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日が傾き始める頃、村の風景は鮮やかな橙色に染まっていた。
普段なら美しい夕暮れとして人々の心を癒す時間。
しかし今日の夕陽はどこか色が濃く、重すぎた。
「……赤いな」
アシェルは家の前で立ち止まり、空を見上げた。
夕焼けは本来なら一面に広がるはずだが、今日は妙な“境目”がある。
色の濃淡が線を引いたように不自然に分かれ、
まるで空のキャンバスが二枚重なったように“ずれて”いた。
風が吹く。
だが空のずれは直らない。
「アシェル? 今日は畑、もう終わり?」
エルマが家から顔を出す。
その笑顔は心を和ませるが、アシェルの不安は消えなかった。
「ああ……今日はもう無理だ。なんか、体が落ち着かない」
「それ、私も……なんだか変な胸のざわざわがして……」
エルマがアシェルの腕にそっと手を重ねる。
「大丈夫だよね?」
「……大丈夫だ。俺がいる」
言い切った。
だが胸の奥では“本当に守れるのか”という恐れが静かに渦巻いていた。
◆
夜。
ロマルは昼に比べて静かだが、今日は異様なほど静まり返っていた。
虫の声がない。
風の音がない。
水路の流れすら、耳に届かない。
音が消えた世界は、現実感を薄れさせる。
「ねえアシェル、聞こえる?」
「……ああ。何も聞こえない」
二人は囲炉裏の前で膝を抱えて座っていた。
まるで、外の沈黙が扉まで染み込んでくるようだった。
「こんな静かな夜、初めてかも」
「虫が鳴かないなんてな……」
「やっぱり変だよ、最近の空。割れてるみたいに見えるし……」
エルマはアシェルの袖をぎゅっと摘んだ。
「ねえ、アシェル。都会に行くの、ちょっとだけ延期しない?」
「……そうだな。少し様子をみてもいいかも」
その瞬間、エルマはほっと息を吐き、アシェルの肩にもたれた。
「ありがとう……なんかね、予感がするの」
「予感?」
「うん。行くなら行くでいいんだけど……今じゃない、って」
「……」
エルマの声には、冗談も気休めもない、本気の響きがあった。
アシェルは髪をそっと撫でて答えた。
「わかったよ。今は焦らない」
「うん……ありがと」
◆
しばらくすると、
――コン、コツン
と、遠くで何かが鳴った。
「……今の、聞こえたか?」
「う、うん……何の音?」
外を覗くと、村の端にある見張り塔が微かに揺れていた。
塔の上には村の若い男たちが常駐しているが、今日は誰もいないようだ。
「様子見てくる。エルマは家にいてくれ」
「ダメ、私も行く」
「危ないかもしれない」
「アシェル一人を危ない目に合わせる方が嫌だよ!」
エルマの気迫に押され、二人で外へ出た。
◆
ロマルの村を縦に走る石畳の道を進む。
風は吹いているのに、風の音がまったくしない。
影は揺れるのに、葉のざわめきがない。
世界の“音”が消えていた。
「アシェル……怖いよ……」
「大丈夫、俺がそばにいる」
そう言いながらも、アシェルの背筋に冷たい汗が流れる。
見張り塔の下に到着。
塔は古木の柱で組まれており、普段は村の子供たちが遊び場にしている。
(なぜ揺れている? 風もないのに――)
塔の頂上を見上げた瞬間、アシェルは気づいた。
「……倒れかけてる……?」
塔の柱が、
根元から“ずれたように”ひび割れている。
崩れたのではない。
外力が加わったのでもない。
存在そのものが、数ミリ左右に引き裂かれたように分離していた。
「なに、これ……なんなの……」
エルマの声が震える。
(これは……自然現象なんかじゃない……)
アシェルは確信する。
空のひび、木の裂け目、そして塔の“ずれ”。
それはすべてつながっている。
(世界の構造が……揺らいでいる?)
その思考が頭をよぎった瞬間――
塔の上から、乾いた音が落ちてきた。
ぱき……ぱき……ぱき……
木材が“剥がれる音”。
だが崩壊ではない。
まるで塔の一部が存在を拒まれるように、“因果的に分離”していく。
「アシェル! 離れて!」
エルマが腕を引っ張る。
アシェルは彼女を抱き寄せ、数歩後退した。
◆
その時だった。
――空気が、抜けた。
村全体から、音が吸い込まれたような深い沈黙。
その中心に、塔の上で何かが“生まれかけている”気配。
アシェルは身体が震えるほどの恐怖を感じた。
「……逃げよう、エルマ。すぐにここから離れよう」
「う、うん……!」
二人は全速力で走り出す。
背後で――
バチンッ!!!!
塔が“見えない力に押しつぶされたように”崩れ落ちた。
爆音でもなく、破壊音でもない。
まるで“存在が消える瞬間”のような、異様な破断音。
砂煙と木片が舞い上がる。
「アシェル! 早く……!」
(何かが来る……これはただの前兆じゃない……)
アシェルの直感が叫んでいた。
“世界のひび割れ”が確実に近づいている。
そしてそれは――
ロマルの平和を容赦なく、確実に奪い取る。




