第2章 なぜそれは、うまくいかなかったのか
理想が高すぎたのだと思う。
そう言ってしまえば、それで済む話なのかもしれない。
けれど当時の私は、
「高い理想を持つこと」そのものが悪いとは、どうしても思えなかった。
むしろ、それを下げることの方が、どこか裏切りのように感じられた。
だから私は、理想を修正する代わりに、
自分の側を修正しようとした。
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現実の私は、理想通りには振る舞えなかった。
•嘘をついてしまうことがあった
•他人を利用していると自覚する瞬間があった
•誰かを見下したり、内心で線を引いたりした
•状況や相手によって態度が変わることもあった
それらはすべて、
「あってはならないもの」
として、私の中で扱われていた。
重要なのは、
それを自覚していなかったわけではない、という点だ。
私はむしろ、
自分の中にそうした感情や衝動があることを、
かなり早い段階から理解していた。
だからこそ、
それらを抑えるべきもの
消すべきもの
として扱うようになった。
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問題は、そのやり方だった。
私は「優しくなる」ために、
怒りをなくそうとした。
利己心を恥じた。
嫉妬や比較を、人格の欠陥のように扱った。
つまり私は、
人間らしさの一部を、
人間性から切り離そうとしていた。
今なら、
それが無理な相談だと分かる。
だが当時は、
「できないのは努力が足りないから」
「もっと意識すれば変われる」
そう信じて疑わなかった。
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その結果、どうなったか。
感情は消えなかった。
ただ、表に出にくくなっただけだった。
怒りは皮肉に変わり、
利己心は合理化に変わり、
見下しは無言の距離感に変わった。
外から見れば、
以前よりも落ち着いて、
以前よりも「大人」になったように見えたかもしれない。
しかし内側では、
自分が何を感じているのか分からなくなる瞬間が増えていった。
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もう一つ、うまくいかなかった理由がある。
私はいつの間にか、
「優しくなりたい」という願いを、
評価基準として使い始めていた。
•今日の自分は、優しかったか
•あの対応は、正しかったか
•あの感情は、持つべきではなかったのではないか
こうした問いが、
反射的に浮かぶようになった。
それは自己点検というより、
自己監視に近かった。
他人に厳しくしたかったわけではない。
むしろその逆で、
自分に対してだけ、異様に厳しくなっていた。
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次第に、奇妙な矛盾が生まれる。
私は「誰かを傷つけたくない」と思っていたはずなのに、
一番強く傷つけていたのは、
自分自身だった。
しかもそのことに、
しばらく気づかなかった。
なぜならそれは、
「善の名の下」に行われていたからだ。
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さらに厄介だったのは、
この内的な厳しさが、
少しずつ他者理解にも影響を与え始めたことだ。
•なぜ、あの人はそんな言い方をするのか
•なぜ、もっと配慮できないのか
•なぜ、分かっていてやめないのか
表立って責めることはなかった。
だが内心では、
「できていない」ことへの失望が積み重なっていった。
その瞬間、私はようやく薄く気づき始めた。
自分が目指している優しさは、
他人にも、同じ水準を求めてしまう。
たとえ口に出さなくても、
期待として、評価として、
静かに滲み出てしまう。
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この段階で、
私は初めて立ち止まることになる。
「優しくなりたい」という願いは、
本当にこの形でよかったのか。
自分を削り、
他人を内心で裁ち、
それでもなお届かない理想は、
果たして守るべきものなのか。
まだ答えは出ていなかった。
ただ一つ分かったのは、
このやり方では、
少なくとも私は救われない
ということだった。
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私は、
理想を捨てきれず、
現実も受け入れきれず、
その間で足踏みをしている。
だが、この違和感こそが、
次の問いを生むことになる。
優しさとは、
消し去ることなのか。
抑え込むことなのか。
それとも、別の扱い方があるのか。
この問いが、
私の視線を外側へ向けさせ、
「善」そのものを疑わせることになる。




