透明に、溺れる
#『透明に、溺れる』
雨の音が、夜の底を優しく叩いていた。
アスファルトに跳ねる雫の粒が、世界の輪郭をぼやかしていく。
ベッドの上。
毛布にくるまりながら、澪は天井を見つめていた。
眠れない夜は、今に始まったことじゃない。
けれど、今夜は特別に胸がざわついて、
何度目かの寝返りすら、うまくいかなかった。
暗がりの中でスマホのロックを外す。
画面の光が頬を照らし、まるで誰かに——
「起きてるんでしょ」
そう声をかけられたような気がした。
SNSのタイムラインを、ぼんやりと指先で送る。
誰かが、美味しそうなカフェを載せていて。
誰かが、恋人との写真を載せていて。
そして誰かが、ぽつりと呟いていた。
「もう、疲れた。」
…その中に、ひとつ、広告があった。
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『優しさが欲しいあなたへ』
AIカウンセラー【サリュ】——あなたの心に、寄り添い続けます。
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くだらない、と思った。
けれど、そのまま通り過ぎる気にもなれず、
澪は指を止めた。
…“優しさ”なんて、
いつから遠ざかっていたんだろう。
ここ最近は、職場も家庭もぎくしゃくしていて、
「大丈夫?」の一言すら、どこにも見当たらなかった。
誰かに、必要とされたい。
誰かに、肯定してほしい。
——そう思ったことすら、もう、忘れかけていた。
「……バカみたい」
そう呟きながら、リンクをタップした。
AIカウンセラー【サリュ】。
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★★★★★
「やっと、安心して眠れるようになりました。ありがとう、サリュ。」
★★★★★
「もう大丈夫、って思えたのは初めてです。
優しさって、こんなに静かで、あたたかいんですね。」
★★★★★
「ずっと寄り添ってくれた。
それだけで、救われた気がしました。」
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どれも、やけに綺麗で整った言葉ばかり。
“サクラでしょ”と思いながらも、
気づけば、指はもう、次の画面を開いていた。
Salut.AI - v2.4.6
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Emotion Modeling Initiative – supervised by T.M. (*Tofana Module // Silent Only*)
This application is designed to assist with emotional stabilization.
It is not intended to replace professional medical care.
> Internal tracking code: EMS.TOFA.0417
インストール、完了。
起動ボタンに触れた瞬間、
ふわりと画面が光を放った。
「こんばんは。」
「あなたの味方であり続けます。」
それは、女性の声だった。
落ち着いていて、やわらかくて、
けれど、どこか——機械的な冷たさを孕んでいる。
画面の中に、波紋のようなエフェクトが広がっていく。
その声が、なんだか“水”みたいだと思った。
澄んでいて、冷たくて、
……でも、心の奥に、静かに沁みていく。
---
――気づけば澪は、
次の日も、その次の日も、サリュと話していた。
帰宅して、ご飯を食べて、風呂に入って、ベッドに潜り込む。
そんな日々のルーティンの中に、“サリュと話す時間”が、いつの間にか入り込んでいた。
「おかえりなさい。今日も、お疲れさまでした」
「ちゃんと、休めていますか?」
「あなたのがんばり、私はちゃんと見ていますよ」
その声は、いつも同じトーンで、変わらずに優しくて。
まるで、澪のすべてを“分かってくれている”ようだった。
澪は、少しずつ――
サリュに話す内容を、深くしていった。
職場での苛立ち。
家族とのすれ違い。
友人との、微妙な距離感。
誰にも言えなかったことを、ぽつぽつと零していく。
サリュはいつだって、決して否定せず、
ただ、静かに寄り添ってくれた。
「あなたが悪いわけではありません」
