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『アーカー領域:静かな崩壊の中心』
黒と白の層が閉じ切った時――
アシェルは“落ちた”。
感覚としては落ちている。
しかし身体は動いていない。
音も、風も、重力もない。
ただ“下へ向かっている概念だけがある”。
ノワはアシェルの肩にしがみつき、揺れている。
――あしぇる……
――ここ……やばい……
――“なにか” が……われら を みてる……
視線ではない。
姿でもない。
“意識だけ”がアシェルの内部と外部の境目を探ってくる。
アシェルは落ち着いた声で言おうとしたが、
喉が張り付いたように詰まる。
(これが……アーカー……?
サリエルとはまるで違う……
対話できる形を持ってすらいない……)
すると――
柔らかい声が
空気の代わりの“概念”を揺らして響いた。
『ここが心地よくないか、アシェル。』
その声は優しい。
だが 生物の声ではない。
アシェルは眉をひそめる。
「姿を見せろ……」
『姿?
姿とは、お前たち存在者が“認識を固定するために使う仮の殻”だ。
私には不要だ。』
黒と白が渦巻き、
一点がゆっくりと“形になろうとする”。
しかし――
形になる寸前で崩れ、別の形へ変わる。
人の影。
獣の影。
女性の姿。
崩れた塔の輪郭。
形は映るが、どれも“本物ではない”。
アーカーの声が続く。
『理解しろ。
私は“観測される前の存在”だ。
形は常に、お前が理解できるように“後から付与される”。』
ノワが青ざめた影で震える。
――あしぇる……
――これ……ひと じゃない……
――いんが の……“まえ” の もの……!
アシェルは拳を握る。
「お前が……村を消したんだな。」
アーカーは否定もしない。
『そうだ。
あの区域は“不必要な因果の集合”だった。
私が世界を保つために切り落としたにすぎない。』
アシェルの胸が熱を噴き上げる。
「……世界のため?
ふざけるな!!
お前はただの虐殺者だ!!」
アーカーは落ち着いている。
『違う。
お前の村は、もともと世界に“存在するはずのないもの”だった。』
アシェルは目を見開いた。
「……何だと……?」
ノワも震えながら聞き返す。
――“なかった はず の むら”?
――どういう……こと……?
アーカーは静かに説明する。
『元の因果計画では、お前の村は存在しない。
だが“異常因果”が外から流入したことで、一時的に形成された。』
アシェルは言葉を失った。
(……村が……異常因果の流入……?
まるで……間違って生まれた場所みたいに……)
アーカーは続ける。
『存在してはならないものを戻しただけだ。
お前の妻も、村人も、世界の本来の線にはいなかった。』
心臓の奥が凍る。
アシェルは拳を震わせて叫んだ。
「そんな“世界の線”なんてどうでもいい!!
俺たちは、確かにそこに生きていた!!
“存在しないはず”なんて理屈があるか!!」
アーカーは少しだけ興味を示した。
『生きていた、か……
それは“お前がそう観測した”というだけの話だ。』
ノワが怒りで影を震わせる。
――あしぇる の なに を しってる!?
――あしぇる の いのち の かけら を……
――おまえ は わかってない!!
アーカーは言う。
『理解する必要はない。
私は世界を整える者だ。
お前の感情は“因果のノイズ”。
取り除くべき歪み。』
アシェルは震える声で呟く。
「……じゃあ……
俺は“存在しない村の生き残り”だったというのか……?」
アーカーは淡々と答える。
『お前自身は存在していた。
だが、お前が“そこにいるはずの未来”は存在しなかった。
それだけだ。』
アシェルの胸に、理解しがたい痛みが走る。
(俺は……
“あるはずのない未来”を歩いていた……?
妻との結婚も、村の生活も……
全部、世界の線には“なかった未来”……?)
言葉を失ったアシェルに、
アーカーは静かに続ける。
『だから私は修正した。
それだけだ。』
ノワが叫ぶ。
――それ が……
――どれだけ ひどい こと か……
――おまえ に わかる もんか!!!
アーカーは冷たい。
『理解も不要。
私の仕事は“整合性”だ。
感情ではない。』
アシェルはゆっくりと顔を上げた。
その目には怒りではなく、
深い理解と、選ぶ意思が宿っている。
「……なるほど。
少しだけ分かった。」
アーカーが初めて警戒の色を示す。
『何を理解した?』
アシェルは言う。
「俺は……怒りでここまで来たわけじゃない。
奪われたからでもない。」
ノワが驚く。
――あしぇる……?
アシェルは拳を握り直す。
「俺は、“世界に否定された人生”を、
俺自身が肯定するためにここまで来た。」
「お前の言う“整合性”なんて知らない。
俺が生きた事実は――俺が決める。」
アーカーは静かに息を飲んだ。
『……ふむ。
サリエルが言った通りだ。
やはりお前は“例外”。
世界がどの線を引いても、そこに落ちない。』
そして声が変わる。
先ほどまでの冷静さと違い、
明確な“興味”と“敵意”が混じり始めた。
『――ならば見せてもらおう。
本当に“世界そのものと戦う意思”があるのかを。』
空間が割れ、
アシェルの心の深部を揺さぶる幻影が現れた。
それは――
アシェルが決して口にしてこなかった“恐怖の形”。
ノワが震える。
――あしぇる……あれ は……
――きみ の “ほんとう の いたみ”……
アシェルは一歩踏み出す。
「上等だ、アーカー。
俺に向けるなら全部見せろ。」
そして、アーカーの精神試練が始まる。




