2
夜のロマルは、都会のような人工灯をほとんど持たない。
代わりに、満天の星空が村全体を照らすように降り注ぐ。
アシェルの家の軒先では、エルマが藁の束を干しながら鼻歌を歌っていた。
風に揺れる藁の音が、彼女の声に合わせてさわさわと響く。
「ねえアシェル。都会って、夜も明るいんだよね?」
「らしいな。星が見えないって話もよく聞く」
「それってちょっと寂しくない?」
「俺は星なくても構わないけど、こういう匂いはないんだろうな」
アシェルは手に持った木箱を置き、深く息を吸った。
土と草の匂い。それに少しだけ混じる、どこか甘い香り。
エルマが使っている手作り石鹸の香りだ。
「……戻ってきたくなるかもな、都会で疲れたら」
「うん。それならすぐ帰ってきてもいいんだよ? 私だけ先に行ってもいいし」
「まさか。置いていかれたら生きていけない」
「ふふん、言ったね? じゃあしっかりついてきてよ」
二人の笑い声が夜の静けさに溶けていく。
◆
家の中では、古い家族写真が飾られた棚がある。
アシェルの両親は彼が十代半ばの頃に亡くなり、エルマの家族が彼を支えてくれた。
その影響もあって、アシェルはエルマのことを“家族以上”に感じていた。
夕食後、二人は片付けを終え、囲炉裏の前でくつろぐ。
薪がゆっくりと爆ぜ、小さな火の粉が舞った。
「アシェル、覚えてる?」
「……何を?」
「私たちが初めて一緒に畑耕した日! あの日、アシェルってば――」
「言うな! 頼むから言わないでくれ!」
エルマは声をあげて笑う。
「泥だらけになって、転んで、苗ぜんぶ折って!」
「仕方ないだろ、初めてだったんだ」
「でもあの日、私、思ったんだよ」
「……ん?」
エルマは真剣な表情になった。
「“ああ、この人となら、どこに行っても楽しいだろうな”って」
「……」
アシェルは言葉を失い、火のゆらぎが彼の横顔を照らす。
返事をしようとしたその瞬間――
家全体が ごく僅かに 揺れた。
ほんの一瞬。
エルマも気づかないほどのかすかな振動。
地震とも違う、重心を針でつつかれたような異質な“感触”だった。
アシェルは眉をひそめた。
「……今、何か揺れた?」
「え? 揺れた?」
「いや……気のせいかもな」
そのやり取りの裏で、外の空に微かな“ひび”が走っていた。
通常なら人の目には映らない、それは “世界の因果構造” の裂け目。
しかし、この時のアシェルもエルマも、それに気づくことはなかった。
◆
翌朝。
太陽がまだ東の山の端を越えていないのに、村の広場が騒がしい。
「なんだ……?」
「アシェル、来て! 村長さんが!」
二人が駆けていくと、村長ハルドが村人を前に紙を掲げていた。
紙は王国政府からの通達だ。
因果技術研究省の印章が押されている。
『国境地帯における軍事衝突増加のため、
一般地域においても因果防護訓練の実施を義務とする』
村人の誰もが顔を見合わせる。
「いやだねぇ……戦が近いということかい?」
「ロマルは遠いのに……また税を取られるのか?」
「訓練って、何をするんじゃ?」
エルマがアシェルの袖を引く。
「ねえ、これって……」
「ただの予防措置だよ。街ではもっと前からやってるらしいし」
「でも……都会に行く話、しばらく延ばした方がいいのかな……」
アシェルは悩むように目を閉じた。
――行きたい。
――行かなきゃいけない。
――でも今、エルマを連れて行っていいのか?
そんな迷いが胸で絡まる。
◆
村長が人々を散らしたあと、アシェルに近づいてくる。
「アシェル、お前さん、最近“空の色”に気づいてるか?」
「……見てはいます」
「やはりか。わしにもわかる。あれは尋常じゃない」
アシェルは息を呑む。
「村長も……?」
「年寄りの勘じゃよ。こういうのは妙に当たるもんじゃ」
「……」
村長の眼差しには、有無を言わせぬ重さがあった。
「お前とエルマの未来を応援したい気持ちは変わらん。
だが……急ぐことはない。
“世界の空気”が変わっておる。落ち着くまで待つのも手じゃ」
アシェルの胸に、得体の知れない不安が走る。
「……わかりました」
そう答えたものの、内心はざわついていた。
◆
昼過ぎ。
エルマと畑の畔を歩きながら、アシェルは空を仰ぐ。
太陽は照っている。
雲も流れている。
だけど――空の端に、薄い線のような“ひっかき傷”が見えた。
「また……だ」
アシェルは立ち止まった。
「え?」
「いや……なんでもない。木の影と見間違えたのかもしれない」
エルマは不安げにアシェルの手を握る。
「ねえ、アシェル。
もし……もし何かあったら、逃げようね。
どこだっていい、私、アシェルと一緒なら……」
言葉の先が震えていた。
アシェルはその手を握り返す。
「何があっても、俺が守る。絶対に」
その言葉は確かに本心だった。
しかし――
この時のアシェルは知らない。
“守る”という約束が、
後の人生で最も彼を苦しめる誓いになることを。
そして、空のひびはこの瞬間、
とても小さく、しかし確実に広がった。
ロマルの村が最後に迎える“普通の一日”は、
すでに終わりかけていた。




