第8話:青春の小さな喜び
休日の朝、私は鏡の前で服を選んでいた。
クローゼットの中には、制服以外の服が数えるほどしかない。流行に詳しいわけでもなく、ブランド物も持っていない。だけど、今日はどうしても「かわいく」見せたかった。
相手はからす。
鼻ピアスに黒髪ロング、パーカー姿が似合うあの人に、少しでも釣り合いたかった。
鏡に映った私は、どう見ても普通の女子高生だ。髪もいつものように後ろでまとめただけ。だけど、胸の奥で高鳴る鼓動は「今日は特別な日だ」と主張していた。
からすに誘われたのは、一週間前。
「今度さ、遊園地行ってみない?」
いつものバーでも夜の街でもなく、昼間の場所。そう聞いた瞬間、胸が熱くなった。
からすは大人で、私は子ども。そう思っていた。だけど、その一言で「一緒に並んで笑える未来」を少しだけ夢見てしまった。
――待ち合わせ場所は駅前。
時間より少し早く着いた私は、人混みの中で落ち着きなく周囲を見回した。
やがて、からすが現れた。
パーカーじゃない。
白いブラウスに黒い細身のパンツ。首元には細いネックレスがきらりと光っている。夜の姿と違って、少し大人びた女性そのものだった。
「お待たせ」
その笑顔に、思わず息をのんだ。
私はうまく言葉が出ず、ただ首を振る。
「ううん、私も今来たところ」
定番のセリフがやっと出た。
遊園地へ向かう電車の中、からすは窓の外を見ながら何気なく話しかけてきた。
「高校生のデートって、こんな感じなんだろうね」
その言葉に、胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。
「……そうだね。私、こんなの初めてだから」
声が小さくなったけど、からすはちゃんと聞いていて、微笑んだ。
「じゃあ、今日は記念日だね」
到着した遊園地は、人でにぎわっていた。子ども連れの家族、学生同士のグループ、カップルたち。
私たちはきっと後者に見えるのだろう。
そう思うと、足取りが少し軽くなる。
「まず、何乗る?」
からすがパンフレットを広げる。
私は迷った末に、観覧車を指さした。
「ベタだね」
からすが笑う。だけど、その目は楽しそうだった。
観覧車のゴンドラに二人きりで乗り込む。
ゆっくりと上昇するにつれ、街が小さくなっていく。
私は手のひらに汗をかきながら、隣のからすを盗み見た。
彼女は窓の外を見ている。横顔が美しい。夜の街で見たときよりも、ずっと柔らかい表情だった。
沈黙に耐えられなくて、私は口を開いた。
「からすは、こういうの……来たことある?」
「昔、友達とね。でも、恋人と来るのは初めて」
恋人――。その言葉が胸の中で響いた。
私は顔が熱くなるのを感じた。
「……私も」
短く答えるのが精一杯だった。
頂上に差しかかると、ゴンドラは一瞬止まった。
景色は息をのむほど美しいのに、私の視線は彼女から離れなかった。
からすもこちらを見て、ふっと笑った。
「怖い?」
「……少し」
そう答えると、彼女は私の手を取った。
夜のときとは違って、昼間の太陽の下でつなぐその手は、不思議と温かくて、安心感に包まれた。
観覧車を降りた後は、絶叫マシン、メリーゴーラウンド、射的。
どれも子どもの遊びみたいだけど、からすと一緒だと全部が特別に思えた。
ジェットコースターで叫んで、二人で笑い合って。メリーゴーラウンドでは「なんか似合わないね」ってからすが照れくさそうに言って。射的では、からすが器用に景品を落として私にくれた。
その一つひとつが、胸の奥に焼きついていった。
昼食は園内のレストランで。
私はオムライスを頼み、からすはハンバーグ。
「学生っぽいなあ」
からすが笑いながらスプーンを動かす。
「からすだって、十分学生っぽいよ」
そう返すと、彼女は少し黙って笑った。
その笑顔の奥に、どこか切なさが滲んでいるように見えた。
――夕方になり、最後にもう一度観覧車に乗った。
今度は沈黙も怖くなくて、ただ隣に座っているだけで胸が満たされる気がした。
「今日はどうだった?」
からすが聞いてくる。
「すごく……楽しかった」
本音だった。
「また来たい?」
「うん。からすと一緒なら」
言った瞬間、恥ずかしくなって俯いた。
だけど、彼女は優しく笑っていた。
ゴンドラが降りて、出口へ向かうとき、ふと胸が締めつけられた。
こんな日々が、永遠に続くわけじゃない。
どこかで薄々気づいていた。
だけど今は、考えたくなかった。
遊園地を出ると、夕焼けが街を赤く染めていた。
からすが隣で歩いている。その横顔を焼きつけるように、私は見つめた。
――これが、私の青春の小さな喜び。
短い一日。でも、心の奥に永遠に残る思い出。




