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『人間性の試験――境界の崩壊』
黒い床が波打ち、
視界がぐにゃりと歪む。
アシェルは思わず息を呑んだ。
(……目が、合っている……!
空間そのものが“俺を見ている”……?)
先ほど現れた巨大な“観測の目”は消えたはずなのに、
空間のすべてが視線となってアシェルに注がれている。
ノワが怯え切った声で言う。
――あしぇる……
――ここ……にんげん の かんかく で……
――たえる ばしょ じゃない……
アーカーの声が、
まるで背後に立つかのように近い位置から響く。
『さあ――“境界の崩壊”だ。
お前がどこまで“人間”でいられるのか。
それを確かめる。』
アシェルは拳を握った。
「境界だと……?
何を崩すつもりだ。」
アーカーは答える。
『肉体と精神の境界。
記憶と現実の境界。
自己と他者の境界。
そのすべてだ。
黒核が第三段階へ進むなら、
お前はそのどれもを越えられなければならない。』
アシェルは吐き捨てるように言った。
「勝手に決めるな。
俺は――俺だ。」
アーカーは興味深げに言葉を重ねる。
『では、その“俺”という概念が、
境界を失ったときどう変質するのか……
見せてもらおう。』
◆
◆空間がアシェルの“身体”を分離し始める
突然――
アシェルの視界が二重に割れた。
片方の視界は“前を向いたまま”。
もう片方は“自身の背中側”を映している。
アシェルは思わず身体を掴む。
「な……!?
俺の視界が……割れて……!」
ノワが叫ぶ。
――あしぇる……!!
――きみ の こころ と からだ が……
――“ずれはじめてる”……!!
アーカーの声が軽く笑うように響く。
『人間性とは脆弱なフィルターだ。
少し乱せば簡単に剥がれる。
視界、聴覚、触覚、思考――
それらが“ひとつである”という前提自体が脆い。』
アシェルは吐き捨てる。
「こんなものに……負けるか……!」
だが次の瞬間――
“感情”が身体から離れ始めた。
怒り、恐怖、安堵、願い。
それぞれが別々の場所で生まれ、
アシェルの身体に“戻るまでの時間”がズレていく。
ノワが必死に叫ぶ。
――あしぇる!!
――きみ の かんじょう が……ばらばら に なって……
――ひとつ に まとまらない……!!
アシェルは胸を押さえた。
「くっ……!
心が……時間差で戻ってくる……
“俺”が……一人じゃなくなりそうだ……!」
アーカーの声は無機質だ。
『当たり前だ。
“人間”という概念は、
世界の中でもっとも脆い構造だからな。』
◆
◆ノワの影が“不安定化”を始める
アシェルの精神が乱されると同時に、
ノワにも異変が現れ始めた。
影の輪郭がぼやけ、
ときおり“アシェルの姿”に変わり、
次には形が崩れ、
また別の形へ変わっていく。
――あ……あ……
――われ……かたち が……きえ……
――わからない……
――どれ が……ほんとの……われ……?
ノワが今にも消えそうに震え続ける。
アシェルは必死に抱き寄せるように手を伸ばす。
「ノワ!!
お前はお前だ!!
影がどう揺らいでも――
俺が知っているノワはひとつだ!!」
ノワは涙のような光を散らしながら言う。
――あしぇる……
――われ……
――“かんさつ される” と……
――じぶん が……きえてしまう……
アーカーが冷酷に説明する。
『当たり前だ。
ノワの存在は“観測”によって形が決まる。
今この場は、私という“上位存在”が観測している。
ゆえにノワの形は乱れる。』
アシェルの怒りが爆ぜた。
「お前……!!」
アーカーは静かに続ける。
『ノワは影だ。
黒核の副次として生まれた存在。
お前が変われば、それに引きずられて変わる。
当然だろう。』
ノワの声が震える。
――あしぇる……
――こわい……
――きえたくない……
――きみ が……しっている われ で……
――いたい……
アシェルはその言葉に強く胸を締め付けられた。
(ノワ……
お前は俺に“存在をもらっている”と思っている……
けど違う……違うんだ……)
アシェルははっきり言った。
「ノワ、お前は俺が作ったんじゃない。
お前は――自分の意思で俺といたいと言ったんだろ?
それが“ノワの形”だ。」
ノワの影が震えながら輝く。
――あしぇる……!!
アーカーの声が落ちる。
『……なるほど。
肉体と精神の境界を破壊しても、
お前の“核となる概念”は崩れないか。
面白い。』
アシェルは睨みつける。
「俺は……伸びた線のまま歩くだけだ。
何を乱されても、俺は俺だ。」
アーカーは嗤うように告げた。
『では――
“人間性そのもの”を剥ぎ取れるか、試してみよう。』
次の瞬間――
アシェルの視界、意識、身体感覚が完全に分離した。
視界は空へ。
身体は地へ。
意識は宙へ。
感情は別のどこかへ。
ノワが絶叫する。
――あしぇる!!!!
――だめ!!
――ばらばら に されたら……
――きみ は……“ひとり” に もどれない……!!
アーカーの声が響く。
『さあ、“例外”。
境界が消えても――
お前は“アシェル”でいられるか?
それともただの因果の欠片に戻るか?』
アシェルの声が遠くへ散りながらも――
確かな響きを持っていた。
「俺は……アシェルだ……
お前がどう呼ぼうと……
俺自身だけは……裏切らない……!!」
空間が激しく揺れ、
アシェルの各要素が再び一点に収束しようと動き始める。
ノワが光を放ち、叫ぶ。
――もどって!!
――あしぇる は……ひとつ!!
――われ が……つなぐ!!
その瞬間――
アシェルの黒核が爆ぜるように脈打った。
世界が真白に弾ける。
そして――
“次の領域”へ落ちた。




