第3章 善は、なぜ暴力になるのか
最初は、ただの違和感だった。
自分が「優しくなろう」とするほど、
なぜか息苦しくなっていく。
自分を縛っている感覚が強まっていく。
それがなぜなのか、
しばらくは分からなかった。
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あるとき、ふと気づいた。
私は「善」を、
個人の願いとしてではなく、
基準として扱い始めていた。
•こう感じるべきだ
•こう振る舞うべきだ
•ここまでなら許される
それらはすべて、
善悪の判断というより、
線引きだった。
そして線が引かれた瞬間、
そこには必ず「内側」と「外側」が生まれる。
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このことに気づいたのは、
他人を見ているときだった。
明らかに誰かが雑に扱われている場面。
配慮を欠いた言動。
無神経な冗談。
以前の私は、
そうしたものにただ嫌悪を覚えていた。
だがこの頃になると、
嫌悪に加えて、
別の感情が混じるようになっていた。
なぜ、分からないのだろう。
なぜ、できないのだろう。
この瞬間、
私はすでに「理解」ではなく、
裁定を始めていた。
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重要なのは、
私はそれを口に出してはいなかった、ということだ。
誰かを責めたわけでもない。
説教をしたわけでもない。
それでも、
内側では確かに、
「できていない側」
という分類が行われていた。
そしてその分類は、
相手の事情や立場、余裕の有無を、
ほとんど考慮していなかった。
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ここでようやく、
私は一つの可能性に思い当たる。
善は、
それ自体では暴力ではない。
しかし、基準になった瞬間、
暴力になり得る。
なぜなら、
基準とは常に、
「満たせる者」と「満たせない者」を分けるからだ。
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さらに考えてみる。
もし私が、
「優しくあるべきだ」と誰かに言ったとしたら。
それは本当に、
相手のためになるのだろうか。
•余裕のある人
•安全な環境にいる人
•選択肢を持っている人
にとっては、
その言葉は指針になるかもしれない。
だが、
•追い詰められている人
•生きることで精一杯な人
•選べない状況にいる人
にとっては、
ただの重荷になる。
それどころか、
「できない自分は、
間違っている」
という烙印を、
静かに押すことになる。
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ここで、
私は自分の中の「善」への信頼が、
少し揺らいだ。
善は、
人を守るものだと思っていた。
少なくとも、
守る方向にしか働かないものだと。
だが実際には、
善はとても簡単に、
人を追い詰める。
しかもその過程は、
とても静かで、
とても正当化されやすい。
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なぜなら、
善は常に「正しい顔」をしているからだ。
怒りよりも、
憎しみよりも、
はるかに疑われにくい。
「良かれと思って」
「あなたのためを思って」
そう言われた瞬間、
受け取る側は反論しづらくなる。
たとえそれが、
自分の世界を壊す言葉であっても。
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私は、ようやく理解し始める。
自分が恐れていたのは、
悪意ではなかった。
善が、
善のまま人を傷つけること
その構造そのものだった。
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ここまで来て、
私は一つの態度を選ぶようになる。
•善を語らない
•正しさを掲げない
•誰かに「あるべき姿」を示さない
その代わりに、
自分が越えない線だけを、
静かに守る
それが、
今の自分にできる唯一の方法だと、
この時は考えていた。
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私は、
まだ答えに辿り着いていない。
ただ、
「善は無条件に信頼できるものではない」
小さくも決定的な理解を得た。
この理解が、
次の問いへとつながっていく。
なぜ、
善はここまで強い力を持つのか。
なぜ、
人はそれを手放せないのか。
その答えは、
私自身を含めた
「人間の宗教性」という問題に、
否応なく向かわせることになる。




