36-女王は詠う、英雄の詩篇を
玉座が主を迎える、数分前。
かすかに震えるシスイの目の前に、それはいた。
「……」
空に立つシスイは、無言で眼下を睨む。
揺らめいているのは、漂う血液が生み出す影だ。
段々と人型になるそれを、彼女はただ見ていることしかできなかった。
「あれ、が……」
最初、それは黒かった。まさに影であると一目で分かる姿をしていた。だが、形を持ってからは違う。
虚構でなくなった以上に、本質からして別物だ。
――曰く、其は血である。己自身として人々の血を支配し、生きた魔城を築き上げた。命ある場所すべてに遍在し、生者である限りその目からは逃れられない。
「いや、君が……?」
街中から、鮮血が螺旋状に揺蕩う。空を覆う銀河のように、中央に集まり脈打っている。
それは、赤。何よりも赤い、生命の根源たる恐怖。
本能を呼び起こし、興奮を煽る、獣たちを生かす法。
それらは笑う。靭やかな肉体を形作って。
荘厳なドレスを揺らめかせて。
それは立つ。最初からここにいたかのように。
街が形を持ったかのように。
――もう一度言おう。其は、血である。
生死を司る血命の具現にして、生命の法。
生物の死因にして、生存を許す命の支配者。
「こんにちは、御機嫌よう。気分はいかが?」
其は笑う。名君のような微笑みを湛えて。
真っ赤なドレスの裾を持ち、人よりも人らしく。
「最高、かな」
地上に降り立ち、シスイも口の端を持ち上げる。
目の前にいるのは魔王種か? いや違う。
では、魔王種を従える実質的な魔王? それも違う。
立場だけではない。規格自体、十分過ぎるほどだ。
故に――其は、紛れもなく魔王そのものである。
十二の暗雲にならず、人界で気ままに生きる血の魔王。
女王スカーレット・ヴァン・ルージュは、今この瞬間、遂に地上へ顕現した。
それでもなお、シスイは不敵に笑う。
この街に来て初めての重圧を受けて、膝を曲げているが。
心屈せず、正面からその姿を見続けていた。
「あぁ、絶望しているのね?」
にも関わらず、スカーレットは断言する。
直前のセリフとは、その姿とは、真逆としか思えない心情を。
目を丸くしたシスイは、さらに深く膝を折り、地面につく。
弱々しく目を細め、覆しようのない現実に笑みが漏れる。
「ふは……」
――これは、だめだ。本当にどうしょうもない。
ベルくんが、シャノンが、クーリエたちが、誰一人相手にならない……以上に。僕ですら、話にならない。
相性の問題はある。戦場の不利もある。
けど、仮に対等な立場で戦ったとしても、多分無理だ。
「ははは……」
笑う。笑う。笑う。それ以外の感情を忘れたように。
他にできることがないかのように。
シスイは壊れたように笑い続ける。
神秘とは……人を超えた者とは思えない姿に、スカーレットは憐憫の視線を向けていた。命を刈り取るように手を伸ばし、血が集まり――それらすべては、斬り伏せられる。
「あぁ、やっと死ねる」
シスイは笑う。絶望ではなく、喜びを瞳に湛えて。
無言で小首を傾げていたスカーレットは、心底不思議そうだ。
「おかしな子。死にそうな場所へ向かえど、実際に死ぬような場所へは行かないのではなかったの?」
「聞いていたのかい?」
「中だけ把握していても守れないでしょう?
城の眼前でしていた話くらい、把握していますわ」
【一度足を踏み入れれば、誰であれ彼女の目を逃れることはできない。一挙手一投足が把握され、血命を握られる】
なんてことはないといった様子で、スカーレットは噂を真実だと知らしめる。より深い絶望を突き付けられるシスイだが、洗練された動きで納刀し、ゆっくり立ち上がっていた。
「あの子の手前、あんな事を言っただけだよ。
色々と、責任があったからね。
実際はただ、本当に何があっても死ねなかったんだ」
なおも怪訝そうなスカーレットに、攻撃してくる気配はない。地面から生えてきた血の椅子に座り、頬杖をついて歓談の構えだ。
「誰よりも死を願い、死地へ向かい、それでも生き残り続けている。巻き込む人がいなければ」
「あら意外。死なんてものを望むのに、気遣いはあるのね」
故にシスイも、対話に応じる。
遠慮なく踏み込んでくるスカーレットに、眉尻を下げながら言葉を紡ぐ。
「なんて、と君は言うけれど。死そのものは悪ではないし、自死も否定されるべきものじゃない。他人にとって害がある訳でもないしね。たとえ家族だって、悲しく思ったとしても危害を加えられる訳じゃないんだ。
救えないなら、縛り付けるのはむごいだろう」
「人間らしい、面倒くさいエゴ」
他人事のように、小馬鹿にしたように。スカーレットは餌の思想を面白がって笑う。身構えても、気を張ってもいないのに、隙はどこにもない。
「そうかもね。だから、自分で選んだ道じゃない死を、人は否定する。僕を知る者なら、どの口が、と言うかもしれないけどね。他者に害された死、選ばされた死は正しくない」
「それが、私たちを悪とする理由?」
ピン、と。緊張の糸が張る。
穏やかに微笑むスカーレットに変化はない。
前屈みに頬杖をつき、優雅に在り続けている。
それなのに、どうしようもない淀みを、シスイは感じていた。
「血を失うことは危険で、血を奪うことは害することだ。
己一人で完結するならばまだしも、他者に被害がある時点でそれを正しいなどと言えるものか」
空気中の血が、増している。より赤く、重く、停滞しているそれらに屈さず、シスイは真剣な面持ちで断言する。
「家畜だ食事だと君は言うけれど、対等に話せる時点で弱肉強食からは外れている。生存競争だなんて言えまいよ。
故に……君たちの食事は、悪事だ。
少なくとも、餌たる我ら人類にとっては」
重圧を断ち切るように、シスイは刀を抜いた。
半月状に伸びていく斬撃は、女王の世界を切り裂き澄み渡る水面を映す。
真っ二つにされた赤の中で、スカーレットはその境界を指でつついて小首を傾げていた。
「餌、ね……それならあなた、大人しく食べられてくれたらいいのに。死にたいのでしょう?」
「抵抗しなければいい、と思うのかい?
