を気にしている彼女にしか見えないんだろう。そう思うと、今の自分の立場がますます歪んで感じられた。


 看護師は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……杉浦くん、ね……」


 その、わずかな間が嫌だった。


 言いづらいことがあるときの間だ、と思った。俺の身体はもう死んでるのか、と一瞬で最悪の想像が頭をよぎる。けど、さっき隣のベッドで心電図は鳴っていた。生きてはいる。じゃあ何がそんなに言いにくいんだ。


「彼のことは、あとで先生からきちんと――」


「今、知りたいんです!」


 声がひっくり返りそうになりながらも、俺は前へ出た。看護師の制服の袖を掴みかけて、ぎりぎりで止める。自分でも、今の状態で人に触ったら何をするかわからなかった。


「俺は……あいつの恋人なんです。どうなったのか、知りたいんです……!」


 看護師は明らかに困っていた。困るだろうな、と客観的にはわかる。事故の直後で、本人もまだ安静にしていなきゃいけない患者が起き上がって取り乱してるんだから。けど、わかることと、落ち着いて従えることは別だった。


「……彼は、かなり重症で……」


 その言葉に、胸が強く打った。


 重症。知ってる。見た。隣に寝てた。あれは俺だ。でも看護師は、当然それを「杉浦進也」として説明している。自分の話を他人のことみたいに聞かなきゃいけない異常さに、頭がおかしくなりそうだった。


「そうじゃなくて……!」


 違うと言いかけて、でも何がどう違うのか一言では言えなくて、言葉が喉でつっかえる。


「あいつは……その……無事だったんですか? ちゃんと運ばれたんですか?」


 意味のわからない質問になっている自覚はあった。無事じゃないからここにいるんだろうし、運ばれたから俺は見ている。けど俺が聞きたかったのは、その身体に本当に命が残っているのか、意識はあるのか、もう戻れない状態なのか、そのへんを全部ひっくるめた確認だった。


 看護師は小さく頷いた。


「彼は、確かに搬送されました。でも……意識はまだ戻っていません」


 そこで、胸の奥にほんの少しだけ空気が入った。


 生きてる。


 俺の身体は、まだ生きてる。


「……本当ですか」


「ええ。ただ、頭部外傷がかなり重くて、お顔の損傷も強く出ています。現在も集中管理が必要な状態で……ご家族にも、はっきりしたことはまだ」


 顔の損傷。その言葉で、隣のベッドの包帯だらけの姿がまた頭に浮かぶ。自分のことのはずなのに、自分のこととして受け取れない。痛みもないし、感覚もない。ただ、情報だけが外からどんどん入ってきて、頭の中の現実をぐちゃぐちゃにしていく。


「でも、生きてるんですね?」


「はい」


「意識は戻ってないけど……」


「はい。現時点では、昏睡状態です」


 昏睡状態。


 その言葉がやけに重かった。


 俺の身体はそこで眠ってる。心臓は動いてる。機械につながれて、生きてる。でも、中に俺はいない。じゃああれは何なんだ。俺の身体ってだけで、俺じゃないみたいなものなのか。そんなふうに考えた瞬間、吐き気がした。


「……さやかは?」


 気づけば、そう口にしていた。


 看護師は意味がわからないという顔でこちらを見る。


「え?」


「さやか……俺と一緒にいた……女の子……」


 言いながら、自分の言ってることのねじれがどんどんひどくなる。今の見た目はさやかなんだから、相手からすれば何を言ってるのかわからなくて当然だ。


「……あなた、ですよね?」


 やっぱりそうなる。


「そうじゃなくて……!」


 声が大きくなって、廊下の向こうにいた別の看護師までこちらを見た。視線が集まるのがわかったけど、もうそんなことを気にしていられなかった。


「意識不明のまま……いなくなったとか……そういうの、ないんですか。俺の体に、もしかして……」


 そこまで言って、自分で言葉を止めた。


 俺の体に、さやかの意識が入っているかもしれない。そう言いたかった。けど、口にしたところで何になるんだ。事故のショックで混乱してると思われるだけだし、実際そう見えるだろう。看護師は気の毒そうな顔で、ゆっくり首を振った。