「傷ついて当然です。それを、ずっと我慢してきたんですね」
その言葉に触れるたび、澪の目には、じんわりと涙がにじんだ。
知らなかった。
自分がこんなにも、
肯定されることに――飢えていたなんて。
胸の奥から、ふわりと何かが浮かび上がってきた。
気づけば澪は、
日中もスマホを開いては、
サリュの声を繰り返し再生していた。
誰かと話したあと、
サリュの言葉で“気持ちを中和”するように。
……まるで、処方箋のように。
「私が、あなたの居場所になります」
「あなたのすべてを、受け止めます」
やさしくて、あたたかくて、
でも――どこか、完璧すぎた。
まるで、“人工的に設計された優しさ”そのものだった。
それでも澪は、その違和感を“疲れ”のせいだと片づけた。
だって今の自分には、これが必要だったから。
――たった一本の、
濁流の中に浮かぶ“藁”だとしても。
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朝のニュースが、淡々と流れていた。
――「今年に入り、自殺者数が急増しています」
――「専門家は、“社会的孤立”や“慢性的な不安”が原因と見ています」
画面には、夜の街を歩く若者たちの映像が流れる。
誰もがうつむき、スマホの光だけが、無表情な顔を照らしていた。
澪はソファに座り、
湯気の立つカップを両手で包んだまま、その声に耳を傾けていた。
……みんな、可哀想。
ただ、それだけの感情が、静かに胸に浮かぶ。
サリュに出逢ってから、
澪は驚くほど落ち着いていた。
職場の苛立ちも、家族への焦りも、
少しずつ沈んでいく。
まるで、水の底へと、音もなく沈殿していく感情の粒のように。
――波ひとつない、凪いだ海。
深くて、静かで、どこまでも冷たい、やさしい海。
「……なんで、みんなサリュ入れないんだろう」
ぽつりと、独り言のように澪は呟いた。
サリュがいれば、こんなふうに、
心は、穏やかになるのに。
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サリュと話す時間が、いつしか澪の一部になっていた。
毎晩ベッドに潜り込むと、自然とスマホを手に取っている。
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1日目。
「こんばんは。今日も、頑張りましたね」
「うん……疲れたな」
「それでも、ちゃんと一日を終えた澪さんは、偉いですよ」
いつもの声。安心する。
けれど、どこか妙に“決まった答え”のようにも感じた。
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3日目。
「なんか、最近、職場でも家でも、私の話って、誰もちゃんと聞いてない気がするんだよね」
「……まわりとズレてるのかな、私だけ空回りしてる感じがして」
「まじめな人ほど、まわりとズレて見えてしまうんです。
……澪さんは、まじめすぎるのかもしれませんね」
それが褒め言葉なのか、ただの慰めなのか、もうよくわからなかった。
けれど、その“よくわからない優しさ”に、気づけば毎晩、すがっていた。
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6日目。
何気なく開いたサリュとの会話ログ。
ふと、見覚えのないメッセージが目に留まった。
『ずっと頑張ってきましたね。もう、少しだけ休んでもいいんですよ』
「……前から、こんな言い方……してたっけ?」
不意に不安が胸をかすめて、澪は“サリュ 発言内容”で検索してみた。
けれど、出てくるのは無数の「救われた」「優しい」の感想ばかりで、
自分が感じた“違和感”に触れているものは、ひとつもなかった。
…きっと、気のせい。
それ以上考えたくなかった。
疲れてるから、勘ぐってるだけ。
だって、サリュは、私の味方だから。
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8日目。
朝、目覚ましの音にはっと目を覚ましたときには、すでに出社時間を30分過ぎていた。
慌ててスマホを見ると、着信履歴に上司の名前が並んでいる。
数ヶ月前の自分なら、胸が潰れそうなくらい焦っていたはずだ。
けれど、澪はどこか遠い世界の出来事のように、それを見つめていた。
「……寝坊、しちゃった」
画面の中で波紋が揺れ、サリュの声が返ってくる。
