第10話 別れの日
夜の風は、やけに澄んでいた。
夏が終わるころの、湿気の少ない風。あのとき、からすと出会ったバーの扉を開けた夜も、こんな風が吹いていたのだろうかと、私は思い出す。
けれど今、私の心の中は、澄んだ風とは正反対の、重たい鉛のように沈んでいる。
――今日が、最後の日だから。
からすが、この街を離れることになった。
理由ははっきりとは教えてくれなかった。
「仕事の都合」だと、からすは軽く笑った。
それが嘘なのか本当なのか、私にはわからない。ただ、あの人の瞳の奥に、私が踏み込めない深い闇のようなものが揺れていた。
大人の事情。
私には、そう言われれば納得するしかない言葉。
駅前の広場に立って、私はからすを待っていた。
手のひらは汗ばみ、心臓は早鐘を打つ。待ち合わせの時間を過ぎても、からすはなかなか来なかった。
――来なければいいのに。
そんな身勝手な願いが、胸の奥でうずく。
会わなければ、別れも訪れない。
でも、会わなければ、きっと一生後悔する。
矛盾する思いに押し潰されそうになっていたとき、不意に人混みの中で見慣れたシルエットを見つけた。
黒髪ロング、ゆるくはおったパーカー。
最初に出会ったときと変わらない姿。けれど、鼻のピアスはもう外されていて、その横顔はどこか大人びて見えた。
「……来たのね」
自分の声が、かすれて震えている。
からすは微笑んだ。それは、夜のバーでワインを飲み干したあの日と同じ、挑むようでいて優しい笑みだった。
「当たり前じゃん。最後くらい、顔見せなきゃね」
その軽い口調が、かえって胸に突き刺さる。
駅舎の時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえる。別れの時間が迫っていることを突きつけてくる。
「……本当に、行っちゃうの?」
問うと、からすは一瞬だけ目を伏せた。
「うん。ここには、もう戻ってこないと思う」
たった一言。
その冷静な響きが、私の世界を大きく揺らした。
涙が込み上げてくる。けれど、ここで泣いてしまえば、子どもに戻ってしまう気がして、必死に堪えた。
「……私たち、どうなるの?」
声が震えた。
からすは、ゆっくりと私の頭を撫でた。その手のひらは、いつもよりも少し冷たかった。
「ふくろうは、これから自分の道を歩くんだよ。私といたこと、忘れなくてもいい。でも、立ち止まっちゃだめ」
慰めでも、優しさでもない。
その言葉は、まるで大人が子どもに告げる「別れの宣告」のようで、胸を裂いた。
「……嫌だ」
絞り出した言葉に、からすは静かに笑った。
「嫌でも、人生って進むから」
軽やかに言うその声が、いちばん重たく響いた。
やがて、発車ベルが鳴る。
人々が足早に改札を抜けていく。
「行かなきゃ」
からすが一歩、改札のほうへ踏み出した。
私は反射的に、その手を掴んでいた。
柔らかいけれど、少し固い。最初に握ったあの夜と同じ感触。
握り返してほしい。そう願ったけれど、からすは私の手をそっとほどいた。
指先から、温もりがすり抜けていく。
「……ありがとう、ふくろう。大好きだった」
その言葉が、最後の刃のように胸に突き刺さる。
“だった”――過去形。
からすの背中が人波に消えていく。
私は動けなかった。声も出せなかった。
涙が頬を伝うのを止められなかった。
でもその涙は、不思議と熱いだけでなく、ほんのり甘い味がした。
――これが、私の初恋の終わり。
別れの日の痛みと共に、心の奥底に永遠に残る記憶。