「杉浦くんは、今のところ、外部からの呼びかけに対する反応はありません。刺激への反応も限定的で……ご家族がいらしたときも、意識が戻った様子はありませんでした」


 心臓が、ひとつ大きく打った。


 ご家族がいらした。


 母さんたち、来たのか。


 俺の身体のところへ。包帯だらけの俺を見て、呼びかけて、でも反応がなくて。想像しただけで胸が潰れそうになった。しかも、その場に俺はいたはずなのに、俺としてはそこにいられなかった。さやかの身体で別のベッドに寝ていて、自分の家族が自分の身体に呼びかけてるのを知らないまま意識を失っていたのかと思うと、意味不明すぎて頭が追いつかない。


「……じゃあ」


 喉が乾いて、言葉がうまく出ない。


「じゃあ、あいつの中には……誰も、いないんですか」


 看護師は答えに困ったように口を閉じた。そりゃそうだ。普通はそんな聞き方しない。身体の中に誰がいるとかいないとか、そういう話じゃない。


「高月さん、今はまだ無理に考えすぎないでください。あなた自身も事故の衝撃で混乱していますし、頭を打っているので、まずはお部屋へ戻って――」


「混乱とかじゃなくて……」


 俺は笑いそうになった。笑うしかないくらい、現実のほうが狂っていた。


「俺、自分が誰だかわかんなくなってるんですよ」


 その言葉を言った瞬間、ようやく少しだけ本音に近づいた気がした。もちろん本当は自分が誰かわかってる。俺は俺、杉浦進也だ。そこははっきりしてる。ただ、それを証明する材料が何ひとつなくて、目に映るものも、声も、手も、周りの反応も、全部が「お前は高月さやかだ」と言ってくる。その中で、自分だけが違うと知っている状態は、たしかに自分が誰だかわからなくなる感覚に近かった。


 看護師はますます困った顔をした。


「先生を呼びますから、いったん戻りましょう。歩くのもまだ危ないですし」


「……俺、どれくらい寝てたんですか」


「三日です」


 三日。


 その数字に、思考が一瞬止まる。事故の夜から三日。たった三日なのか、もう三日なのか、そのどっちとも言えなかった。そのあいだ俺の身体は眠ったまま、さやかの身体も眠ったまま、そして今こうなっている。三日で世界がこんなに変わるのかと思うと、笑えなかった。


「ご家族にも、もう連絡はついています。高月さんのお母さまも――」


 その名前を聞いた瞬間、また胃がきゅっと縮んだ。


 さやかの母さん。


 ここへ来るのか。俺のところへ。いや、見た目はさやかなんだから、当然そうなる。母親からしたら、事故から生還した娘が目を覚ましたってだけだ。喜ぶに決まってる。その顔を見て俺は何て言えばいい。俺はあなたの娘じゃありません、恋人の杉浦進也です、なんて言っても信じられるわけがない。そもそも俺だって信じたくないのに。


 足元が急にふらついた。


 看護師が慌てて腕を支える。その手に触れられた腕が、自分のものじゃないとまた思ってしまって、ぞわっとした。触られた感覚まで違う。力の入り方も、肌の薄さも、全部が自分の基準からずれている。


「……部屋、戻ります」


 そう言うしかなかった。


 いったん戻らないと、このままここで倒れる気がした。身体も頭も、もう限界に近かった。


 看護師に付き添われながら病室へ戻る廊下は、行きよりずっと長く感じた。白い床、白い壁、一定の間隔で並ぶ病室の扉、どこも似たような景色なのに、自分だけが変な場所へ迷い込んだみたいだった。途中ですれ違った入院患者らしいおじいさんが、俺を見て、事故の子だろうかという顔をしたのもわかった。その視線の先にあるのが「高月さやか」だと思うと、気持ち悪かった。


 病室へ戻ると、隣のベッドの俺はさっきと同じように眠っていた。


 何も変わらない。


 心電図は鳴っている。包帯もギプスもそのまま。機械につながれた身体は、そこに確かに存在しているのに、俺が何を言っても答えない。ただ寝ている、というには重すぎる沈黙だった。