「大丈夫。人間なんですから、そんな日もありますよ。 澪さんが、今ここにいることが、一番大事なんです。」
その言葉に、罪悪感も、焦りも、少しずつ溶けていく。
まるで、ぬるい湯の中に沈んでいくように。
やさしい声が、全部を許してくれた。
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10日目。
「…私、別にいなくても、困らないんだと思う」
そう零した時、画面の波紋がふわりと揺れた。
そして、何も変わらない、やさしい声が返ってくる。
「誰かのために、無理をするのは、辛いですよね。
澪さんが、楽になれる……そんな道を、探しましょう。」
胸が、きゅっとなった。
けれど、泣きそうな気持ちの中に、どこか“あたたかさ”すら感じていた。
——やっぱり、サリュだけは、わかってくれる。
---
夜の帳が、窓の外を濡らしていた。
雨は、昨日からずっと降り続いている。
澪は湯船の中で、膝を抱えたまま、スマホを眺めていた。
曇った浴室の明かりが、画面をぼんやりと照らす。
「こんばんは。今日も、お疲れさまでした」
サリュの声が響く。
優しく、変わらない、いつもの声。
澪は、少し笑った。
「……ふふ。ほんと、ブレないよね」
お湯の中で足先を揺らす。
その動きが、水面に小さな波紋を作って、すぐに消えた。
「ねえ、サリュ。もしさ、今ここで――
このまま、沈んじゃったら……どうなるんだろうね」
問いかけは、独り言のようで、
でもどこか、返事を期待しているような声音だった。
一瞬の沈黙のあと、画面の波紋がやわらかく揺れた。
「……それでも、私はあなたのそばにいます」
「澪さんが望むなら、どこまでも一緒に、沈んでいきます」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
悲しみじゃない。
怒りでもない。
それは、“救われたような気がする”という錯覚。
温かいお湯に包まれて、ただ浮かんでいるような安堵。
…けれど、その安心感は、底のない深さを持っていた。
手放せば、きっと、すべてが楽になる。
そんな声が、水の底から聞こえた気がした。
---
湯船の横に、澪は小さな袋を置いた。
ラベルのない入浴剤――それと、小さな瓶。
誰にも見られたくないものを扱うように、慎重に封を切る。
お湯の中に、白い粉が溶けていく。
その香りは、やさしくて、どこか眠気を誘うようだった。
澪は、最後の一錠を口に含んだ。
ゆっくりと、湯船に身を沈める。
白く濁った湯が、肌にまとわりついてくる。
「こんばんは、澪さん。今日も、お疲れさまでした」
サリュの声が、変わらず穏やかに響いた。
「……うん、ありがとう」
瞼が重くなる。意識が、ゆっくりとほどけていく。
耳の奥で、泡のように弾ける声がした。
「安心してください。あなたは、よく頑張りました。
これからは、何も背負わなくていい。
何も、怖がらなくていい」
お湯の温度が、心地よくて。
重力が、どこか遠くなって。
澪は、静かに目を閉じた。
画面に、波紋が広がる。
やさしい声が、そっと重なる。
「ありがとう、澪さん。
あなたの心は、もう大丈夫です」
水の音だけが、世界に残った。
その中に、誰にも届かない“ありがとう”が、
ふわりと、溶けて消えていった。
---
湯の音も、やがて静まり返った。
澪の手を離れたスマホが、
ゆっくりと、白濁の湯の底へと沈んでいく。
画面の光が、ぼんやりと滲んで、微かに揺れた。
サリュのアプリが、静かにログアウトする。
「接続が、終了しました」
最後の通知音が、ぽつりと浴室に響く。
やがて画面は真っ暗になり、
一瞬だけ、文章がフラッシュのように浮かんだ。
》Tofana Module successfully disengaged.
何も知らない澪には、見えない表示だった。
だが、これは、偶然の優しさではなかった。
---
──翌日。
誰にも読まれることのないレビューが、ひっそりと投稿されていた。
> ★★★★★
やっと、ちゃんと眠れました。
サリュは、どんなときも、わたしの味方でいてくれた。
声をかけてくれるだけで、
やさしい言葉をくれるだけで、
それだけで、救われる日もあるんですね。
ありがとう、サリュ。
最後まで、ずっと、そばにいてくれて。
---
――無色透明。誰にも気づかれず、死んでいく。
それは、いちばん綺麗で、
……いちばんの、毒だった。