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カーディア  作者: アデル
第一章 第一項 谷間の農村ロマル
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1

 谷を抜ける風は、いまの季節だけ妙に澄んでいる。

 冬が溶けきらず、しかし春が遠慮なく芽吹き始める、そんな境界の匂いだった。


 ロマルの村は、山裾にへばりつくように広がっている。

 棚田が段々に続き、その間を縫うように水路が光を反射していた。

 朝日が土の粒をひとつずつ照らし上げる様子は、都会の者が見れば絵画のようだというが、

 村の者にとっては「ああ今日も一日が始まった」というだけの景色だった。


 ただし、アシェル・レイヴにとっては、少しだけ特別に見える。

 今日の景色は、妙に輝いて見えた。

 いや、景色というよりも、その先にいる人物のせいだ。


「アシェルー! またぼーっとしてるでしょ!」


 麦畑の向こうから、明るい声が跳ねてくる。

 その主、エルマが鍬を肩に担ぎ、額に汗をにじませながら歩いてきた。

 白いシャツの袖を肘までまくり、腰には布袋を下げている。

 どこにでもいる農村の娘――そう紹介すれば簡単だが、アシェルにとってはこの世のどこよりも眩しい存在だった。


「ぼーっとじゃなくて、考え事だよ」

「はいはい、都会での暮らしのこと?」

「……お見通しだな」


 エルマはにやりと笑って、アシェルの胸を軽く拳で叩く。

 その動作ひとつが、彼を妙に落ち着かせる。


「そりゃあね。だって、アシェルが遠くを見てるときは、だいたい“将来のこと”ばっかりなんだから」

「未来に向かってるつもりなんだけどな。気づいたら、遠くを見てるって言われる」


 エルマは空を見上げ、肩をすくめた。


「んー……まあ、いいんじゃない? 遠くを見るのも近くを見るのも、アシェルらしいよ」

「らしい……って褒めてるのか?」

「褒めてる! ……たぶん!」


 二人は笑った。

 この空気こそが、ロマルそのものだった。


 



 


 午前中いっぱいの作業が終わると、二人は丘の上に腰を下ろした。

 吹き上がる風が、麦の穂をなでる音を運んでくる。

 エルマは弁当箱を渡しながら言った。


「ねえ、アシェル。本当に都会へ行くの?」

「本当に、って……俺たちで決めたことだろう?」

「うん。でも……」


 言葉が途中で途切れる。

 エルマがこんなふうに歯切れ悪くすることは珍しい。


「……でも、なんかね。最近、空の色が変じゃない?」

「空の色?」

「うん。ほら、夕方になると……ちょっと紫っぽい日が続いてるでしょ」


 アシェルは思い返す。

 確かに、戦争がどこか遠い国で起きているらしく、村の人々は噂話としてそのことを語っていた。

 “因果兵器”という新兵器が使われている――その程度の話だ。


 ロマルの村人は、因果技術を深く理解していない。

 井戸を掘るときや肥料の計算に使える便利な技術くらいにしか思っていない。

 遠くの国の争いで使われるような強烈な兵器とは、ほど遠い感覚だ。


「たしかに、少し気になる色ではあるな」

「でしょ……? 私、あんまり怖い話とかしたくないんだけど、あれって……その……」

「因果兵器の影響とか?」

「……言っちゃった!」


 エルマは自分の言葉に驚いて、口を両手で塞ぐ。

 アシェルは苦笑しつつ、頭を軽く撫でた。


「大丈夫だよ。ここは国境からも遠い。戦争なんて別世界のことさ」

「そうだといいけど……」


 不安は風に乗って消えていくように見えた。

 だが、アシェルは胸の奥に針が刺さるような感覚を覚える。

 あの紫がかった空は、ただの気のせいだろうか?


 ――いや。

 遠くで何かが進んでいる。

 そんな“匂い”だけが確かにあった。


 



 


 村の広場では、老人たちの談笑が聞こえていた。


「最近はなんでも因果だの確率だので難しゅうなったのう」

「わしら若い頃は、雨が降るかどうかは神頼みじゃったわい」

「神も予算削減で引退したらしいぞ」

「わはは!」


 その軽口に、アシェルも笑う。

 この村は、戦争の匂いも、政治の匂いも、縁がない。

 ただ“日々を生きる”だけ。


 だが、そんな日常の中でも、ほんの小さな影は確かに存在していた。


「アシェル、また都会に行く話してたんだって?」

 振り向くと村長ハルドが立っていた。

 恰幅のいい体を揺らしながら、アシェルの肩を叩く。


「うちの娘まで巻き込んで……いや、応援はするぞ。するけどな?」

「……圧をかけないでくださいよ」

「婿に行くならたくさん働け。それだけだ」

「村長、それ“婿に行く”って言い方おかしくない?」

「細かいことを気にするな!」


 エルマは腹を抱えて笑う。

 アシェルもつられて笑った。


 しかし、その笑いの裏側で、

 エルマの視線は遠く、紫がかった空の向こうを気にしていた。


 アシェルはその視線に気づきながら、

 胸の奥で何かが静かに揺らぐのを感じていた。


 



 


 夕暮れ。

 家に戻ったアシェルは、ふと足を止めた。


 空の色が……また変だ。


 紫濃度が増している。

 境界線のように光が揺らぎ、雲が不自然な形で裂けている。


「なんだ……? この空は……」


 風の音が変わる。

 耳鳴りのような低い振動が混じる。


 エルマが戸口から顔を出す。


「アシェルー? どうしたの?」


 アシェルは微笑んで返した。


「ああ、なんでもない。ちょっと空が変だなと思って」


「変だけど……変だからって怖がってちゃやっていけないよ?

 明日は畑の手入れもしないといけないし、ご飯も食べないといけないし」


「そうだな……」


 エルマは夕食の匂いを漂わせながら、家の中へ引っ込む。

 アシェルはその背を見ながら、どうしても目が離せなかった。


 


 空が――“ひび割れて見えた”。


 


 しかし次の瞬間、割れ目はただの影となり消える。

 残ったのは、いつもの田園の夕景だけだった。


「気のせい、だよな……」


 アシェルは小さなため息とともに、家へ戻る。


 この時、彼はまだ知らない。

 ――その“空のひび”こそ、因果構造の“揺らぎ”だったことを。


 そして、それが、

 彼の妻を、未来を、世界を破壊する最初の前兆であったことを。

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