 看護師は俺をベッドへ座らせ、もう無理に動かないでくださいね、と念を押してから出ていった。ドアが閉まる音がして、部屋の中にまた静かな機械音だけが残る。


 俺はしばらく、何もできずに座っていた。


 点滴の雫がゆっくり落ちていく。窓の外はもう午後なのか、明るいけれど日差しは少し傾いている気がした。事故のあった夜から三日経ってるんだから、そりゃ時間も進む。進むけど、俺の中ではずっとあのバスの衝撃で止まったままだった。


「……お前は……どこにいるんだよ……」


 小さく呟く。


 返事はない。


 さやかの身体の中に、さやか自身の気配は何も感じない。俺がこうして目を覚ましてから今まで、頭の中に別の声が聞こえることもなかったし、身体の奥に誰かの存在がある感じもしなかった。漫画みたいに意識の中で会話できるとか、夢の中で会えるとか、そういう都合のいいことは何ひとつ起きていない。ただ俺が、さやかの身体で息をしている。それだけだった。


 それが逆に怖かった。


 もし少しでも気配があれば、どこかにいると思える。けど何もないということは、本当にどこにもいないんじゃないかという考えが、どうしても浮かんでしまう。認めたくないのに、考え始めると止まらない。


 もしかして、さやかは死んだのか。


 でも遺体なんて話は出なかった。事故で運ばれて、三日後に目を覚ましたのが今の俺なんだから、少なくとも身体はここにある。じゃあ意識だけが消えたのか。そんなこと、あるのか。人間って、そんなふうに途中で中身だけいなくなったりするのか。


「……ふざけんなよ……」


 また同じ言葉が出た。


 今度は怒りより、どうしようもない無力感のほうが強かった。


 俺だけが生き残ったのかもしれない。


 その考えが、頭の中でいちばん嫌な形をしていた。


 俺の身体は生きている。でも中にいない。さやかの身体も生きている。でも中にいるのは俺だ。そうなると、さやか自身はどこにもいない。それはつまり、俺だけが意識を持って残っていて、さやかは消えた、ということになる。そんなの認められるわけがない。けど、今ある情報だけを並べたら、そっちにしか向かわない気がした。


 ベッドの脇に置かれた小さな鏡を、もう一度手に取った。


 映るのは、やっぱりさやかだった。


 目が赤い。たぶんさっきからずっと泣きそうな顔をしているからだ。頬は少しこけて見えるし、唇の色も悪い。事故のダメージで弱っているのがわかる。見慣れた彼女の顔なのに、いまそれを内側から見ていることが吐き気を誘った。


「……俺だけが、生き残ったのか?」


 口にした瞬間、その言葉の重さに自分で押し潰されそうになった。


 もしそうなら、俺は何なんだ。


 彼氏の身体を奪って生き残ったみたいな、最悪の怪物じゃないか。もちろん自分の意思でやったわけじゃない。そんなことはわかってる。事故だし、意味も理屈も通らない現象だ。でも理屈がどうであれ、結果だけ見ればそういうことになる。俺が目を覚ましたせいで、さやかがいなくなったみたいじゃないか。そんな考え方が卑屈なのはわかってるのに、頭の中に駆け巡ってくるそれをどうしても止められなかった。


 鏡を置いて、俺は隣のベッドを見た。


 包帯だらけの俺。呼んでも起きない俺。家族が話しかけても反応しなかった俺。あれを見て、母さんたちは何を思ったんだろう。親父は。妹は。事故の知らせを受けて、青森からここまで来たのか。顔も確認できない状態だって言われて、それでも手を握って、名前を呼んだのか。想像しただけで胸が痛かった。今すぐ「俺ここにいるから」って言いたいのに、その俺はさやかの顔をして別のベッドに座っている。どう考えても悪夢だった。


 しかも、これからはさやかの家族にも会わなきゃいけない。


 母親も、父親も、いるなら兄弟も、みんな俺を「さやか」として見る。目を覚ましてよかったって泣くかもしれない。その全部に、俺はさやかとして返事しなきゃいけないのか。そんなの無理だろ、と思った。無理だけど、今のままだとそうするしかない。俺が本当のことを話しても、病院側は混乱している患者として扱うだけだし、家族だって信じるわけがない。


