17話:遠い田舎へ
夜行バスの窓は曇っていた。ガラス越しに映る自分の顔は、どこか遠くを見つめているようで、まるで他人のものみたいだった。
車内の灯りは薄暗く、隣の席には誰もいない。ひとりきりのこの空間が、まるで今の私そのものだった。
夫と別れてから、部屋の静けさに耐えられなくなった。
けれど、私の胸を最も強く締めつけたのは、彼がいなくなったことではなく、私の心の奥深くに眠っていた「からす」の存在が、日に日に大きくなっていったことだった。
「意味があるの?」
あの日、カフェで友人の直美が言った言葉が、まだ耳に残っている。
「からすを探して、どうするの? 彼女は昔の人でしょ」
確かにその通りだ。
十年以上も会っていない。
彼女が今どこで、どんなふうに生きているかなんて、誰も知らない。
でも私は答えた。
「会わなきゃ、私、前に進めない気がするの」
直美は黙って私を見て、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、彼女の知り合いを通じて、からすがかつて出入りしていた場所の噂を集めてくれた。
そこから辿った先に、ひとつの情報があった。
――都会を離れ、田舎で暮らしているらしい。
バスは高速道路を走り続けている。
街の光が少しずつ遠ざかり、闇の中に溶けていった。
私は目を閉じ、からすとの記憶を手繰り寄せる。
背中に落書きをされた日のこと。
笑いながら「来な」と言った、低くて少しかすれた声。
あのときの私は、何もかもが新鮮で、彼女の言葉ひとつで世界が色づくように思えた。
けれど、彼女の目の奥には、時折、拭えない影が宿っていた。
自分は、「からす」だと
そう吐き捨てた夜のことも覚えている。
その意味を、当時の私は深く考えもしなかった。
けれど今ならわかる。
彼女は生きるために、そう言わざるを得なかったのだ。
誰にも見せられない傷を抱えながら、それでも笑っていた。
私は窓の外に目をやりながら、小さく呟いた。
「からす……今、どこにいるの?」
田舎に着くのは朝方の予定だ。
眠らなければと思うのに、胸がざわざわして目を閉じられない。
私の人生は、夫と別れたことで空っぽになった。
けれど、だからこそ埋められる隙間がある。
その隙間に、からすを探す旅が流れ込んできたのだ。
もし会えなかったら――。
そのときは、その現実を受け止めるしかない。
けれど、会う努力もしないで諦めることはできなかった。
バスのエンジン音に揺られながら、私はシートに体を預ける。
朝が来れば、新しい場所に降り立つ。
そこで待っているものが、再会か、あるいは空虚か。
まだ何もわからない。
ただひとつ確かなのは、私はもう「ひとりでいること」を恐れなくなったということだ。
誰もいない夜を越えたから、今こうして、過去の愛を探す旅に出られたのだ。
夜明け前の窓の向こうに、うっすらと山並みの影が見えてきた。
その姿を見たとき、不思議な感覚が胸を満たした。
まるで、遠いどこかで「からす」が私を待っているような気がしたのだ。
私は小さく息を吸い込み、目を閉じた。
バスは確かに、あの人のいる方角へと走っている。
――そして物語は、次の扉を開こうとしていた。




