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カーディア  作者: アデル
第一章 第一項 谷間の農村ロマル
3/83

3

 翌朝も、村の空気はいつもと同じように見えた。

 見えた――はずだった。


 鳥の鳴き声。

 風に揺れる麦の音。

 遠くで牛を追い立てる少年の声。


 すべてが平和そのもの。

 だがアシェルの耳には、その音がどこか遠く、

 薄い膜を隔てたように聞こえていた。


 



 


「よいしょっと……うん、今日もいい苗だね」


 エルマが苗床で作業している。

 手慣れた動作で根を整え、土にそっと置いていく姿は見ていて飽きない。


「エルマ、それ昨日も言ったぞ」

「だってほんとにいい苗なんだもん。聞いてよアシェル?」

「何だ?」

「こうやって育てた苗がさ、都会でも育つかなあって。

 気候も違うし、土も違うし……でも、挑戦してみたいなぁって」


 エルマの目は、単なる農村の娘とは思えないほど輝いていた。

 アシェルはその輝きに胸が温かくなる。


「きっと育つさ。エルマの苗だからな」

「またそういうこと言う! 本気で言ってる?」

「本気だよ。俺より畑のことわかってるのは、お前だけだ」


 エルマは照れて頬を赤くし、鍬で軽くアシェルの足を突く。


「ふふん……じゃあ都会に行っても畑やっていい?」

「もちろん。むしろ、都会で一番の農園を作るんだろ?」

「うん! ぜったい作る!」


 二人は笑い合う。

 まるで未来がまっすぐそこに伸びているかのように。


 



 


 だがその微笑ましい会話のすぐ側で、

 アシェルの意識の端に、また“違和感”が引っかかった。


 風が止まった。

 いや、“一瞬止まったように感じた”。


 風が止まるのは自然だ。

 しかし、その止まり方が不自然だった。


 まるで、風の原因そのものが世界から抜き取られたような、

 唐突で、不連続な静けさ。


 アシェルは周囲を見渡す。

 エルマは気づかず苗床の手入れを続けていた。


(気のせい……じゃない気がする)


 不安が小石のように胸の中へ落ちる。


 その瞬間、彼の影がふっと揺れた。


 太陽の光が弱まったのではない。

 アシェル自身の“存在の輪郭”が、わずかにブレた。


「……!」


「どうしたのアシェル?」


「いや、なんでも――」


 言いかけて、やめた。

 理由もなくエルマを不安にさせる必要はない。


 



 


 昼過ぎ、村の長老ウズルがアシェルに話しかけてきた。

 白い髭を揺らしながら、杖をつきつつ近づく。


「アシェル、お前さん最近、空の“音”を聞かんか?」


「音……ですか?」

「そうじゃ。普通の風の音と違ってのう、

 遠くから、何かを引きずるような……そんな低い音よ」


 エルマがびくりと肩を震わせた。


「や、やめてよウズルさん、怖いこと言わないで!」

「怖がらせとるつもりはない。だがの……

 この村には昔から伝承があってな」


「伝承……?」

「空が割れる時、世界の秩序が揺らぐ……とな」


 エルマの手がアシェルの腕をぎゅっと掴んだ。

 アシェルは冗談めかして笑って見せる。


「そんな大げさな」

「そうかもしれんがな……お前さんの家の裏手の木、見たか?」


「木……?」

「割れとるんじゃ。縦に、刃物も使わずに。

 その割れ目……空の“ひび”に似ておる」


 空気が、一瞬だけ固まった。


 エルマの表情が強張る。

 アシェルの喉が乾く。


 



 


「アシェル、見に行こう……!」


 エルマは不安を押し殺しながらも勇気を出して言った。

 アシェルは頷くと、二人で家の裏手へ向かった。


 村の外れ、少し高台になった場所に一本の古木がある。

 エルマのお気に入りの木で、よく二人で座って語り合った。


 だが――


「……本当だ……」


 木の幹が、

 まっすぐに“裂けていた”。


 だが奇妙なことに、割れ目は乾燥していない。

 まるで“今この瞬間まで”何も起きていなかったように、

 木の内側が生々しく露出している。


「なにこれ……誰が……?」

「いや……刃物でこんなに綺麗に切れない」

「じゃあ……なんで……」


 アシェルはゆっくりと木の割れ目に手を触れた――


 


 その瞬間、

 風が逆向きに吹いた。


 エルマの髪が、風とは逆方向へ巻き上がる。

 草は片側だけが強制的に押し倒される。

 空気が“引っ張られる”感覚。


「アシェル! 離れて!」


「大丈夫、エルマ!」


 だがアシェル自身も胸がざわついていた。

 木から離れようとした瞬間――


 空の端が、

 ビキッ と音を立てて割れた。


 実際に鳴った音か、頭の中の音かはわからない。

 だが確かに“裂けた”。


「ア……シェル……?」


 エルマの声が震える。


 空の裂け目はすぐ閉じたが、

 アシェルの心臓だけは大きく脈打ち続けていた。


(……何かが、この村に近づいている)


 そんな不吉な感覚が、確かな形を持ち始めていた。


 



 


「帰ろう、エルマ。今日は……少し休もう」


「うん……アシェル、手、握ってて」


「離さないよ」


 エルマの手は震えていた。

 アシェルは強く握り返し、ゆっくりと家に戻り始めた。


 背後の古木から、

 風が吹いてもいないのに、木片がひとつ、

 ぽたりと地面へ落ちた。


 それはまるで――

 “世界の断面”が剥がれ落ちたような、異様な光景だった。

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