第3部12話:大人になったふくろう
私は三十歳になっていた。朝の光が柔らかく差し込むリビングに座り、湯気の立つコーヒーを手に取る。隣には、かつての恋人のように思い出深い、けれどもう戻れない日々の残像――旦那の姿。真面目で、明るくて、時折子どものように無邪気な笑顔を見せる。そんな彼に私はかつて心を寄せた。でも、私たちの間にはもう、距離があった。
朝の光の中で、私はふと思う。あの夜のバーで初めてからすと出会ったあの日のことを。鼻ピアス、黒髪のロング、パーカー姿。無邪気に私の手を引き、夜の街を案内してくれたあの人――からす。あの夜の感覚が、ふとした瞬間に脳裏をよぎる。心臓が少し速くなる。胸の奥に、甘く切ない感情が蘇る。
「おはよう、今日も忙しいね」旦那が言う。私は微笑む。笑っているつもりだったが、どこか虚ろだ。彼は私がどこか遠くを見つめていることに気づかず、新聞をめくっている。
結婚生活は、最初は幸せだった。彼の穏やかな笑顔、私を思いやる小さな優しさ。私は心から安心していた。けれど、日常が積み重なるにつれ、少しずつ亀裂が生まれた。会話の間に隙間ができ、理解し合えない瞬間が増えた。彼は忙しく、私は何も言えずに過ごす日々。笑顔の裏に、孤独が忍び込む。
昨日、ふと見かけた新聞の記事で、からすの名前が頭をよぎった。あの人は今どうしているのだろう。あの夜の思い出は、私の心の奥底でずっと輝き続けていた――甘く、でも切ない光を放ちながら。
旦那との生活は、形としては安定していた。食卓に並ぶ朝食、共に過ごす休日。しかし、心は離れていた。会話の終わりに、互いに無言のまま食器を片付ける夜。ふとした時に、あの夜のからすの笑顔が脳裏に浮かぶ。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。私は、自分でも気づかぬまま、過去の感情に触れたくて仕方なかった。
夕方、旦那が仕事から戻る前に、私は決心した。バッグに荷物を詰めながら、心の奥の声に耳を澄ませる――「からすに会いたい」。それは突然の決断ではなかった。長い年月をかけて、心の奥底で温めてきた想い。離婚届を前に置かれた私の手は、少しだけ震えていた。
リビングで旦那が戻ってくる音がした。私は深呼吸し、離婚の話を切り出す。言葉は冷静に、でも胸の奥は熱く揺れる。「私たち、もう別れよう」
旦那は驚いた顔をして、言葉を詰まらせる。少しの沈黙の後、静かにうなずいた。言葉は少なく、でも互いに理解し合う沈黙がそこにはあった。私たちは、愛情を失ったわけではなく、ただ歩む道が別々になったのだ。
夜になり、空は濃紺に染まる。私は駅へ向かうタクシーの窓から、街の灯りを眺める。ここからあの人の元へ――あの夜の思い出の人、からすに会いに行くのだ。心は高鳴り、胸の奥の甘く切ない感情が今にも溢れそうだった。
あの日のバーの光景、手をつないだ夜道、そしてあの人の笑顔。全てが今の私を動かす原動力になっていた。大人になったからすは、どんな人になっているのだろう。ピアスは外しているだろうか、結婚して女の子らしい装いになっているのだろうか――
タクシーの揺れに身を委ねながら、私は決意する。過去を確かめるために、心の奥底に残る甘く切ない感情に触れるために、私はあの人の元へ向かう。
そして、扉の向こうに、人生の中で一度だけ輝いた初恋の光が、再び私を迎えてくれるのだ――そんな予感を胸に、私は静かに息を整えた。