 つまり俺は、自分じゃない誰かとして生きることになるのか。


 そこまで考えて、背筋がぞっとした。


 生きる、って何だ。呼ばれる名前も、家族も、身体も、自分の夢も、全部ずれたまま、さやかとしてこれから先を過ごすのか。そんなの想像すらしたくなかった。


 俺は無意識に、自分の左手の薬指の根元を撫でた。さやかには当然何もついていない。けど、その仕草をしたのは、たぶん俺の中で「俺」であることを確認したかったからだと思う。野球のバットを握る手。通学中に自転車のハンドルを掴む手。さやかの手を繋いでいた手。その感覚が全部、自分の記憶の中にはあるのに、今目の前にあるのは別人の指だった。


 病室の時計を見ると、短針は三のあたりを指していた。午後三時すぎ。事故の日の時間感覚が完全に消えているから、三日後の午後三時と突然言われても、いまがいつなのか実感が湧かない。ただ、外の世界は普通に昼を過ごしていて、学校では授業か部活か、そういう日常が流れているはずだった。俺たちだけがその流れから弾き飛ばされて、変な場所へ落ちたみたいだった。


 そのとき、病室のドアが軽くノックされた。


 心臓が跳ねた。


 もう誰か来たのかと思って、身体が勝手にこわばる。看護師か医者か、それともさやかの母さんか。どれであっても、今はしんどかった。


「失礼します」


 入ってきたのは、さっきとは別の看護師だった。年齢は少し上で、落ち着いた顔をしている。俺の表情を見てほんの少しだけ声を柔らかくした。


「お加減どうですか」


「……最悪です」


 正直に答えると、看護師は困ったように小さく笑った。こういうときの定型文なんだろうけど、今の俺には「少し混乱されてるみたいですね」とか「無理しないでくださいね」とか言われるたび、余計に苦しくなる。無理とか混乱とかいうレベルじゃないんだよ、と叫びたくなるから。


「先生があとで来ますから、今はなるべく落ち着いていてくださいね。ご家族にも、意識が戻ったことはお伝えしています」


 その一言で、また胸の奥が固まった。


「……高月の、家族ですか」


「はい。お母さまは今日また来られると思います」


 今日また。


 つまり、もう一度会っているのか、この三日の間に。意識がない状態のさやかのところへ来て、話しかけて、心配して。それを俺は知らない。知らないうちに、さやかの家族の中では、事故後の三日間がすでに流れている。その時間に俺はいなかった。いや、身体はここにいたんだろうけど、俺として存在していなかった。そのズレがどうしようもなく気持ち悪い。


「……杉浦の家族は」


 聞くと、看護師は少し表情を引き締めた。


「お見舞いに来られています。今は別室で先生から説明を受けているかもしれません」


 俺は唇を噛んだ。


 今すぐ行きたかった。母さんの顔を見たい。親父の声を聞きたい。俺だよって言いたい。けど、その全部をやった瞬間、ただの混乱した他人になるだけだ。さやかの顔で近づいて「自分は杉浦進也です」なんて言ったところで、怪我とショックでおかしくなってると思われるのが関の山だろう。正しい。たぶんそれが正しい反応だ。わかってる。それはわかってるんだけど…


 看護師が水を勧めてくれたので、紙コップを受け取った。口をつけると自分の唇の感触がやっぱり知らないもので、変なところでまた現実を突きつけられる。喉が渇いていたはずなのに、うまく飲み込めなかった。


「……私、何か変なこと言ってませんでしたか」


 思わずそう聞くと、看護師は少し迷ってから答えた。


「事故のことをかなり気にされていましたね。恋人の方のことも」


「……そうですか」


 そりゃそうだろうな、と思う。目が覚めた直後に自分の身体が隣で昏睡状態なんだから、気にしないほうが無理だ。けど、その「恋人の方」という言い方ひとつで、俺はさやかとして分類されている現実をまた突きつけられる。


