第4章 国家も会社も家族も、私も宗教だった
善が基準になった瞬間に、
それが暴力になり得る。
そのことを考え続けているうちに、
私は次第に、
「では、なぜ人は善を基準にしてしまうのか」
という問いに行き着いた。
そして、その問いは、
私の視線を自分の内側だけでなく、
外側の世界へと向けさせた。
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まず気づいたのは、
この社会には「正しさ」があまりにも多い、ということだった。
国家には、守るべき価値がある。
会社には、従うべき理念がある。
学校には、望ましい姿がある。
家族には、当然とされる役割がある。
それらはどれも、
明文化されている場合もあれば、
空気として共有されている場合もある。
だが共通しているのは、
それに従うことで、
世界が説明され、
自分の立ち位置が定まる
という点だった。
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この構造に気づいたとき、
私は少し驚いた。
なぜならそれは、
宗教と呼ばれているものの構造と、
ほとんど変わらなかったからだ。
•何が大切か
•何が正しいか
•何を守るべきか
•何を恥じるべきか
それらが体系として与えられ、
それに従うことで、
世界は意味を持つ。
神の名が出てこなくても、
それは十分に宗教的だった。
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国家を考えてみる。
国には、
守るべき理念があり、
象徴があり、
物語がある。
その物語は、
「私たちはこうして生まれ、
こうして今ここにいる」
という説明を与えてくれる。
それに従うことは、
安心でもある。
だが同時に、
その枠組みから外れると、
奇異なものとして扱われる。
これは宗教と、
何も違わない。
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会社や学校も同じだった。
そこには
「良い社員」
「良い生徒」
という像があり、
それに近づくことが評価される。
それに疑問を持つこと自体が、
ときに問題視される。
家族も例外ではない。
•親なのだから
•子どもなのだから
•家族なのだから
そうした言葉は、
説明を省略しながら、
強い拘束力を持つ。
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ここまで考えて、
私はふと、
嫌な予感がした。
もしこれらがすべて宗教的だとしたら、
では——
私自身はどうなのか。
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答えは、
思ったよりもすぐに出た。
私もまた、
自分なりの善悪を持ち、
許せる線と許せない線を引き、
「こうあるべき自分」を物語として持っていた。
それは、
•優しくあろうとする物語
•誰かを傷つけない存在であろうとする物語
•世界の暴力に加担しない人間であろうとする物語
だった。
私はそれを、
理性や判断だと思っていた。
だが今振り返ると、
それはかなり強固な信条だった。
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つまり私は、
宗教を外側に見つけて、
警戒していたつもりで、
自分の内側にも、
しっかりと宗教を持っていた。
それは他人に強要するものではなかったし、
教義として語ることもなかった。
だが、
自分自身を裁く力としては、
十分すぎるほど強かった。
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この理解に至ったとき、
奇妙な安堵があった。
自分だけが未熟だったわけではない。
自分だけが間違っていたわけでもない。
人間は、
何かを信じ、
それによって世界を整理せずには
生きられない。
それは欠陥ではなく、
性質なのだと。
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同時に、
一つの恐ろしさも見えた。
もし、
自分の内なる宗教を
「唯一正しいもの」だと
信じてしまったら。
もし、
それを他人にも当てはめようとしたら。
それは、
自分が最も嫌悪してきたものと、
同じ構造になる。
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ここで、
私はようやく立場を変える。
宗教を否定する側でもなく、
信じる側でもない。
宗教性から逃れられない人間として、
それをどう扱うかを考える側
へと移動する。
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国家も、会社も、家族も、
そして私自身も、
何らかの物語の中で生きている。
問題は、
その物語があることではない。
問題は、
それを忘れてしまうこと
なのだと思う。
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この理解は、
私に一つの指針を与えた。
•自分の物語を自覚する
•それを絶対化しない
•他人の物語を壊さない
•自分の物語で、他人を裁かない
完全にはできない。
だが、
意識することはできる。
それだけで、
善が暴力になる可能性は、
確実に下がる。
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私は、
答えに近づいたわけではない。
だが、
「自分は何者か」
という問いに対して、
一つの誠実な前提を得た。
私は中立ではない。
無色でもない。
何も信じていないわけでもない。
ただ、
自分が信じていることを、
信じすぎないようにしたい。
それだけだ。




