1-抵抗者
人類はもうとっくに負けている。
何百、何千年前の話かなど大多数が知らないが、今の人々はほとんどの場合、ただ見逃されているだけだ。
決して脅威にはなり得ないから、むしろ食料や暇潰しとして使い勝手が良いから。あの、大自然そのものと言える超常の魔王たちにとって、その程度のモノでしかないから。
そんなこと、わかりきっているはずのことだった。
「……はぁ」
乱雑に枝葉が散らばる茂みの中で、1人の少年が震える息を吐く。背後の木に寄りかかっている彼は、どうやらケガしているようだ。赤く染まった左腕を抑えて天を仰いでいた。
ケガをしていて、荒い呼吸をしていながらもできる限り息を殺し、隠れている。それだけで、大体の状況を察するに余りある様子だ。
周囲に目を向けてみると、枝葉どころか倒木すらも散らばり、かろうじて立っている木々も裂傷ばかり。
森はもう、原形を留めていない。明らかに何かが暴れていて、空気は緊迫としたものになっていた。
そして、その何かはまだ近くにいる。
異常な地響きが森を揺らしていることから、ほぼ間違いない。一瞬でも気を抜けば命を落としかねない、危険な状況だった。
しかし、そんな中に1人でいる少年は、少し呼吸を落ち着かせただけで立ち上がる。恐怖を弾き飛ばす程の目的があるというのか、彼の目はまだ輝きを失っていなかった。
「まさかこんなヤバい奴とは思わなかったけど、どうせオレにできることなんてほとんどないんだ。みんなに、少しでも報いないと」
額から垂れてきた血を拭いながら、地面に置いていたナイフを拾う。目を閉じて深呼吸を繰り返している姿は、冷静さを失っていたり自暴自棄になっているようには見えなかった。
「目だけでもどうにか潰す。それが無理でも、拐われた人達を絶対に助ける。ここまで育ててもらった上に、ただ守られて穀潰しになるなんていやだ」
まだ成人していないどころか、成長期を迎えているかも怪しい少年は、小さくて筋肉もそこまでついていない。本来ならば、そんな責任を負う必要などないはずだ。
それこそ、先程漏らしていた家族に育ててもらって守られるというのは、至極当然だと言える。
だが、彼にとっては負い目を感じることなのだろう。
少年は小さくつぶやくと、覚悟を決めた様子で目を開き……
「……」
「いっ!?」
こちらを覗き込んでいた、自身の5倍はある巨大な熊と目を合わせた。刹那の沈黙。
直後、血の匂いを辿ってきたと思われる魔獣と唐突な出来事に硬直していた少年は、正しく相手を見定めて動き出す。
「うわぁ!? さっきの魔物!!」
「ニンゲン、マダイタ。タクワエル」
熊は巨大だが、少年の位置をしっかり確認してから動き出しているため、動きは正確だ。
くぐもった声を出しながら腕を振り、とっさに転がって避けた少年をかすめて木を薙ぎ倒す。
爪に残った血を舐めるそれの目の前で、木々は少年を逃さぬように巻き込んで次々と倒れていた。
「――っ!! あんなもん食らったら即死だって、バカ!!
かすっただけでも……致命的だ、ちくしょう」
なんとか初撃を回避した少年は、赤く彩られる葉っぱを巻き上げながら、追撃に備えて振り返る。
元々左腕をやられていたが、回避しきれなかったことで脚もザックリ引き裂かれ、もう逃げ切ることはできない。
どちらにせよ、逃げ場を奪うように倒木が積み重なっていたので、関係ないといえばないが……
自身の赤や鉄の匂いに包まれる中。段々と血色が悪くなっていく顔で、恐ろしい獣をただ見上げることしかできずにいる。
「……」
「ウマウマ。オスハ、クイゴタエアル」
対して、狩りをする立場の特権として血を口にできた熊は、表情ではわからないながらご機嫌な口ぶりだった。
人のように二足歩行を保ち、人のように喋り、しかし人ではありえないことに口から炎を漏らしている。
逃げ道を塞いでいるのに、油断もしていない。
血の味に夢中になっていながらも、まったくまばたきをせずに少年を見据えていた。
彼にできることといえば、もう大人しくこの魔獣に食べられてしまうか、最後の悪あがきをすることくらいだろう。
だが、案の定その瞳から光は失われていない。
決して勝てない相手を前に、まだ一矢報いようと思考を巡らせている様子である。
「……」
「チガウ。タクワダ、タクワエ。スノソトデニンゲンガミツカルナラ、ソレニコシタコトハナイ」
人の味をじっくり味わっていた熊だったが、気を取り直すと再び狩り取る体勢になる。元々、逃げる隙などなかったのは言うまでもない。
ただの人間の子供でも感じ取れるほど、死が間近まで迫ってきただけだ。
「……」
「ニクガダメニナラナイヨウニ、テイネイ二コロサネェト」
呼吸を忘れる少年の前で、人を食肉としか見ていない魔獣は動き出す。その動きは巨体には似つかわしくないほど速く、鋭い。
