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『精神試練⑦――生の理由』
紺色の空間が光に溶け、
次に姿を現したのは――
何もない白。
ただ真っ白。
影も、境界も、床も天井もない。
方向の概念すら消えた完全無構造の“白”。
ノワは怯えたようにアシェルにしがみつく。
――あしぇる……
――ここ……いや……
――ぜんぶ の もの が……けしとんでる……
アーカーの声が落ちてきた。
『ここが最後の門。
“生の理由”を問う領域だ。』
アシェルは眉を潜める。
「……生きる理由……?」
『そうだ。
恐怖、怒り、拒絶、孤独、喪失――
それらはすべて“死なないための理由”だ。
だがお前はまだ、“生きる理由”を示していない。』
アシェルは反論する。
「俺は復讐のために生きている。
それが俺の――」
アーカーが切り捨てるように言う。
『復讐は“生きる理由”ではない。
“死なないための理由”だ。』
アシェルは言葉を失う。
ノワが小さく囁く。
――あしぇる……
――ふくしゅう は……きみ の いきる すべて じゃ……ないよ……
アーカーが続ける。
『復讐には終わりがある。
終わりのある理由は“生き続ける理由”にはなれない。
生の理由とは――
“終わりを迎えても消えないもの”。』
アシェルの胸が強く脈打った。
(……終わりを迎えても……消えない……?
そんな理由が……俺に……?)
アーカーの声は淡々としているが、
どこか深い洞察が含まれていた。
『お前は何度も死から逃げ、
何度も自分を取り戻し、
何度も目的を掲げた。
だが一度も――
“何のために生きたいのか”を問わなかった。』
ノワがアシェルの袖を握る。
――あしぇる……
――これは……われ も てつだえない……
――“なぜ いきたい のか” は……
――あしぇる にしか……わからない……
アシェルはゆっくり息を吐いた。
「……俺は……
生きたいなんて……考えたことがなかった……」
妻の顔が浮かぶ。
(妻を守りたかったから生きた。
失ってからは復讐のために生きてきた。
それ以外……何も考えていなかった……)
アーカーが告げる。
『喪失、怒り、恐怖――
それらはお前の“起点”にすぎない。
だが“理由”ではない。
理由とは、起点の先に続くものだ。』
アシェルは問う。
「……なら……
“生の理由”って何なんだ……?」
白い空間が、波紋のように揺れた。
アーカーが答える。
『それを決めるのは――お前だ。
私は理由を提示しない。
それは外部から与えられるものではなく、
本来“自分の内側で産まれる”ものだからだ。』
アシェルは拳を握る。
(……俺の内側で産まれる理由……
そんなもの……俺に……?)
◆
◆白の世界が“問い”を形に変える
空間の白が、少しずつ形を取り始めた。
蝶のような形。
鳥のような形。
人のような形。
すぐに崩れて、また新しい形に変わる。
“定まらない意志”の具現だった。
アーカーが言う。
『お前にはまだ“未来像”が一つもない。
未来を思い描けない者に、
生きる理由など生まれようがない。』
アシェルは息を呑んだ。
(未来……
俺は一度も、未来を考えたことがない……
復讐の後の自分を想像できなかった……
だから“存在が薄れた”んだ……)
ノワが少しだけ微笑む。
――あしぇる……
――きみ が みらい を えがく なら……
――われ は……ずっと そば に いるよ……
アシェルは苦しげに言う。
「……未来なんて……
俺には似合わない……
俺は復讐者で……
血まみれで……
変わり果てた世界を歩くしか――」
ノワが首を振った。
――ちがう……!
――ふくしゅう した あと でも……
――きみ は “きみ の みらい” を えらべる……
――われ は……そう おもう……
アーカーが鋭く言う。
『未来を描け。
“怒りの先にある自分”を。
“喪失の先にある自分”を。
それができなければ、お前はここで存在が途切れる。』
アシェルは目を閉じた。
深い沈黙が落ちる。
(俺は……何のために生きたい……?
妻を救うためではなく……
復讐のためでもなく……
ノワを守るためでもなく……
塔を壊すためでもなく……
アーカーを倒すためでもなく……
その先に……何がある……?)
白い世界が揺れる。
アシェルの胸の黒核が脈打つ。
ドクン……!
ノワが小さく息を呑んだ。
――あしぇる……
――きみ の こころ……
――なにか……うまれ そう……
アーカーが静かに言う。
『言葉にしろ。
“生きたい理由”を。
それが、お前という存在の核になる。』
アシェルは、
ゆっくりと目を開けた。
そして、
震えながらも確かな声で言った。
「――俺は……」
白い世界が、
アシェルの答えを待つように凍る。
ノワが息を止める。
アーカーの声が響く。
『言え。
それが、お前が“例外”となる理由だ。』
アシェルは――
生まれて初めて、“生きたい理由”に触れた。