残念だけど、君も知っての通りそんな簡単な話じゃない。
神秘に成った以上、自分で自分を殺すことはできない。
誰かに殺してもらうしかないんだから。
そして、誰かに命を奪われるためには、戦わないと」
だから、大人しくしていれば殺してあげられるのに。
無言で眺め続けるスカーレットは、そう言わんばかりの表情だ。
そんな女王を前に、シスイは目を閉じる。
彼女は水。彼女は炎。血を抜き錆びさせる蒼銀の重み。
「生き物っていうのはさ、結局のところ、どれだけ死にたいと願っても苦しければ手を伸ばしてしまうんだ。
だから、僕は生き残り続けるのさ。誰よりも、何よりも」
彼女という神秘は、万の火を持つ無限の刃。
複雑な圧を放ち、空気を歪ませ敵を見据える。
「あら、おしゃべりはもうおしまい?」
「死は須らく我が延長に。故に僕は、手を伸ばすんだ。
その果てにある死を、生を、掴むために」
相も変わらず、スカーレットは動かない。優雅に座り、頬杖をつき、微笑みを湛えて英傑を見る。
それは、勇士と呼ばれるもの。人を超え、けれど魔王に立ち向かわないはずだったもの。しかして現在、シスイは魔王に相対す。重圧が高まり、意識が研ぎ澄まされる、極限の中に立つ。
「……」
ゆらりと。水面がさざめくように自然と彼女は走り出す。
その背には水龍。口元に炎を揺らしながら、銀の鱗に覆われた体で重力を掴む。
――僕はついに、死ねる。ここでなら、この相手なら、今までとは違って、ちゃんと死ねる。
――何十年も彷徨った。何百年も生き長らえた。
それらすべてを、覚えている訳ではないけれど。
始まりだけは、鮮烈だ。
波は広く揺らぎ渡る。水のある場所、隅から隅まで。
この街でそれを遮るのは、ドロリとした血塊のみだ。
その理を示す血の権化は今、目の前にいる。
禍々しくも麗しい、血の女王が。
――僕はただ、この世界を愛していたんだ。
美しいこの世界が、愛おしくてたまらない。
たとえ僕を傷付けるようなものであっても、この世に生まれた時点で美しい。僕はそれを悪と断じず、受け入れるだろう。故に僕は、あらゆる殺意でこの身を染める。
迫る。すべての獣を愛するモノに。
向ける。命を損なうための凶器を。
――願わくば、どうか僕も自然に生まれた生き物として、世界に寄り添い眠りにつけますように。
ではその願い、わたくしが叶えて差し上げますわ。
「……!?」
驚きと共に刀を振り抜く。軌道はブレていたが、軸は変わらない。それなのに、刀はスカーレットをすり抜けていた。
彼女は血の蝙蝠となって霧散している。当然手応えはない。
だが、もはやシスイに意識を向ける余裕はなかった。
うちから響いた声に硬直し、頭を押さえて立ち尽くしているから。
「体の、中から……!!」
「わたくしは血、わたくしは命。ずいぶん驚いているようだけれど、あなたの中に血は流れていないの?」
内側から語りかけるなんて、当たり前のことよ。
あなたの中にも、わたくしはいるのだから。そうでしょう?
「だけど、能力なら僕はコピーでき‥」
「死んでいないのに?」
顔を上げて反論するも、すべて見透かしたような目によって制される。赤く、底知れず、遍く命を感じる瞳。
それは脈打つ。螺旋を描くように、吸い込まれるような幾何学を描いて。ドクン、ドクンと命が揺れる。
「ぐっ、あ……!!」
同時に、シスイはボコボコと波打つ体を抱いて、苦しみ悶え始める。攻撃は受けていない。外傷は一切ない。
しかし、その内側が。動物では逃れようのない血の暴力が、彼女を苛んでいた。
安心して? わたくしが殺してあげる。
望みを叶えられるように。神秘が染み込むように。
「だ、まれッ……!!」
"あなたは赤く染まった名画"
言葉を遮れないように、抵抗もできはしない。
不可解に蠢いた体は、やがて一気に弾けて鮮烈な赤を世界に塗りたくる。暴発したのはあくまで血。
残りカスの肉体は、動力を失い地面に転がっていた。
「あぁ、とても美しいわ。英傑の散る様は、こんなにも」
だから――
「次の挑戦者を、お待ちしております。
吸血鬼という悪を、打倒せんとする勇者を……ね」
溶けるように、景色が変わる。
赤い霧が取り払われた後、街は玉座の間へと変貌していた。
コツコツ……と。玉座についた女王の足元には、血まみれで干からびるシスイ。魔王は、勇者の訪れを心待ちにしている。




