都会で遭難しそうなんだ
酔っ払いとは、気持ちだけやたらと大きく、赤ちゃんなみの思考能力を持ちあわせたおっきなおともだちのようなものなんだ。
気持ちは大きいので、やたらと即断即決する。根拠のない自信と共に。
自分はお酒を呑んでいても、こんなにとしっかり意思決定できている、即決即断、すごい、俺、酒強い、俺最強。ウェーイ。
みたいな思考回路である。
いつの日だったか、東京都内にも大雪が降っていた日があった。電車は停まっていたし、そうでなくとも大幅な遅れが発生していたり、振替輸送の情報が流通していたりと、都会の交通網は完全に麻痺していた。また、朝にかけてずっと雪が降り続くことも知り得ていた。
そんな日であっても「終電廃止政策」の施行により帰りの電車を心配しなくても良い、なんなら電車が停まっていようがどうなろうが、タクシーでも帰れるし最悪歩ける距離に本陣を構えていた僕は、意気揚々と「え、雪が降ってるからなんですって?」といった表情を携えて、いつもの酒場へ出陣する。
少なくとも世間は、そんな状況であるという情報を踏まえた上で乗り込んだ。
さすがに新宿ゴールデン街も閑散とした雰囲気だったけれど、同じような好環境にいる人たちなのか、あるいは呑みたいという気持ちだけで動いている歴戦の猛者たちなのかは定かでないが、静寂の中にも勇敢に酔いどれている民たちはいるものだ。
もちろん閉めている店もあるのだけれど、オーナーが直接店主をやっているような店(ようするに雇われじゃない中の人)は、閉めてもやることないし……というマインドで普通に営業しているところも多かった。オーナー連中の多くはゴールデン街付近に居を構えているから移動にはさほど影響はないし、ニュージェネレーション以前のオーナーたちの中には、そもそも店に住んでいるような人たちも多かったみたいだしね。
僕の行きつけもそんな雰囲気で、店主が一人で暇そうにしつつも笑顔で待ち構えていた。
「いらっしゃい。今日はさすがに誰も来なそうだよ」
「でしょうね」
「多分ずっと貸切だから、朝まで頑張ってよ」
「ははは。お邪魔します」
店主と僕の会話。「頑張ってよ」という言葉の意味をお分かりになるだろうか。
呑み屋の世界では、客がなじみになってくると、一杯注文すると同時に、客側が「一杯どうぞ」など言わずとも、中の人にも自動的に一杯ご馳走が入る(暗黙の)仕組みになるようなこともある。
キャバクラやガールズバーのようなところだと、さすがにキャスト側から「一杯もらうね」の一言は礼儀やルールとしてあるけれど、それすらなくなる関係。2つのグラスにお酒を注いだあとに、笑顔で形上の乾杯だけして、あるいはそれすらなくアイコンタクトのみで、チャリーンって原始(?)マネーが決済される夢のような未来のシステムだ。
もちろん他にも同じような常連客がいれば、その順番も客連中の間でじゅんぐりじゅんぐり回ったりするのだけれど、この日のように貸切状態になると、僕が頼めば店主にも一杯ということになり、一度で二杯ずつ注文するような格好になる。一杯で二度美味しい? また、店主側はほとんど接客する気もなく、また存分に酔っ払えるものだから、いつもより二人のペースも上がる。
別にそれに異を唱えることはない。若かりし頃は逆に散々よくしてもらったのだから、金回りがよくなってからは恩返しモードに入るのはあるべき姿。ゴールデン街の呑み屋の一杯の値段なんてたかがしれているし、そんな安銭を気前よく使えないようでは気持ちよくもない。また一緒に同じペースで呑んで酔っ払える仲間がいた方が、こちらも楽しいのだ。
途中、
「雪積もってきたっぽいね」
「朝までにはやむんじゃない。まあ、どっちみちタクシーで帰るけど。あ、もう一杯」
「あいよ。タクシーは通ってないんじゃない?」
「タクシーいなかったらアルコールで雪溶かしながら歩いて帰るよ」
なんて頭の悪い会話をした気もする。
結果として、その日は朝までに他に数名のお客さんがちらほらと、来たか来なかったか程度でクローズすることになった。
店主とほぼマンツーマンで半日飲み続けた僕は、さすがにグデングデン。
口は回っていたが、あいにく目も回るし地球はもっと回る。グルングルン。
ちなみにお腹はタプンタプン。
「大丈夫? 気をつけて帰ってよ」
「今日も楽しかったあ。タクどっかで捕まえるよ」
「いやあ、いないと思うよ」
「いないかな。まあ、歩いてもすぐだし。おつかれいっ」
そんな調子で、初めて外の様子を己のまなこで確認する酔っ払いを待っていたのは、一面の銀世界。ふかふかの雪。積もりまくっている。
雪が積もり切る前に帰るべきだったところで帰らなかったのが最初の判断の。
こんな状況でもタクシーで帰れるはずと思い込んでいたのが次の誤り。
最悪歩けばいいやという気の大きさと、自分の体力、積もった時の雪のヤバさを計算できなかったのも同じく。
そもそもでいうと、こんな日に普通に呑みに来てしまっている酔っ払う前の判断も誤っていたわけだけれど、日常的に脳がアルコールに支配されていると、そういう決断を下してしまうんだ。アルコールが指令しているのであって、自分の意思はそこには介在しないのかもしれないけれど。
普段なら新宿区役所通り沿いにノロノロと走っているタクシーの車列はなく、というか人影すらもどこにもない。ひとっこひとり歩いていない。
「呑み屋で一晩明かしたら、突如として人類が消滅した世界にひとりぼっちで転生した!」
異世界転生モノの安いSFのタイトルが思い浮かんだ。
往生際の悪い僕は、ポイントポイントでタクシーを探しながらも、少しずつなんとか家に近づこうとするのだけれど、ただでさえ千鳥足な上に大雪に阻まれほとんど前に進めない。
いや、千鳥足レベルではない。もはや左右どころか天地の区別もついていない状態。
ところどころ壁や看板にぶつかりながら、ぶつかった衝撃で自分の進路を補正して進むというなんとも傍迷惑な酔っ払いゾンビ。ドランキングウォーキングデッド。
歩道をまっすぐには進めず、ヨタヨタと車道にはみ出ては、そのままずっこけて。立ち上がれずにヒイヒイ言いながら、なんとか立ち上がってヨチヨチと歩を進める。そんなふうだったものだから、その瞬間が、車という文明の利器が都会の大雪障害を乗り越えた後の世界であったのならば、片手で数えらない程度には命を落としていた可能性が高い。
その当時は北新宿あたりに住んでいたので、ゴールデン街まではだいたい2キロぐらい。平時であればゆっくりと歩いて三十分弱ほどの距離なのだけれど、二時間近く彷徨って、ようやく家路の半分ぐらいまでたどり着いたあたりだっただろう。
そこで力尽きた。
本当に動けなくなった。寒くて寒くて凍えそうだった。誰か通りがかっていたら「助けて」なんて声をかけかねないレベルで弱っていたけれど、幸か不幸か、見渡す限り人影はどこにもない。なんせ、人類が消滅した後の世界に転生しているのだから……。
〈このまま都会のど真ん中で遭難して死んじゃうのかな〉
真剣にそう思いつつ、僕は泣いた。本当に泣いた。死ぬんだなって思いながら泣いた。ワンワンと声こそあげなかったけれど、泣いたんだ。大の大人が泥酔して都会の雪に埋もれ、家まであと一キロのところで遭難して死ぬんだと思うと、悲しくて、悔しくて、泣いた。おっきな男の子が泣いた。母ちゃんの顔も目に浮かんで、さらに泣いた。
ひとしきり泣いて、泣いてもどうにもならない現実に打ちひしがれ、そのまま眠ってしまいそうになったのだけれど、どこからか「おい、雪山で寝たら死ぬぞ……」という言葉がリアルに想起され、這いつくばるように再び家を目指す。
ここはエベレストかよ。シンジュクマウンテン。
どの程度時間がかかったのかは覚えていないけれど、なんとか家にたどり着いたようだ。溶けた雪なのか鼻水なのか涙なのか、なんだか分からない顔面の水分だけタオルで拭い取っただけで、そのままベッドに倒れこむようにして眠った。
「都会の雪道で、遭難しそうになっていた情けない男がいた、そうなんですよ〜」
「なあにぃ! 酔っちまったな!」