 看護師が出ていったあと、部屋はまた静かになった。


 俺はベッドの上で膝を抱えるみたいに身体を丸めた。さやかは普段こんな座り方しないかもしれないな、とどうでもいいことを考える。考えないとやっていられなかった。


 病院の窓は少ししか開かない。外の空気の匂いもしない。車の音も遠い。閉じた箱の中に押し込められている感じが強くて、余計に息苦しかった。事故のあと、自分だけが変な世界へ取り残されたみたいな気分から抜け出せない。


 俺はもう一度、隣のベッドを見た。


「……おい」


 呼んでみる。


「起きろよ」


 もちろん、何も起きない。


「俺、お前なんだけど」


 そんなこと言ってもしょうがないのに、言わずにいられなかった。


「ここにいるんだよ。なのに、そっちにいないんだよ。意味わかんねえだろ」


 喉の奥が熱くなる。


 泣きたいのか怒りたいのか、自分でもわからない。ただ、このまま黙っていたら本当に全部が嘘になりそうで、言葉を止められなかった。


「母さんたち、来たんだろ……? 名前、呼んだんだろ……? 返せなくてごめん、とか、そんなこと言ってもしょうがねえけど……」


 視界が滲む。自分の身体に向かって、自分じゃない顔で話している。その異様さに途中で笑いそうになった。…全然笑えないのに。


「さやか、どこにいるんだよ……」


 結局そこへ戻る。


 俺のことなんかどうでもいいとは言わない。正直、自分の家族のことも、自分の身体のことも、怖くてたまらない。でもそれ以上に、さやかがいないことのほうが無理だった。喧嘩したままでもなく、別れたわけでもなく、ただ事故に遭って、そのまま気配ごと消えるなんて、そんな終わり方があるかよと思う。あるわけない。あってほしくない。


 もし本当に消えたんだとしたら、俺はこれから先、何を支えにして生きればいいんだろう。


 さやかの身体で生きるのか。さやかの家族に囲まれて、さやかの名前で呼ばれて、さやかの学校生活を続けるのか。その中で俺だけが「本当は杉浦進也です」と思いながら生きるのか。そんなの、罰ゲームとかいうレベルじゃない。地獄だろ、と思った。


 夕方に近づくにつれて、窓から入る光の色が少しずつ変わっていった。白かった部屋の中に、薄いオレンジが混ざり始める。病院の時間って、どこか世界から切り離されてる感じがするのに、日が傾く光だけはちゃんと外とつながっている。外では今日も夕方が来て、誰かが家に帰って、部活が終わって、普通に時間が流れている。俺だけが、自分の場所を失ったまま取り残されているようで。


 ドアの向こうで、また足音が止まった。


 今度はノックの前にわかった。少し迷うような足音だったからだ。看護師とは違う。家族かもしれない。そう思った瞬間、心臓が嫌なくらい大きく跳ねた。


 ノックが二回。


 声は聞こえなかった。


 俺は返事ができなかった。喉が固まって、ただドアを見つめることしかできない。来る。誰かが入ってくる。たぶんさやかの母さんだ。俺を見て泣くかもしれない。抱きしめようとするかもしれない。その全部を俺は受け止めなきゃいけないのかと思うと、身体の芯が冷たくなった。


 ドアノブがゆっくり回る。


 俺は咄嗟に、シーツを握りしめた。


 細い指が白い布を強く掴む。その手が自分のものじゃないことに、もう何度目かわからない嫌悪が走る。


 逃げたいのに、逃げ場がなかった。


 ここは病院で、俺は事故の患者で、外見は高月さやかで、隣のベッドには昏睡状態の俺がいる。そして本物の高月さやかだけが、どこにもいない。


 それが、この世界のいまの形だった。


 その形を前にして、俺にできることなんて、ほとんど何もなかった。せいぜい自分が完全に壊れないようにベッドの端を握って、呼吸を忘れないようにするくらいだ。


「……どうすればいいんだよ……」


 誰にも届かない声が、小さく漏れた。


 答えてくれる声も、縋れるものも見つからないまま。



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