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翌朝も、村の空気はいつもと同じように見えた。
見えた――はずだった。
鳥の鳴き声。
風に揺れる麦の音。
遠くで牛を追い立てる少年の声。
すべてが平和そのもの。
だがアシェルの耳には、その音がどこか遠く、
薄い膜を隔てたように聞こえていた。
◆
「よいしょっと……うん、今日もいい苗だね」
エルマが苗床で作業している。
手慣れた動作で根を整え、土にそっと置いていく姿は見ていて飽きない。
「エルマ、それ昨日も言ったぞ」
「だってほんとにいい苗なんだもん。聞いてよアシェル?」
「何だ?」
「こうやって育てた苗がさ、都会でも育つかなあって。
気候も違うし、土も違うし……でも、挑戦してみたいなぁって」
エルマの目は、単なる農村の娘とは思えないほど輝いていた。
アシェルはその輝きに胸が温かくなる。
「きっと育つさ。エルマの苗だからな」
「またそういうこと言う! 本気で言ってる?」
「本気だよ。俺より畑のことわかってるのは、お前だけだ」
エルマは照れて頬を赤くし、鍬で軽くアシェルの足を突く。
「ふふん……じゃあ都会に行っても畑やっていい?」
「もちろん。むしろ、都会で一番の農園を作るんだろ?」
「うん! ぜったい作る!」
二人は笑い合う。
まるで未来がまっすぐそこに伸びているかのように。
◆
だがその微笑ましい会話のすぐ側で、
アシェルの意識の端に、また“違和感”が引っかかった。
風が止まった。
いや、“一瞬止まったように感じた”。
風が止まるのは自然だ。
しかし、その止まり方が不自然だった。
まるで、風の原因そのものが世界から抜き取られたような、
唐突で、不連続な静けさ。
アシェルは周囲を見渡す。
エルマは気づかず苗床の手入れを続けていた。
(気のせい……じゃない気がする)
不安が小石のように胸の中へ落ちる。
その瞬間、彼の影がふっと揺れた。
太陽の光が弱まったのではない。
アシェル自身の“存在の輪郭”が、わずかにブレた。
「……!」
「どうしたのアシェル?」
「いや、なんでも――」
言いかけて、やめた。
理由もなくエルマを不安にさせる必要はない。
◆
昼過ぎ、村の長老ウズルがアシェルに話しかけてきた。
白い髭を揺らしながら、杖をつきつつ近づく。
「アシェル、お前さん最近、空の“音”を聞かんか?」
「音……ですか?」
「そうじゃ。普通の風の音と違ってのう、
遠くから、何かを引きずるような……そんな低い音よ」
エルマがびくりと肩を震わせた。
「や、やめてよウズルさん、怖いこと言わないで!」
「怖がらせとるつもりはない。だがの……
この村には昔から伝承があってな」
「伝承……?」
「空が割れる時、世界の秩序が揺らぐ……とな」
エルマの手がアシェルの腕をぎゅっと掴んだ。
アシェルは冗談めかして笑って見せる。
「そんな大げさな」
「そうかもしれんがな……お前さんの家の裏手の木、見たか?」
「木……?」
「割れとるんじゃ。縦に、刃物も使わずに。
その割れ目……空の“ひび”に似ておる」
空気が、一瞬だけ固まった。
エルマの表情が強張る。
アシェルの喉が乾く。
◆
「アシェル、見に行こう……!」
エルマは不安を押し殺しながらも勇気を出して言った。
アシェルは頷くと、二人で家の裏手へ向かった。
村の外れ、少し高台になった場所に一本の古木がある。
エルマのお気に入りの木で、よく二人で座って語り合った。
だが――
「……本当だ……」
木の幹が、
まっすぐに“裂けていた”。
だが奇妙なことに、割れ目は乾燥していない。
まるで“今この瞬間まで”何も起きていなかったように、
木の内側が生々しく露出している。
「なにこれ……誰が……?」
「いや……刃物でこんなに綺麗に切れない」
「じゃあ……なんで……」
アシェルはゆっくりと木の割れ目に手を触れた――
その瞬間、
風が逆向きに吹いた。
エルマの髪が、風とは逆方向へ巻き上がる。
草は片側だけが強制的に押し倒される。
空気が“引っ張られる”感覚。
「アシェル! 離れて!」
「大丈夫、エルマ!」
だがアシェル自身も胸がざわついていた。
木から離れようとした瞬間――
空の端が、
ビキッ と音を立てて割れた。
実際に鳴った音か、頭の中の音かはわからない。
だが確かに“裂けた”。
「ア……シェル……?」
エルマの声が震える。
空の裂け目はすぐ閉じたが、
アシェルの心臓だけは大きく脈打ち続けていた。
(……何かが、この村に近づいている)
そんな不吉な感覚が、確かな形を持ち始めていた。
◆
「帰ろう、エルマ。今日は……少し休もう」
「うん……アシェル、手、握ってて」
「離さないよ」
エルマの手は震えていた。
アシェルは強く握り返し、ゆっくりと家に戻り始めた。
背後の古木から、
風が吹いてもいないのに、木片がひとつ、
ぽたりと地面へ落ちた。
それはまるで――
“世界の断面”が剥がれ落ちたような、異様な光景だった。




