13話:午後の陽だまり
朝の光は昨日より少し柔らかく、カーテン越しに差し込む陽射しが、部屋の中を淡く照らしていた。目を覚ますと、隣で寝息を立てる健一がいて、私はそっと息を止めるようにしてその顔を見つめた。丸くなった眉の影、長いまつ毛の先、少し乱れた髪の毛――朝の彼は、どこか無防備で愛おしかった。
「おはよう」
小さく声をかけると、健一はゆっくりと目を開け、薄く笑った。
「おはよう、サナ」
まだ眠そうなその声に、私はつい笑みがこぼれる。日常のこの小さなやり取りが、私にとっては何よりの幸せだった。
朝食を済ませると、健一は今日の予定を軽く話し、私は仕事へ向かう準備をする。コーヒーを片手に、少しだけ残る朝の静けさを楽しむ。仕事の日の朝は短く、でもその短い時間でも、互いに目を合わせ、微笑むだけで心が満たされるのを感じる。
通勤の電車に揺られながらも、頭の中には朝の彼の表情が残っている。職場では書類に追われる忙しい時間が流れるが、ふと窓の外を見ると、陽射しが春の温かさを帯びて街を照らしていた。その光を見ながら、私は心の中でつぶやく。「今日も無事に一日を過ごせますように」と。
仕事を終えた午後、私は少し早めに家路についた。今日は天気が良く、夕方前の穏やかな陽射しが街のアスファルトや木々を黄金色に染めている。家に帰ると、健一はリビングで本を読んでいた。ソファに腰かける私に気づくと、彼は顔を上げ、にこりと微笑む。
「おかえり、サナ」
その一言に、私は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。互いに言葉少なに頷き合い、しばらくの間は静かにソファに座って陽射しを感じる。陽だまりの中で過ごす時間は、まるで世界が二人のためだけに柔らかく包んでくれているようだった。
「今日はどんな一日だった?」
健一が問いかける。その声はいつも通り穏やかで、私は自然と笑顔になった。仕事の話、何気ない同僚の話、少しだけ疲れた気持ちを吐き出す。彼はただ黙って聞き、時折相槌を打つ。言葉少なでも、そこにある優しさに、私はいつも救われている。
夕方になり、二人で近くのカフェに出かけた。窓際の席に座り、外の景色を眺めながらコーヒーを飲む。健一はふと、私の手を取り、軽く握った。日常の中の何気ない触れ合い。それだけで、心の奥にぽっと暖かい光が灯るのを感じた。
「こうしている時間が、ずっと続けばいいのにね」
つい口に出してしまった言葉に、健一は少し驚いた表情を見せたあと、静かに笑う。
「そうだね、サナ。でも、ずっとっていうのは難しいかもしれないよ」
その声には、ほんのわずかな影が差していた。私はその一瞬を見逃さず、胸の奥で小さな違和感を覚える。でもすぐにその考えを押しやり、彼の手の温もりに意識を集中させた。
夜、自宅に戻ると二人で料理を作り始める。キッチンに立つと、互いの動きを自然に補い合う。健一が玉ねぎを切り、私はサラダを整える。時折目が合い、笑い合う。日常の些細な行動の中で、二人の距離が確かに近いことを感じる。
食卓に座り、ワインを開ける。軽く乾杯をし、互いの一日を語り合う。話の端々で笑い、時には真剣な表情になる。彼の瞳を見つめながら、私は思う。こんな時間こそが、私たちの愛の深さを物語っているのだと。
夜、リビングのソファに並んで座ると、映画を観ながら肩を寄せ合う。手が触れ合うたびに、心が安心感で満たされる。スクリーンに映る光が、彼の横顔を柔らかく照らす。私は静かに、でも確かに、彼の存在に感謝した。
その夜、窓の外にぼんやりと街灯が光る。風に揺れるカーテンを見ながら、私は一人心の中でつぶやく。「この小さな幸せが、ずっと続けばいい」――そう願いながら、静かに目を閉じた。
健一の寝息が隣から聞こえてくる。どんな未来が待っているのかは分からないけれど、今この瞬間は、確かに二人で共有している。そしてその確かさが、私に生きる力をそっと与えてくれるのだった。




