第一話 夜の出会い
四月のある夜。
街にはまだ、淡い春の残り香が漂っていた。
でも、私にとって夜は――怖かった。
子どものころから、母に「女の子なんだから、暗くなる前に帰ってきなさい」と言われ続けてきた。
その言葉は今も胸の奥で小さくざわめき、夜道に立つたびにぎゅっと心を締め付ける。
街灯に揺れる影は、人の形をしていても、どこか獣じみて見える。
湿った夜風が肌にまとわりつくたび、背筋がひやりと冷える。
足元の石畳のざらついた感触、遠くで通る車のタイヤ音、カラスの鳴き声――
すべてが心をざわつかせ、足が前に出るたび小さな震えが走った。
「怖い……」
小さく、でも確かに声に出そうになる。
でも声にする勇気はない。
胸の奥で、心臓が早鐘のように打っているのが、指先まで響く。
友人に誘われてしまったこの夜、後戻りはできない。
足は自然にバーの扉へと向かっていた。
手のひらは汗ばんで、指先が微かに震える。
胸の奥で小さな期待と不安が絡み合い、まるで蝶が羽ばたくように胸をつつく。
扉を押すと、静かな空気が迎えてくれた。
ほっと息が漏れる。
柔らかな光が漂い、外の不安が遮られたように、胸の奥が緩む。
木の香り、カクテルの甘い匂い、微かに煙草の残り香――
すべてが、この空間だけの特別な世界を作り出している。
カウンターに腰を下ろす。
そっと周囲を見渡すと――黒髪の長い女性が目に入った。
鼻に光る小さなピアス。
パーカーを羽織っているのに、背筋は凛としていて、静かに場を支配しているようだった。
目が合った瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられ、鼓動が耳にまで響く。
呼吸が乱れて、息が熱く喉に詰まる。
――この人となら、夜を歩いても怖くないかもしれない。
でも声は出ない。
喉の奥で言葉が引っかかり、勇気が出てこない。
指先の震え、手のひらの湿り、体の芯の緊張が、全身に波紋のように広がる。
そのとき、友人が私の背中に小さないたずらをした。
痛みに跳ね、心臓が大きく鳴る。
「今だ」と自分に言い聞かせ、一歩踏み出す。
「すみません……背中、見てくれませんか? いたずらされたみたいで」
彼女は少しとぼけた表情で私を見て、黙って背中を確かめてくれた。
小さく鼻で笑うその音に、胸の奥がじんわり温かくなる。
落ち着いた声で言った。
「ここではね、本名は名乗らない方がいいよ。みんな偽名で呼び合ってるから」
低く響くその声に、鼓動が跳ねる。
耳元で自分の心拍が増幅されるような感覚。
私は小さく息を飲み、震える声で訊ねた。
「じゃあ……あなたは名前がないの?」
彼女はにやりと笑った。
その笑顔が夜の静けさに潜む温かさのようで、胸がぎゅっとなる。
「からす」
短く鋭いその名前が胸に刺さる。
視線が吸い込むように絡みつき、息が止まりそうになる。
「……じゃあ、私は――ふくろう」
偽名の交換。
ただの仮の名前なのに、秘密を共有したような特別な気持ちが湧き上がる。
手が少し触れただけで、心臓が跳ね、頬まで熱くなる。
からすは小さくうなずき、私の手を取った。
手の温もりが指先からじんわり胸の奥まで伝わり、思わず息を止める。
これが――恋なのかもしれない、と胸が疼く。
「行こう、ふくろう」
その名前で呼ばれた瞬間、胸が跳ね、鼓動が耳まで響く。
怖さよりも、知らない感情――期待と緊張――が勝っていた。
夜の街灯に照らされながら、私たちは歩き出す。
足音が石畳に響き、夜風が肌に触れるたび、全身が敏感に反応する。
彼女と一緒にいるだけで、街の闇も怖くなくなる。
やがて扉の前に立ち、からすは鍵を開ける。
部屋に足を踏み入れた瞬間、胸の奥から熱い感情が込み上げる。
部屋の空気は柔らかく、少し暖かく、カーテン越しの光が肌を優しく撫でるようだった。
彼女の瞳がまっすぐ私を捉える。
視線に吸い込まれるように、自然と力が抜けていく。
肩の力が抜ける感覚と、胸の高鳴りが同時に押し寄せる。
手と手が触れ合う。
微かな震えと温もり。
指先が少し汗ばんでいて、その湿り気が胸の奥まで伝わる。
互いに「ここにいる」と確かめ合う瞬間、胸が痛いほど熱くなる。
彼女の髪の香り――微かにシャンプーの甘い香りと夜の匂いが混ざる――が鼻先をくすぐる。
布地の感触が肌に触れるたび、微細な熱さと温もりを感じる。
息遣いが近くて、心拍が耳まで響き、全身が敏感に反応する。
「……脱いで」
小さな囁きに、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
でも、その言葉を待っていた自分もいて、甘く、切なく、胸が震える。
恐怖も不安も消えて、残るのはただ――この瞬間を逃したくないという感覚。
こうして、からすとふくろう――名無し同士の初恋は、静かに幕を開けた。
夜の街の灯りが、私たちの鼓動をそっと照らしていた。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます