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アシェルはただ走った。
自分でも驚くほど速く。
地面を蹴る感触すら曖昧になり、景色が線のように後ろへ流れていく。
(エルマ、エルマ……エルマ……!)
胸が焦げるように熱かった。
焦りではなく、本能だ。
村に近づくほど空気が重くなる。
何か巨大な“圧”に押しつぶされるような、耳が聞こえなくなるような。
やがて視界にロマルの家々が見えてきた。
その上を――
空の裂け目が走っていた。
まるで巨大な爪で引き裂かれたかのように、夕空が歪んでいる。
光が吸い込まれ、色彩がどす黒く沈み、空の一部が“透けて”見えていた。
「嘘だろ……あんな……!」
これはもう“ただの兆候”ではない。
世界の破断だった。
◆
村の中心では、住人たちが混乱していた。
「逃げろ! 空が割れてる!!」
「何が起きてるんだ、誰か説明してくれ!」
「エルマは!? エルマはどこだ!?」
アシェルは人混みを押しのけ、家へと走った。
「エルマ!! 返事してくれ!!」
彼の声が震える。
喉が詰まり、呼吸がうまくできない。
家が見えた。
灯りがついたまま。
扉が半開き。
中に気配は――ない。
「エルマ!!」
アシェルは家に飛び込み、部屋中を探す。
食器が棚から落ちて割れている。
揺れがあったのだろう。
しかしエルマの姿はどこにもない。
(まさか……外に……)
アシェルは心臓を掴まれたような痛みに顔を歪める。
◆
その時だった。
ドォン……!
巨大な鼓動のような音が村全体に響いた。
空の裂け目が一気に“開いた”のだ。
空間が二つに割れ、大きく口を開き、光が吸い込まれていく。
重力が歪み、地面が波打つ。
「アシェル!!」
エルマの声だ。
アシェルは振り向く。
エルマが村の井戸のそばに立っていた。
胸元を押さえ、こちらへ走ってくる。
「エルマ!!」
アシェルの視界が一瞬だけ明るくなる。
生きている。
無事だ。
それだけで膝が崩れそうになった。
「アシェル……! よかった……! どこ行って……!」
エルマが駆け寄ってくる。
その手を掴もうと――
空が鳴った。
バキィィィィィンッッ!!
雷でも爆発でもない。
“構造の破壊音”だ。
頭上の巨大な裂け目から、光が降ってきた。
だがそれは光ではない。
光に見える“空間の欠片”だった。
陥没するように空が“落ちてくる”。
「ダメだエルマ!! 下がれ!!」
アシェルは飛びついて抱き寄せる。
二人は地面へ転がり、埃が舞い上がる。
◆
次の瞬間。
世界が止まった。
音が消え、風が止まり、色が薄れた。
(な……んだ……? 動けない……)
アシェルの意識が白くなる。
強烈な圧力が四方から押し寄せてくる。
エルマも息が止まりそうなほど苦しんでいる。
「ア……シェル……っ……」
「エルマ、しっかり……!」
アシェルは必死にエルマを抱きしめるが――
その時、
彼の背後で、存在が“削れた”ような音がした。
ギ……ギギ……ギ……ッ……
振り返ると、
井戸の石壁が“まだらに消えている”。
破壊ではなく消失。
石が粒子となって、空へ吸い込まれる。
(これは……因果律の崩壊……?)
アシェルは理解できないながらも直感した。
この世界が、何かに“書き換えられている”。
その現象は――
エルマの足元にも広がっていた。
「エルマ……逃げ――」
言い切る前に。
世界が“裂け目の光”を吸った。
空から落ちてきた光の破片が、
エルマの右肩に触れた。
その瞬間。
「え……?」
エルマの肩が――
存在ごと消えた。
肉体が砕けたのではない。
血が流れたわけでもない。
ただ“肩が最初からなかった”かのように、
滑らかに消失していた。
「エルマ!!!!」
アシェルが叫ぶ。
エルマは驚愕と恐怖の表情でアシェルを見つめた。
口が震え、声がうまく出ない。
「ア……シェ……ル……っ……いたい……こわい……」
「大丈夫だ! 大丈夫だから!! 離れるな!!」
抱き寄せようとするが、
エルマの身体の輪郭が揺らいでいる。
(いやだ、やめろ……消えないでくれ……っ!!)
空が吠えた。
裂け目がさらに開き、光が渦を巻く。
「アシェル……!」
エルマが手を伸ばす。
アシェルも伸ばす。
あと少し。
触れられる。
もう一度抱きしめられる。
――だが。
エルマの腕が、
光に吸われて消えた。
そして。
胸が。
顔が。
声が。
次々に“存在を奪われる”。
「ア……シ……」
「待て! エルマ!! 行くな!! 消えるな!!」
アシェルの叫びは裂け目に吸い込まれた。
エルマは涙を流し、
しかし最後の瞬間、確かに微笑んだ。
――アシェル、ごめんね。
その言葉が音になったのか、
アシェルの心が勝手に聞いたのかはわからない。
ただその刹那。
エルマは光となって消えた。
跡形もなく。影すら残さず。
「…………ぁ…………」
「エルマぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
アシェルの叫びが、
裂けた空にも、崩れゆく村にも届くことはなかった。
ただ、静寂だけが広がっていた。




