第16話:秘密の扉
夜の部屋は、やけに広く感じられた。
健一と別れてからというもの、私の生活はどこか色を失ったように見える。家具も、窓から差し込む月明かりも、すべてが少し冷たくて、私を拒んでいるようだった。
でも、その虚ろな部屋の中で、私はひとり――「からす」のことを考えていた。
彼女はいつも黒いシャツを羽織って、煙草を吸うときの横顔は妙に大人びていて、それでいて悪戯っぽい。十代の私には眩しすぎた。
あの背中に落書きされた夜――「ここに印を残しとけば、もう逃げられないだろ」なんて笑った彼女の声。思い出すたびに胸の奥がざわめく。
私は、彼女のことを知りたかった。
ただ懐かしいからじゃない。
彼女の笑顔の裏に、何かを隠していたことを、私は知っていたから。
「……本当に探してるのね」
カフェの片隅で、昔の友人・直美がカップを置きながら言った。
直美は高校時代からの付き合いで、私が一度だけ「からす」に会わせたことがある。
そのときのことを、彼女は未だに覚えていた。
「忘れられる人じゃないよ。あの人」
「でも、サナ。もう十年以上前のことでしょ? 今さら……」
「今さら、なんて言わないで」私は少し声を震わせた。「からすに会わないと、私、これから生きていけない気がするの」
直美は眉をひそめ、しばらく黙っていた。
やがて小さな声で、「噂でしかないけど」と切り出した。
「からすって、本名を誰にも言わなかったんでしょ? あのバーでも、みんな仮名で呼び合ってた。……でもね、彼女には重い過去があったって聞いたわ」
私は息をのむ。
「親から……虐待を受けてたらしいの。性的なものも、あったって」
カップを持つ手が止まった。
店内のざわめきが急に遠くなり、直美の声だけが胸に突き刺さる。
「だから、男を信じられなくなったんだって。夜の世界で生きてたのも、そのせいかもしれない」
私は言葉を失った。
からすの笑顔が、次々と脳裏に浮かんでは消えていく。
あのときの彼女の無邪気さ、強さ、そして時折見せた寂しげな横顔。
――全部、演技だったの?
――それとも、あれが彼女なりの生き方だったの?
分からなかった。
ただ、ひとつだけ分かることがあった。
彼女の過去を知ってもなお、私は会いたいと思っている。
むしろ、その気持ちは前より強くなっていた。
その夜、帰宅しても眠れなかった。
ベッドに横になっても、天井のシミを見つめながら考えてしまう。
からすは、きっと人に裏切られることを恐れていた。
だからこそ、本名さえ明かさなかったのだろう。
なのに、あのときの私は――ただ彼女に守られている気がして、深く考えもしなかった。
「……ごめんね」思わず呟いた。
謝る相手はここにいないのに。
数日後、私はまた動き出していた。
直美からさらに話を聞き、古い知り合いを訪ねて回った。
からすと同じバーに出入りしていた客、スタッフ、街の片隅で彼女を知っていた人たち。
そこで少しずつ、断片的な事実が集まっていく。