ほんの数十秒前、瞬く間に木々を薙ぎ倒した時と同じように、まばたき一瞬のうちに腕が振るわれた。
「っ……!!」
しかし、運が良かったのか集中力の賜物か。
腕はまたもギリギリのところで少年から外れ、背後を砕く。
背中はかすって殴打され、飛び散った岩なども当たっているが、彼自身は致命傷を受けずなんとか無事だ。
「ンア?」
しかも、それだけではない。見事に死線をくぐり抜けた少年は、そのままの勢いで次の行動に移っていた。
たとえ武術を極めていたとしても、この状況では恐怖で避けることすら難しいはずなのに。
恐れがまったくないのか、それを凌駕するほどの覚悟を決めていたのか。
彼は逃げるのではなく、前に向かう。
大人顔負けの勇気を以て、首を傾げる熊に接近していく。
盛り上がった地面や倒木なども利用し、伸ばされた熊の腕を伝い、状況を変えるための一手を。
「目だけでももらっていくぞ、化け物がーッ!!」
渾身の力で刺したナイフは、狙い違わず目に命中する。
あまりに予想外の行動だったのか、熊は避けることもせず目を潰されていた。
「っぁ……!! はぁ、はぁ」
ナイフを引き抜けなかった少年は、唯一の武器を手放すことで至近距離から脱出し、転がって距離を取る。
振り返って初めて動きを止めると、目に刃物が刺さったままの熊は不気味なほどゆっくり顔を向けているところだった。
「ムググ、ヤハリオイツメルトメンドウダナ」
落ち着いてからしっかり確認してみても、ナイフはたしかに熊の目に刺さっている。間違いなく潰れているはずだ。
それなのに、熊は悲鳴を上げないどころか、痛そうな素振りすら見せていない。淡々とぼやきながら、傷が開くのも構わず目を動かしていた。
おまけにその傷跡からは、血の代わりとばかりに少しずつ火の粉がチラチラと顔を見せていて……
「いっ!?」
次の瞬間、傷口から溢れ出た炎は全身に広がり、熊は炎そのもののような流体になって、細く少年に飛んでいく。
目に刺さっていたナイフなど、なんの意味もない。
何事もなかったかのように抜け落ち、燃えるだけだ。
炎と化した熊は、蛇のように彼の周りを囲って炙り、半分だけ実体を持ったような状態で再び腕を振るう。
「っ……!!」
ただの熊であったとしても、体格差があってまともに太刀打ちできない相手だ。それが炎になるような化け物であれば、もう少年には目を瞑ってその時を待つしかない。
既に一矢報いた後だからか、さっきまでとは打って変わって無抵抗に引き裂かれようとしていた。
「……?」
だが、いつまで経っても苦痛に襲われることはなかった。
不思議に思った少年が、恐る恐る目を開いてみると……
「……」
「オマエ、ナンダ? イツノマニアラワレタ?」
彼と熊の間には、いつの間にか立派な剣を持った見知らぬ子どもが立っていた。しかもどうやってか、元の形のまま体を炎に変化させている熊を……その腕を斬っている。
断面は赤く、先程ナイフで目を潰した時とは違ってちゃんと血が出ているようだ。有効打を受けたことで動揺したようで、熊もどことなく落ち着きがない。
早くも傷が塞がった目をギョロギョロさせながら、全身を炎に変えて海のように全方向から2人に襲い来る。
「うわぁぁぁっ!?」
「……お前、困ってるか?」
「はぁ!?」
「お前、困ってるか?」
「死にかけてるんだから当たり前だろ!?
こいつを倒せるなら、早く‥」
「お前は、助けてほしいのか?」
「っ!! 何でもいいから、助けてくれ!!」
広がった体を制御するのは大変だったのか、炎のスピードがそこまで速くなかったのが幸いした。
突如現れた子どもはマイペースに質問していたが、ギリギリのところで要請は間に合い、炎は霧散する。
断末魔のように炎がうねった後。少年の目にはキラキラと光る炎の粒と、それをまとう恩人の姿が映っていた。
しかし、傍からは輝いて見える子の横顔は、とても化け物に立ち向かった勇敢な者には見えないもので。
尻餅をついている少年は、直前までの危機も合わせて呆然とその神秘的な姿を見つめている。
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どれだけ見つめても、この子がなんなのかはまったくわからない。熊を殺してもなんとも思っていないようで、微動だにせず虚空を見つめている。
1つだけ確かなのは、助けてくれたその人はオレと背もほとんど変わらないくらいの子どもということだ。髪はやや汚れていながらも柔らかそうで、同じく魔獣の返り血を浴びた顔も、性別を超越した綺麗さ。
だけど、オレとは比べ物にならないほどに強く、存在感があり、頼りになる人で――
そして同時に、何を考えているのかわからないような無表情で、死んだ目をした人だった。