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第15話︙空白の夜

 夫と別れてから、初めての夜だった。

 リビングの灯りは、普段よりも白々しく感じられた。そこに座っているのは、私ひとり。ソファの隣の空間が、まるでぽっかりと空いた穴のように、冷たく沈んでいる。

 テーブルの上には、二人でよく飲んだ赤ワインの空き瓶が転がっていた。健一が最後に残した指の跡がグラスの縁に薄く残っているのを見つけて、胸がぎゅっと縮む。


 ——いなくなったんだ。


 その実感が、深夜になってようやく襲ってきた。昼間はどこか現実感が薄くて、手続きをして荷物をまとめる健一の姿を、映画のスクリーンを通して見ているような感覚だった。

 「ごめん」

 彼がそう言った声だけが、今も耳の奥に残っている。怒りや恨みよりも、むしろ空っぽな気持ちの方が強い。十年近く一緒にいた相手が、もう隣にいない。その事実が、私の輪郭をぼやけさせていく。


 眠れずに、私は棚の奥から古いアルバムを取り出した。ページをめくっても、健一との写真ばかりで、見るのが辛くなり閉じてしまう。ふと、胸の奥で別の記憶が動き出す。

 健一よりもずっと前、まだ二十歳にも満たなかった頃。

 夜の街で出会った、あの人の笑顔。


 「サナ、背中、ちょっと貸しな」


 そう言って、私の背中にマジックペンで落書きをした人。振り返れば、肩までの黒髪が街灯に光り、目尻をくしゃっと下げて笑っていた。

 ——からす。

 誰も本名を知らなかった。バーで出会ったその人は、みんなからそう呼ばれていた。少し男勝りで、でも誰よりも人の心の弱さを受け止めてくれる人だった。


 私は思い出の中で微笑みながらも、同時に涙がこぼれるのを止められなかった。

 どうして今、このタイミングで彼女のことを思い出すのだろう。

 健一と別れたから? それとも、私の心が無意識に、過去の「支え」にすがろうとしているのか。


 あの頃の私は、まだ未来を怖がっていた。

 恋なんて長続きしないと決めつけていたし、家庭を持つなんて想像もしなかった。

 でも、からすはそんな私に「ふくちゃんはふくちゃんのままでいい」と言ってくれた。

 あの言葉が、私の背中をどれほど押してくれたか。


 時計を見ると、午前二時を回っていた。窓の外には秋の冷たい夜風が吹き、カーテンが小さく揺れている。

 私はソファに座り込んだまま、声にならない呟きを洩らした。


 「……会いたい」


 あの人に。

 からすに。


 健一と築いた十年の暮らしは、もう終わった。

 だけど、これからの自分を支えてくれる何かを探さなければ、私はきっと前に進めない。

 その答えが「からす」なのかどうかは分からない。けれど、あの人にもう一度会いたいという気持ちが、胸の奥からせり上がってきて、私を強く揺さぶっていた。


 私はスマホを手に取り、長い間連絡を取っていなかった友人の名前を探した。

 からすのことを一緒に知っている、数少ない友人。

 「ねえ、会えない?」と打ちかけて、指が止まる。

 送信ボタンを押す勇気が、なかなか出なかった。


 でも、こうして立ち止まっているだけでは、私は一生「空白」のままだ。

 涙で滲んだ画面を見つめながら、震える指で送信ボタンを押した。


 メッセージは、静かな闇の中で小さな光となって飛んでいった。

 私の未来を、ほんの少しだけ照らすように。



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